Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十四章 仏法の眼・医学の眼  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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3  人間の営みと大宇宙の運行
 ―― ところで、今年(一九八六年)はインフルエンザが過去五年間で最もひどいようです。
 インフルエンザというのは、どのくらいの速さで広がるのですか。
 屋嘉比 ジェット機よりも速いという人もいます。
 池田 よく香港型とか、アジア型といいますが、インフルエンザはアジア大陸から来るわけですか。
 屋嘉比 これは諸説あります。おっしゃるとおり、アジア、シベリア、中国西部の“静寂な土地”に源がある、とする学者も多いようですね。
 ケンブリッジ大学のビヴァリッジという教授も、インフルエンザは歴史上、この地域に頻繁にあらわれている、と言っておりますね。
 ところがおもしろいことに、昔の人々は、この病気には“星の影響”があると考えていたようです。もともと「インフルエンツァ」というイタリア語は、“影響”という意味だったのです。
 ―― 現代でも、有名なイギリスの天文学者、フレッド・ホイル氏らは“宇宙からインフルエンザなどの病原体がやってくる”と主張していますが。
 池田 私は専門外ですが、ホイル氏の説は、一般的には否定的にとらえる人が多いのではないでしょうか。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。
 池田 ただそれであっても、私は、人間生活の営みが、大宇宙の運行それ自体となんらかの深い連関性をもっていることまで否定しえないと、考えておりますが……。
 屋嘉比 その点に関しては、私も同感です。といいますのも、人間の睡眠の内容ひとつとってみても、太陽と地球の運行に、人間の生理が深く関係することは明確です。
 朝起きて、夜眠ることは当然として(笑い)、医学上、睡眠は二種類に分類されます。
 一つがレム睡眠――浅く夢みるような眠り、
 反対のノンレム睡眠――熟睡のような状態です。
 興味ぶかいことに、人間の熟睡度は午後から日没にかけて上昇し、深夜の十二時ごろ、最高点に達します。しかしその後は急激に低下し、日の出のころは最低になります。
 池田 すると、十二時前に寝るのがいちばんよいわけですか。弱ったな、これは……。(笑い)
 屋嘉比 理論上はそうなります。
 反対に、浅い眠りは日没とともに度合いが下降し、深夜十二時ごろから上昇しているんです。
 池田 戸田第二代会長は、「十二時前の睡眠は、それ以降の二倍の深さがある。早めに休むようにしなさい」と、私たちによく言われていた。
 当時は、一人で何人分もの仕事をやらなければならないし、本当に忙しかった。
 その意味で、疲れないような生活のリズムを、自分で工夫してつくっていかなくてはいけないという、先生の指導だったのです。
 屋嘉比 睡眠はたんなる休息ではなく、積極的な建設の面があります。病気に対する免疫や治癒力は、睡眠中につくられるともいわれています。
 ―― ところで御文では、カゼについてなにかございますか。
 池田 私が記憶しているのでは、「日蓮鎌倉に罷上る時は門戸を閉じて内へ入るべからずと之を制法し或は風気なんど虚病して罷り過ぎぬ」と記された件がありますから、「風気」という言葉が、当時すでに使われていたのでしょう。
 これはもっとも、大聖人との「法論」を避けたい一心に、極楽寺良観という人物が「虚病」をつかって逃げていた事実を述べられたものなんです。
 ―― いつの時代も、都合悪くなると仮病をつかう偽善者はおりますからね。(笑い)
 池田 一説によれば、日本で「カゼ」という通称が定着したのはこの鎌倉時代である、という研究もあるらしいですね。
 屋嘉比 ともかくカゼは、人が大勢集まるところが要注意です。それとともに、寒い屋外へ行く場合は、当然のことながら、厚着をしたり、うがいや手洗いなど、それなりの準備と対応が必要です。
 池田 昔の人の言葉ではないが、“大勢の人がいる場合、寒い所、暗い所へは絶対に連れて行くな”というのは、たしかに理にかなっている。
 私は、カゼをひかない工夫をすることは、大切な人生の知恵のひとつと思ってきた一人です。
 そこで、もう少し屋嘉比さんにうかがいたいのですが、現代人にこれから多くなる病気は何でしょうか。
 屋嘉比 いわゆる成人病です。西暦二〇〇〇年にも、死亡順位は、成人病のガン、心疾患、脳血管疾患であろうと予想されます。なかでも、近年、循環器系の疾患が急上昇しています。
 池田 それでは、年代別には病気の傾向はありますか。
