Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十章 「生命」と「環境」を考える  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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6  人間生命誕生の本来的意義
 ―― ちょっとうかがいたいのですが、「依正不二」論から進化論はどうみますか。
 池田 進化論といえば、有名なのはダーウィンでしょう。しかし最近では、分子生物学や生態学などさまざまな分野から、どうも違った考え方も提示されてきているようですね。
 屋嘉比 その先駆的な論議は、日本の今西錦司博士などが早くから主張されています。
 ―― 今西博士は「平和の灯よ永遠に輝け」という映画のなかで、仏法を基調とした平和運動を、高く評価されていましたね。
 池田 私どものために、わざわざ登場していただいたことがあります。今西先生は、まだお目にかかったことがありませんが、私が尊敬している学者のお一人です。
 屋嘉比 ダーウィン以来の正統派進化論は、突然変異と自然淘汰という二つの柱からなりたっています。
 つまり生物の個体が、ランダムな突然変異をおこし、環境に最も適応したもののみが繁殖する。
 そうでないものは淘汰されるという、適者生存の原理が進化の要因であったと説明するわけです。
 池田 おおざっぱな論議になりますが、それに対し、今西博士は、生物それ自体に進化の主体性を認めた進化論となるわけですね。
 屋嘉比 ええ、いわゆる「種」というものが棲み分けをしながら、環境の変化に対し、変わるべくして変わっていく。
 いわば進化の主導権を環境から生物の側におき、しかも、環境と生物進化とは密接不可分の関係にある、というような論議だったと思いますが。
 ―― そうですね。ですから、自然淘汰というような考え方は、キリスト教的土壌の産物であり、もっと仏教的な生命観からの進化論もあっていいのではないか、という意味のことも言っておられるようです。
 池田 私も、仏法者として、「依正不二」からみれば、今西博士の進化論は、よくわかる気がします。今後も、さまざまな論議が継続されていくでしょうが、注目していきたいと思っております。
 ともあれ、これは、私は学者ではないのでその点ご了解いただきたいのですが、常識的にいわれてきた地球誕生の姿からみて、一般的には、いわゆる原初の地球は、チリやガスの凝縮した熱い塊であったと推定されている。
 いろいろな角度からの論じ方があるでしょうが、ひとつ、そこに視点をおかせてください。(笑い)
 ―― この点については『「仏法と宇宙」を語る』でも、詳しく論じていただきましたが、ぜひつづけてお願いします。
 池田 いまから二百億年前ともいわれるビッグバン以来、その宇宙の大作用によって太陽系が形づくられ、約四十六億年前に地球が誕生し、位置づけられた。
 屋嘉比 一般的にはそのとおりですね。
 池田 そのときは、地球には花とか、木とか、鳥とか、魚とか、人間は存在しなかった。
 それがしだいに冷えてきて、四十億年前から二十億年ぐらい前の間に、それぞれの条件が整って、ひとつの原始生命が誕生したといわれてきていますが。
 屋嘉比 そうです。
 池田 やがて、下等なバクテリアのような微生物や、光合成を行うものも発生する。
 さらには多細胞の生物が誕生し、さまざまな変化をへながら樹木も、魚も、動物も登場した。そしてついには人間が誕生した、となっている。
 屋嘉比 壮大な生命のドラマですね。そうすると地球という惑星自体に、生命を生み育んでいく力というか、方向性が内在していたと考えていいのでしょうか。
 池田 これらの種々の「依正」の条件によって、生命が誕生したのは間違いないでしょう。
 最初は“火宅”ともいうべき冷酷非情な物体とも思えるなかから、これだけの無数の生命が誕生したということは、「国土」と「生命」が“二にして二ならず”の淵源をみる思いが、私はするんです。
 ―― それは否定できません。
 屋嘉比 まさしく生命の発生ということは、科学の問題と同時に、すぐれて哲学的な課題となりますね。
 池田 ゆえに、そうなさしめる原因を生物学的・遺伝学的、また物理学的・宇宙論的に追究していけば、やがては、その現象的な原因が、当然わかってくるであろうと私は期待しています。とともに、そうなさしめていくべき、より根本的な法則があるにちがいないということもわかることです。
 ―― 現段階の科学においても、「非情」なる地球から「有情」の生命が誕生し、進化していったことは事実ですからね。
 池田 人類の誕生についても、当然、いわゆる進化論のうえからもさまざまな見方もある。
 しかし、現在この地球上に生息している高崎山のサル、上野のサルなどは、百年たっても、千年たっても人間にはならない(笑い)。人間はあくまでも、人間として誕生した。ここに「十界」という、生命の実相のうえからの意義づけがあることも、見逃せないでしょう。
 屋嘉比 人間という「種」の誕生は、大きな謎のひとつです。
 池田 “E.T.”のように、外部世界から来ることは別問題だけれども(笑い)、ともかく、全生命が地球の国土世間から生まれ出た。
 少々飛躍した話になりますが、私は、仏法で説く「法性の淵底・玄宗の極地」という意味にも、たいへんに深い生命と国土世間との関連性が感じられてならないのです。
 屋嘉比 その「法性の淵底・玄宗の極地」というのは……。
 池田 結論していえば、一切の万法が拠りどころとする根本の真理であり、「南無妙法蓮華経」のことです。
