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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 仏法の眼・医学の眼  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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4  戦争こそ地獄の行為
 ―― さきほど、インドでの「核の脅威展」開催のお話をうかがいましたが、今年(一九八六年)は“国際平和年”でもあり、その幕開けを飾るものとして、国連関係者の方々も力を入れていると聞いておりますが。
 池田 そううかがっております。アジアでは、インドの次は中国で行う予定になっております。
 屋嘉比 先生は常に、「世界不戦」の意志の流れを、深く大きくしていくことの重要性を強調され、また実際に行動しておられますね。
 ―― これはじつに大切なことです。というのは、過去に人類はどのくらい戦争を経験してきたか、人間の歴史をたどってみると、驚くべき事実がわかってくるからです。
 池田 これは意外と知られておりませんね。ドイツの歴史学者に、そうした研究をした学者がおりましたね。何という名前でしたかね。記憶してますか。
 ―― ウェリー・クレイグでしょうか。
 池田 そうかもしれません。その歴史学者の説では、エジプトのトトメス三世のアジア遠征が終了した紀元前一四九六年から、アメリカの南北戦争(一八六一年)までの約三千四百年間というもの、戦争があったのが三千百年ぐらいで、平和の時代は三百年ぐらいしかなかったという結論が出ているようです。
 これを計算すると、「戦争が十一年」に対し、「平和は一年」となるんでしたかね。
 ―― そのとおりです。別の学者が研究したのでは、紀元前三六〇〇年から現代まで、一万四千五百四十二回戦争があったというデータもありますよ。
 屋嘉比 恐ろしいことです。かのアインシュタインは、「ナショナリズムは幼児の病気である。それは人類のハシカである」と言っておりますね。
 まったくもって人間は、賢いようで愚かな証拠です。
 池田 過去だけのことではない。戦後四十年だけでも、世界で百五十もの戦争もしくは武力衝突が現実におこっている。
 ―― おっしゃるとおりです。死者は、一千六百万人以上です。
 屋嘉比 こうなると、人間と戦争との関係も、宿命的のように思えますね。
 池田 ですから仏法は、ひとつの生命観のうえから、「地獄と云う二字をばつち穿るとめり」と説かれている。
 人類が、みずからの手でみずからを滅ぼすような戦争こそ、“地獄”の行為と私は思います。
 ―― 私、ちょっと思い出したのですが、米ソ首脳会談の実現については、四年前の五月、先生が、当時のソ連のチーホノフ首相に“スイスかどこかの第三国を選んで、まず第一回を行うべきだ”と、モスクワで提言されていましたね。きょう、その新聞の切りぬきを持ってきました。
 屋嘉比 それは、私も記憶があります。
 といいますのは、当時は米ソ関係も冷えきって最悪だった。また日ソ関係もかんばしくないときで、日本の要人で、初めてチーホノフ首相に会見したのが、先生だったからです。
 池田 私のことは言わないでください(笑い)。私は、一民間人ですから……。
 私どもはただ、「平和」こそ仏法者の最大の使命と、強く思っているだけです。
 ―― いや、むしろ民間人であるところに、意義があると思います。
 先日も、ジュネーブの米ソ・サミットを取材した記者たちが、「あれは劇のようなものだ」と印象を語っていました。これからの時代は、民衆レベルの草の根の対話を、どうつくりあげていくかが本当のカギだと、心ある人々は考えています。
5  宗教は「生命」の病気を治す
 池田 屋嘉比さんに、もう少々うかがいたいのです。
 医師として、医療の最前線で心がけていることは何ですか。
 屋嘉比 いろいろありますが……、なんといっても、医師と患者の信頼関係という基本が大事だと思います。
 池田 そうでしょうね。私も今回の入院中、何人かの医師とお話ししましたが、本当に、いい医師というのはすぐわかるものです。
 屋嘉比 たとえば、ある循環器病の大家は、“急患の患者ならば若い医師でも、一定のパターンに従って治療すればよい。しかし、何年もの慢性の病気の人は、医師とのコミュニケーションが大切となる”と話されています。