 屋嘉比 発病する人についていえば、
 三十五歳未満では「呼吸器系の疾患」
 三十五~四十四歳では「消化器系の疾患」
 四十五歳以上では「循環器系の疾患」
 の率が最も高くなります。
 池田 しかしどうでしょうか。あるていどの年齢に達すれば、肉体的にはなんらかの「病」は避けられない。また疲れも出る。それが自然の道理でもある。
 ―― そう思います。高齢化社会を迎え、新聞の論調でも、「若者のように無病息災とはいくまい。むしろ病気と積極的に同居する『一病息災』の心でいたい」(「朝日新聞」’85・7・1)という視点が出てきておりますね。
 池田 私も今回、入院して精密検査という体験もし、なんとか病気の方々を激励してあげたいという気持ちの昨今です。
 私は仏法者ですから、その方々のご健康を、毎日ご祈念させていただいております。
 要するに、「妙法」という人生の根本軌道に則ってさえいれば、すべては深い意味があることは間違いないし、さらに信心を強め、見事な勝利の人生を歩まれていった方々を、私は数多く知っております。
4  戦争こそ地獄の行為
 ―― さきほど、インドでの「核の脅威展」開催のお話をうかがいましたが、今年(一九八六年)は“国際平和年”でもあり、その幕開けを飾るものとして、国連関係者の方々も力を入れていると聞いておりますが。
 池田 そううかがっております。アジアでは、インドの次は中国で行う予定になっております。
 屋嘉比 先生は常に、「世界不戦」の意志の流れを、深く大きくしていくことの重要性を強調され、また実際に行動しておられますね。
 ―― これはじつに大切なことです。というのは、過去に人類はどのくらい戦争を経験してきたか、人間の歴史をたどってみると、驚くべき事実がわかってくるからです。
 池田 これは意外と知られておりませんね。ドイツの歴史学者に、そうした研究をした学者がおりましたね。何という名前でしたかね。記憶してますか。
 ―― ウェリー・クレイグでしょうか。
 池田 そうかもしれません。その歴史学者の説では、エジプトのトトメス三世のアジア遠征が終了した紀元前一四九六年から、アメリカの南北戦争(一八六一年)までの約三千四百年間というもの、戦争があったのが三千百年ぐらいで、平和の時代は三百年ぐらいしかなかったという結論が出ているようです。
 これを計算すると、「戦争が十一年」に対し、「平和は一年」となるんでしたかね。
 ―― そのとおりです。別の学者が研究したのでは、紀元前三六〇〇年から現代まで、一万四千五百四十二回戦争があったというデータもありますよ。
 屋嘉比 恐ろしいことです。かのアインシュタインは、「ナショナリズムは幼児の病気である。それは人類のハシカである」と言っておりますね。
 まったくもって人間は、賢いようで愚かな証拠です。
 池田 過去だけのことではない。戦後四十年だけでも、世界で百五十もの戦争もしくは武力衝突が現実におこっている。
 ―― おっしゃるとおりです。死者は、一千六百万人以上です。
 屋嘉比 こうなると、人間と戦争との関係も、宿命的のように思えますね。
 池田 ですから仏法は、ひとつの生命観のうえから、「地獄と云う二字をばつち穿るとめり」と説かれている。
 人類が、みずからの手でみずからを滅ぼすような戦争こそ、“地獄”の行為と私は思います。
 ―― 私、ちょっと思い出したのですが、米ソ首脳会談の実現については、四年前の五月、先生が、当時のソ連のチーホノフ首相に“スイスかどこかの第三国を選んで、まず第一回を行うべきだ”と、モスクワで提言されていましたね。きょう、その新聞の切りぬきを持ってきました。
 屋嘉比 それは、私も記憶があります。
 といいますのは、当時は米ソ関係も冷えきって最悪だった。また日ソ関係もかんばしくないときで、日本の要人で、初めてチーホノフ首相に会見したのが、先生だったからです。
 池田 私のことは言わないでください(笑い)。私は、一民間人ですから……。
 私どもはただ、「平和」こそ仏法者の最大の使命と、強く思っているだけです。
 ―― いや、むしろ民間人であるところに、意義があると思います。
 先日も、ジュネーブの米ソ・サミットを取材した記者たちが、「あれは劇のようなものだ」と印象を語っていました。これからの時代は、民衆レベルの草の根の対話を、どうつくりあげていくかが本当のカギだと、心ある人々は考えています。
5  宗教は「生命」の病気を治す
 池田 屋嘉比さんに、もう少々うかがいたいのです。
 医師として、医療の最前線で心がけていることは何ですか。
 屋嘉比 いろいろありますが……、なんといっても、医師と患者の信頼関係という基本が大事だと思います。
 池田 そうでしょうね。私も今回の入院中、何人かの医師とお話ししましたが、本当に、いい医師というのはすぐわかるものです。
