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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「宇宙即我」と「一念三千」の…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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6  仏法は「三世の生命観」が大前提
 屋嘉比 ところで最近の医学界でも、高齢化社会を迎え、「人間いかに老い、死ぬか」ということが、大きなテーマになっています。
 池田 屋嘉比さん、日常の老化の目安なんかありますか。(笑い)
 屋嘉比 研究した人がいます(笑い)。たとえば、
 一、最近のことを忘れやすい
 二、急ぐときイライラしてくる
 三、自己中心的に考える
 四、昔のことをよくしゃべる
 五、愚痴っぽい(笑い)
 まだほかにもあると思いますが。(大笑い)
 池田 いや、お年寄りでなくとも、ときどき見かけますね。(笑い)
 あるフランスの作家が、
 人生を川の流れに譬えるなら――
 青年時代は「ほとばしる急流」のごときものである
 中年は、「滔々とした流れ」になる
 そして老年は、すべてを包みこみ、悠々と景色を川面に映しゆく「鏡のような大河」となり、“大海”へそそぎ込むようなものだ
 と言っていた。
 私はたいへんに感銘を受けた言葉です。
 ―― 本当にそうした充実した一生を歩みたいものですね。
 池田 御文に、「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり」とあります。これは身体が「不老不死」ということではありません。(笑い)
 ともかく人生は限りがある。この限りある一生を瞬間、瞬間、いかに楽しみながら、いかに価値あるものにしゆくかが人生の目的といえるのではないでしょうか。
 さらに、その瞬間、瞬間のなかに、永遠をもはらみゆく自分自身を覚知しながら、この人生を満喫していくことができるのが、「妙法」なんです。
 ―― ある著名な学者は、「各人が非常に平静な気持ちで死を迎えられるような社会をつくりあげていくことも必要である」と語っていましたね。
 屋嘉比 どちらかというといまの社会は、ますます逆行している感がある。人を人とみない経済優先、利害優先の弊害でしょう。
 池田 重大問題です。当然、それは政治・経済次元の問題でもある……。
 しかし、一歩つきつめてみれば、哲学、宗教の問題ではないでしょうか。
 なぜならば、生死を直視しないことは、ほかならぬ自分自身を直視しないことになる。
 それでは、確固たる自分観の確立も、心広々とした生き方もなしえなくなってしまうからです。またそれは、その人自身の人間観、社会観と表裏一体の問題であることを、人は知らねばならないでしょう。
 仏法では、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い」と、人生の根本問題として説かれているわけです。
 屋嘉比 鋭いです。すると、仏法は「三世の生命観」を大前提としていると考えてよろしいのでしょうか。
 池田 そのとおりです。この「三世」という生命観を、見事にとらえ、宇宙と生命の完璧なる法理・法則を打ち立てたのが「妙法」と私は思います。
 このへんはまたいつかお話ししたいと思いますが、つまり、人間も、動物も、植物も、地球も、さらに宇宙もが「成」「住」「壊」「空」の法理に則り、永久に流転している……。
 しかし人は、物質の世界の法則はわかっても、根本の生命の「因果の法」はわからない。
 そこに明確なる解答と、人生の生きゆく指標とを提示しているわけです。
7  西欧の学者が迫った生命の「我」
 池田 私が感心したのは、西欧の学者のなかにも部分観であっても、仏法の生命観に迫っていった学者がいるということです。
 たとえばイギリスの生物学者、ジュリアン・ハクスリーは「死」について、「あらゆる働きが非物質エネルギーとして精神的実在の貯蔵庫へと戻っていく」といったことを述べておりますね。
 ―― ハクスリーには、仏教の「業」についての著述がありますからね。
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセは、「死ぬことは、一人の人間を超えた集合的な無の一部である」とも言っておりますが。
 池田 そのとおりです。けれども、スイスのユング博士などは、一歩進んで、「肉体的な死を超えて、心のなかのなにものかがつづいていく可能性がある」と主張していたのではないでしょうか。
 私は、たいへんに鋭い洞察と思ったことがあるんです。
 屋嘉比 ユング博士は、生命の「我」の存在をすでに信じていたと言われておりますね。
 池田 ロンドン大学のリス・デービッズ教授は、「われわれは、エネルギー不滅の法則を熟知している。ゆえに仏教の教理をも容易に了解することができる」と言っている。
 まあ、「了解」という言葉の意義が西洋流でおもしろい。(笑い)
 ―― 信ずると言わないのが学者らしいですね。(笑い)
 池田 まだまだいろいろあると思いますが、長くなりますので、なにかの機会にお話ししたいと思います。
 屋嘉比 じつは私も、たいへんに興味をもったことがあります。それは、東大附属病院の院長であった方が、親友の医師の死について語っていた一言なんです。
 “自分も彼も、無宗教である。霊魂も、肉体を離れた精神も信じない。しかし、じつをいうと私は、彼個人とはまったく別の彼の「我」が存在すると考えている”と話していたのです。
 ―― なにか経験と思索のうえから、直観的なものがあったのでしょうか。
 池田 それにしても、かつてトインビー博士が私に言われていたことを思い出しますね。
 それは、「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けてとおっている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決法は見いだせない。私はこの道を高等宗教、なかんずく大乗仏教に求めてきた」と――。
 この言葉は、終生忘れることができませんね。その課題に真正面から取り組んでいるのが、私たちであると思えば、無量の誇りがわいてきます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 三世の永遠の生命の探究と、その大法を弘めていくことに生命を捧げていることを思えば、現世の無認識な批判とか中傷などは、まったく小さなことと私は思っております。なんとも思っておりません。
 ―― 二十数年間ずっとお姿を拝見して、よくわかります。
 池田 この大法を、日本はもとより、世界百十五カ国以上の何十万、何百万という青年が受け継いでくれることを考えれば、私の胸中は所願満足の日々なのです。

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