 また、“私は、七十歳以上の老人でも「おじいさん」とか「おばあさん」と呼ばないようにしている。必ず「〇〇さん」と呼ぶ”とも話しておりました。
 なにげないことのなかに大事なことがあると、私は思いましたね。
 池田 大切なことです。よく“臨床のできる医師は人柄だ”と聞きますが、信仰の世界も同じです。
 ある意味で、医学は、身体の安全と完璧性を通し「心」の安定をもたらす。
 どちらかといえば、宗教は、「心」を通し、生きゆく力、そして肉体の安定をもたらす、ともいえるかもしれませんね。
 屋嘉比 その意味において、医学も患者に、生きる自信と希望をあたえていくことが使命です。
 ですから、医学を中心として人間をみるのではなく、人間を中心として医学をどうするか、という観点がたいへんに重要であると私は痛感しますね。
 池田 御文に、「たとえば七子の父母平等ならざるに非ず然も病者に於て心則ちひとえに重きが如し」という一節があります。
 これは、七人の子供がいれば親は皆平等に愛情をもって育てる。それであっても、病気がちであったり、不憫な子供ほど、親というものはかわいいものである。それほど親はありがたい。と同じように、仏の慈悲は広大無辺であることを譬えられたものなんです。
 次元は違うが、私どもも常にこの御文を身に体していかねばならないと――。
 ―― 感銘します。だからこそ、正法がこれほど広がったのだと思います。
 人の心は、氷のように固く閉ざされていても、真実と誠意には必ず開かれるものです。
 屋嘉比 ある経験豊かな先輩が、“医師は、患者がいるから医師たりうることを忘れてはならない。患者と共感できるところに、その人の病気も見えてくる”と語っていました……。
 どちらかというと、頭だけでやってきた若い私どもには、本当にいい勉強になります。(笑い)
 池田 もう一点うかがいたいのです。今後の医学は、どのような方向へ進むのでしょうか。
 屋嘉比 それは、池田先生がつねづね言われてきた「守りの医学から攻めの医学」をめざしていくべきと、私は思います。
 ―― 具体的には……。
 屋嘉比 “守り”というのは、現在ある病気を治したり、予防することです。
 “攻め”とは、現在ある健康をよりよい状態へともっていくことです。
 「未病に治す」というように、今後の医学はますます病気の予防へ、健康の増進へと力が注がれていくと思います。
 ―― ただ、どうでしょうか。肉体的な“病”は仮に減少したとしても、人生の悩み、精神的なストレスとは別問題でしょう。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。このストレスが現代人の病気におよぼす影響については、またあらためてお話ししたいと思いますが、多くの人々が指摘するように、現代ほど“人間の本性が求めてやまない生命の全き開花”が抑圧された時代もないと思いますね。
 ―― 目に見える身体の破壊も怖いが、この目に見えない人間の内面の破壊は、もっと恐ろしいものです。
 池田 仏法のひとつの時代観に、「減劫と申すは人の心の内に候」とありますが、まさにその姿そのままが、私どもの社会と感ずるのは、私一人ではないでしょう。
 屋嘉比 鋭い仏法の眼ですね。
 現代社会の最大の“病”は、人間の「心」の病といえるかもしれません。
 それにつけても、私はある医学者の、“ストレスを避けて、一生なにも有効な社会生活をせずに過ごして、病気を予防する人よりも、むしろ社会的に積極的な生活を送って、仮に病気になる場合があっても、そのほうがより有意義な人生を送ったといえるのではないか”という言葉を思い出しますね。
 これは誤解されては困りますが、「健康」というものが、たんに病気でないことではない。人生に積極的な価値をつくりだすことが、真の意味での「健康」であろう、というほどの意味と思います。
 池田 よくわかります。そうなるとこんどは、泥沼のような現実社会にあって、確固たる自分自身の人生観をいかに築きゆくか、ということになるでしょうね。ですから、その根本的な「法則」を知りえた私どもは幸せです。
 ご存じのように仏法は、人間の心身を煩わし、悩ませる諸々の精神作用の総称を「煩悩」ととらえます。現代語でいう“ストレス”があたえる心身の苦痛も、この「煩悩」の範疇といえると思いますね。
 言うならば、医学は「肉体」の病気を治す。宗教は「心」突きつめれば「生命」の病気を治す、といってよいでしょう。

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