 屋嘉比 たとえば、ある循環器病の大家は、“急患の患者ならば若い医師でも、一定のパターンに従って治療すればよい。しかし、何年もの慢性の病気の人は、医師とのコミュニケーションが大切となる”と話されています。
 また、“私は、七十歳以上の老人でも「おじいさん」とか「おばあさん」と呼ばないようにしている。必ず「〇〇さん」と呼ぶ”とも話しておりました。
 なにげないことのなかに大事なことがあると、私は思いましたね。
 池田 大切なことです。よく“臨床のできる医師は人柄だ”と聞きますが、信仰の世界も同じです。
 ある意味で、医学は、身体の安全と完璧性を通し「心」の安定をもたらす。
 どちらかといえば、宗教は、「心」を通し、生きゆく力、そして肉体の安定をもたらす、ともいえるかもしれませんね。
 屋嘉比 その意味において、医学も患者に、生きる自信と希望をあたえていくことが使命です。
 ですから、医学を中心として人間をみるのではなく、人間を中心として医学をどうするか、という観点がたいへんに重要であると私は痛感しますね。
 池田 御文に、「たとえば七子の父母平等ならざるに非ず然も病者に於て心則ちひとえに重きが如し」という一節があります。
 これは、七人の子供がいれば親は皆平等に愛情をもって育てる。それであっても、病気がちであったり、不憫な子供ほど、親というものはかわいいものである。それほど親はありがたい。と同じように、仏の慈悲は広大無辺であることを譬えられたものなんです。
 次元は違うが、私どもも常にこの御文を身に体していかねばならないと――。
 ―― 感銘します。だからこそ、正法がこれほど広がったのだと思います。
 人の心は、氷のように固く閉ざされていても、真実と誠意には必ず開かれるものです。
 屋嘉比 ある経験豊かな先輩が、“医師は、患者がいるから医師たりうることを忘れてはならない。患者と共感できるところに、その人の病気も見えてくる”と語っていました……。
 どちらかというと、頭だけでやってきた若い私どもには、本当にいい勉強になります。(笑い)
 池田 もう一点うかがいたいのです。今後の医学は、どのような方向へ進むのでしょうか。
 屋嘉比 それは、池田先生がつねづね言われてきた「守りの医学から攻めの医学」をめざしていくべきと、私は思います。
 ―― 具体的には……。
 屋嘉比 “守り”というのは、現在ある病気を治したり、予防することです。
 “攻め”とは、現在ある健康をよりよい状態へともっていくことです。
 「未病に治す」というように、今後の医学はますます病気の予防へ、健康の増進へと力が注がれていくと思います。
 ―― ただ、どうでしょうか。肉体的な“病”は仮に減少したとしても、人生の悩み、精神的なストレスとは別問題でしょう。
 屋嘉比 おっしゃるとおりです。このストレスが現代人の病気におよぼす影響については、またあらためてお話ししたいと思いますが、多くの人々が指摘するように、現代ほど“人間の本性が求めてやまない生命の全き開花”が抑圧された時代もないと思いますね。
 ―― 目に見える身体の破壊も怖いが、この目に見えない人間の内面の破壊は、もっと恐ろしいものです。
 池田 仏法のひとつの時代観に、「減劫と申すは人の心の内に候」とありますが、まさにその姿そのままが、私どもの社会と感ずるのは、私一人ではないでしょう。
 屋嘉比 鋭い仏法の眼ですね。
 現代社会の最大の“病”は、人間の「心」の病といえるかもしれません。
 それにつけても、私はある医学者の、“ストレスを避けて、一生なにも有効な社会生活をせずに過ごして、病気を予防する人よりも、むしろ社会的に積極的な生活を送って、仮に病気になる場合があっても、そのほうがより有意義な人生を送ったといえるのではないか”という言葉を思い出しますね。
 これは誤解されては困りますが、「健康」というものが、たんに病気でないことではない。人生に積極的な価値をつくりだすことが、真の意味での「健康」であろう、というほどの意味と思います。
 池田 よくわかります。そうなるとこんどは、泥沼のような現実社会にあって、確固たる自分自身の人生観をいかに築きゆくか、ということになるでしょうね。ですから、その根本的な「法則」を知りえた私どもは幸せです。
 ご存じのように仏法は、人間の心身を煩わし、悩ませる諸々の精神作用の総称を「煩悩」ととらえます。現代語でいう“ストレス”があたえる心身の苦痛も、この「煩悩」の範疇といえると思いますね。
 言うならば、医学は「肉体」の病気を治す。宗教は「心」突きつめれば「生命」の病気を治す、といってよいでしょう。

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