Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十六章 「宇宙即我」と「一念三千」の…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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5  子供は何歳から「死」を意識するか
 ―― 屋嘉比さんは肉親の死に立ちあったことはありますか。
 屋嘉比 私の母は十一年前、四十五歳で亡くなりました。
 池田 ああ、そうでしたか。ご病気ですか。
 屋嘉比 胃ガンです。当時、私は東大の五年生でした。知らせを受け、急遽、大阪の病院に駆けつけた夜は一睡もできませんでした。私はそれが契機で、専門に胃腸科を選んだのです。
 池田 いいお母さんだったのでしょうね。
 屋嘉比 先生のご両親は……。
 池田 父は六十八歳で亡くなりました。心臓が弱ったためのようです。
 母は、十年前の九月、八十歳で老衰で亡くなりました。忙しくて親孝行らしいこともできなかったけれど、母は会えば、病弱だった私のことを気づかって「体だけは丈夫にね」とだけ言ってました……。母親はいつまでたっても母親でしたね。
 ―― ところで最近は、小児医学、周産期医学が、めざましい発展を遂げていると聞いています。
 そこでうかがいたいのですが、いったい、子供というのは何歳ぐらいから、死を意識するのか……。
 池田 私が聞いたのは、五歳から九歳であるという説がありましたが、屋嘉比さん、どうでしょうか。
 屋嘉比 だいたい、そのくらいの説が強いようです。
 アメリカのA・バーゼルという社会学者の調査では、五歳ぐらいですと、親しい人が亡くなっても、その意味がよくわからず、「また帰ってくる」と思うらしいのです。
 池田 すると六歳以上では……。
 屋嘉比 六歳では悲しみの反応はある。しかし病気とか老齢とか、具体的原因と結びつけることはまだできないらしいのです。
 七歳になると、自分を含め、すべての人がいつかは死ぬという自覚があらわれ、ハッキリ自覚するのは八歳から九歳となっています。
 池田 私の次男坊は一昨年急死しました。四歳と二歳の二人の子供がいましたが、たしかにその子供たちは、父親が寝ているととったように、私はうけました。
 五歳以下の幼児では、他人の死を眠りととらえることはあるようですね。
 屋嘉比 ええ、アメリカのある報告では、三歳の幼女の母親が心臓の発作をおこし死んでしまう。ところが、それを見ていた幼女は、ベッドに横たわった母親のとなりに横になったというのです。その子は、保母さんかだれかに、“お母さんが眠ったので、自分もその横で眠ったの”と幸せそうに話したそうです。
 池田 その世代の幼児にとっては、「死」とはまだ白紙の状態なんでしょうね。
 ある人が言っていた。「普通の子供は死を病気や老衰が原因だと思う。しかし、社会に暴力、殺人、自殺、事故などが増えてくれば、幼い子供の心には、それが『死』というものだと知らずしらず潜在化してしまう」と――。
 ―― 恐ろしいことです。純粋な子供の心に、深い傷を残してしまうのでしょうね。大人は、もっともっと考えねばならないと思いますね。
 屋嘉比 ちょっとうかがいたいのですが、今年(一九八六年)は、ハレー彗星が再び接近しますが、彗星を仏法上どうみますか。(笑い)
 ―― 東洋では陰陽道。西洋では“剣が飛ぶ姿”“戦乱の兆”とも見ていたようですが。
 池田 現代では、科学的また文明史的にとらえておりますが、前時代にあっては“凶”、“吉瑞”というよりは、当然“凶瑞”ととらえられてきたわけです。仏法のなかにも、そうした例証はあります。また、「大法興廃の大瑞」ともとらえられているわけです。
 屋嘉比 地球の公転、自転。また月との関係をみても、宇宙の運行と人間とが、なんらかの深い因果関係にあることは、当然でしょうね。
 とくに医学では、「脳」の分野でこの点が着目されているわけです。
 池田 日蓮大聖人御聖誕の年(一二二二年)の秋も、ハレー彗星が接近したようです。
 今回は、それから十回目の回帰になると思います。
 ま、これは『「仏法と宇宙」を語る』のほうだったのですが。(大笑い)
6  仏法は「三世の生命観」が大前提
 屋嘉比 ところで最近の医学界でも、高齢化社会を迎え、「人間いかに老い、死ぬか」ということが、大きなテーマになっています。
 池田 屋嘉比さん、日常の老化の目安なんかありますか。(笑い)
 屋嘉比 研究した人がいます(笑い)。たとえば、
 一、最近のことを忘れやすい
 二、急ぐときイライラしてくる
 三、自己中心的に考える
 四、昔のことをよくしゃべる
 五、愚痴っぽい(笑い)
 まだほかにもあると思いますが。(大笑い)
 池田 いや、お年寄りでなくとも、ときどき見かけますね。(笑い)
 あるフランスの作家が、
 人生を川の流れに譬えるなら――
 青年時代は「ほとばしる急流」のごときものである
 中年は、「滔々とした流れ」になる
 そして老年は、すべてを包みこみ、悠々と景色を川面に映しゆく「鏡のような大河」となり、“大海”へそそぎ込むようなものだ
 と言っていた。
 私はたいへんに感銘を受けた言葉です。
 ―― 本当にそうした充実した一生を歩みたいものですね。
 池田 御文に、「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり」とあります。これは身体が「不老不死」ということではありません。(笑い)
 ともかく人生は限りがある。この限りある一生を瞬間、瞬間、いかに楽しみながら、いかに価値あるものにしゆくかが人生の目的といえるのではないでしょうか。
 さらに、その瞬間、瞬間のなかに、永遠をもはらみゆく自分自身を覚知しながら、この人生を満喫していくことができるのが、「妙法」なんです。
 ―― ある著名な学者は、「各人が非常に平静な気持ちで死を迎えられるような社会をつくりあげていくことも必要である」と語っていましたね。
 屋嘉比 どちらかというといまの社会は、ますます逆行している感がある。人を人とみない経済優先、利害優先の弊害でしょう。
 池田 重大問題です。当然、それは政治・経済次元の問題でもある……。
 しかし、一歩つきつめてみれば、哲学、宗教の問題ではないでしょうか。
 なぜならば、生死を直視しないことは、ほかならぬ自分自身を直視しないことになる。
 それでは、確固たる自分観の確立も、心広々とした生き方もなしえなくなってしまうからです。またそれは、その人自身の人間観、社会観と表裏一体の問題であることを、人は知らねばならないでしょう。
 仏法では、「生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い」と、人生の根本問題として説かれているわけです。
 屋嘉比 鋭いです。すると、仏法は「三世の生命観」を大前提としていると考えてよろしいのでしょうか。
 池田 そのとおりです。この「三世」という生命観を、見事にとらえ、宇宙と生命の完璧なる法理・法則を打ち立てたのが「妙法」と私は思います。
 このへんはまたいつかお話ししたいと思いますが、つまり、人間も、動物も、植物も、地球も、さらに宇宙もが「成」「住」「壊」「空」の法理に則り、永久に流転している……。
 しかし人は、物質の世界の法則はわかっても、根本の生命の「因果の法」はわからない。
 そこに明確なる解答と、人生の生きゆく指標とを提示しているわけです。
7  西欧の学者が迫った生命の「我」
 池田 私が感心したのは、西欧の学者のなかにも部分観であっても、仏法の生命観に迫っていった学者がいるということです。
 たとえばイギリスの生物学者、ジュリアン・ハクスリーは「死」について、「あらゆる働きが非物質エネルギーとして精神的実在の貯蔵庫へと戻っていく」といったことを述べておりますね。
 ―― ハクスリーには、仏教の「業」についての著述がありますからね。
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセは、「死ぬことは、一人の人間を超えた集合的な無の一部である」とも言っておりますが。
 池田 そのとおりです。けれども、スイスのユング博士などは、一歩進んで、「肉体的な死を超えて、心のなかのなにものかがつづいていく可能性がある」と主張していたのではないでしょうか。
 私は、たいへんに鋭い洞察と思ったことがあるんです。
 屋嘉比 ユング博士は、生命の「我」の存在をすでに信じていたと言われておりますね。
 池田 ロンドン大学のリス・デービッズ教授は、「われわれは、エネルギー不滅の法則を熟知している。ゆえに仏教の教理をも容易に了解することができる」と言っている。
 まあ、「了解」という言葉の意義が西洋流でおもしろい。(笑い)
 ―― 信ずると言わないのが学者らしいですね。(笑い)
 池田 まだまだいろいろあると思いますが、長くなりますので、なにかの機会にお話ししたいと思います。
 屋嘉比 じつは私も、たいへんに興味をもったことがあります。それは、東大附属病院の院長であった方が、親友の医師の死について語っていた一言なんです。
 “自分も彼も、無宗教である。霊魂も、肉体を離れた精神も信じない。しかし、じつをいうと私は、彼個人とはまったく別の彼の「我」が存在すると考えている”と話していたのです。
 ―― なにか経験と思索のうえから、直観的なものがあったのでしょうか。
 池田 それにしても、かつてトインビー博士が私に言われていたことを思い出しますね。
 それは、「社会の指導者たちは、生死の問題を真正面から解決しようとせず、すべて避けてとおっている。ゆえに、社会と世界の未来の根本的解決法は見いだせない。私はこの道を高等宗教、なかんずく大乗仏教に求めてきた」と――。
 この言葉は、終生忘れることができませんね。その課題に真正面から取り組んでいるのが、私たちであると思えば、無量の誇りがわいてきます。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 三世の永遠の生命の探究と、その大法を弘めていくことに生命を捧げていることを思えば、現世の無認識な批判とか中傷などは、まったく小さなことと私は思っております。なんとも思っておりません。
 ―― 二十数年間ずっとお姿を拝見して、よくわかります。
 池田 この大法を、日本はもとより、世界百十五カ国以上の何十万、何百万という青年が受け継いでくれることを考えれば、私の胸中は所願満足の日々なのです。

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