 この「法性の淵底・玄宗の極地」から出現する菩薩を「地涌の菩薩」といいます。
 この地涌の菩薩の生命には、幸福と平和を確立しゆく大法を持ち、広めゆく使命がある。
 私は、そこに、人間生命誕生の本来的意義がある、と結論づけられている気がしてならないのです。
 屋嘉比 まことに重要な、たんなる理論のみではない、人間生命の根本的な価値についてのお話と思います。
7  あらゆる生命を育む慈悲の法則性
 ―― ここで、また環境の問題に戻りたいと思いますが、地球は砂漠化に向かって進んでいると警告する学者が多くおります。この点について先生は、ローマ・クラブの創始者である今は亡きペッチェイ博士とも対談されておりますね。
 池田 ペッチェイ博士とは、何回もお会いしました。二年前のパリが最後でした。
 このときも、七十五歳の高齢にもかかわらず、その日の朝、アメリカのボストンを出発し、私のいるホテルに来てくださった……。本当に忘れられない方です。
 ペッチェイ博士は、人類の未来をたいへんに危惧されていたお一人です。
 森林の乱開発についても、このままつづければ、五十年後には、熱帯雨林は全面的に破壊され、事実上砂漠化してしまうであろうと憂い、力説しておられた姿を、いまでも覚えております。
 ―― パリだけでなく日本でも、二回ほど会談なさっておりますね。
 池田 ええ。この八月の中旬にも、ご子息がわざわざ訪ねてこられることになっております。
 ―― ご子息は物理学者ですね。
 池田 そうです。そこで、歴史的にみても、この砂漠化と人間の生活の営みは、まったく深い関連性があることは事実です。
 ―― そうですね。
 池田 あのアフリカのサハラ砂漠も、一万年ぐらい前から長い間、緑したたる大地であったことは、歴史的事実のようです。その証拠に、さまざまな古代の文化遺跡が散在している。それは「古代芸術のギャラリー」ともよばれるほどです。
 また、ローマ帝国の時代にも、サハラの一部は一大穀倉地帯であったようです。
 それが、気候の変化や、過度の放牧などが原因となって砂漠化していったことは、多くの学者の説くところです。
 ―― メソポタミアも、肥沃な土地が砂漠化してしまったといわれております。
 ところで現代は、アマゾンやアメリカ大平原、またインドやエジプトなど、広範囲にわたり、砂漠化や洪水等の現象が起こってきている。
 屋嘉比 これは天災もあるが、人災も大きい。やはり、自然と人間を対峙させ、人間の欲望を無制限に解放しつづけてきた文明の結果でしょう。その意義においても、仏法の「依正不二」の視点はたいへん重要と、私は思えてなりませんね。
 池田 詳しくは、略させていただきますが、いわゆる地球と人間とのかかわりあいというものを、より長期的に、もっと本源的に、見直さなければならない時代に入ったと思う。
 心ある人々は、みなそう思っているにちがいない。
 屋嘉比 歴史をみても、平和と安定は、常に経済の問題と不可分であり、いわゆる自然の災害とか、飢饉といった問題も大きなウエートを占めてきたわけですからね。
 ―― 自然の脅威ほどこわいものはない。
 池田 その自然の脅威を、人類がみずからの手でつくりだすことほど、愚かなこともない。
 ですから、私どもはつねづね、「地球一体感」「運命共同体感」をもたらす哲学、宗教が大切であると主張しているわけです。
 ―― ペッチェイ博士も、「われわれ自身の資質の向上を基盤とした全面的な“人間革命”が、いまこそ必要不可欠である」と強調しておりましたね。
 屋嘉比 そうです。もはや、そこから出発しなければならないと思います。
 池田 そこで、私がいつも深く思索しなければならないと思っている御文があるのです。
 それは、「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし
 また、「法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり」という、一節です。
 屋嘉比 「法界」とは、どういう……。
 池田 一言で言えば、全宇宙、森羅三千のことです。ですから一切の森羅万象は「依報」も、「正報」も、ことごとく「南無妙法蓮華経」の一法の当体のほかにありえないというのです。
 屋嘉比 これは、はっきりした法則性ですね。
 池田 そう思います。この宇宙には、科学の法則もある。それなりの政治、経済の法則性もある。
 しかし、さらに奥深い、無始永遠なる大宇宙そのものにも、あらゆる生命を育みゆく慈悲の法則性があることが、仏の眼から見ればわかってくる。
 それを「本因妙」の仏法、「事の一念三千」即「南無妙法蓮華経」といわれるわけです。
 その法則の当体が、「一閻浮提第一」の御本尊となるわけです。
 この御本尊とは、「根本尊敬」「輪円具足」「功徳聚」とも名づけます。
 この御本尊を信じ、行じていったとき、初めて自身の生命も「事の一念三千」の当体となりゆくことができる。
 それこそ社会に、国土に、宇宙にまでも、「法味」を与えながら、よき環境をつくり、守りゆく原動力となるわけです。ゆえに仏法では、正信の人をば最大に大事にしております。
8  仏法根底に文化の創造
 池田 その意義で、初座という儀式において、東天に向かって、これまた十界三千の国土世間である大宇宙の運行に、「法味」を送っていくというのは重大な意味があると、私は思っております。
 屋嘉比 仏法は本当に一つひとつが明快であり、そのうえで深義が感じられますね。
 池田 ですから、大宇宙に「南無妙法蓮華経」という「法味」をあたえゆく人々が多くなればなるほど、その力用は確実に広がり、大宇宙という「依報」と、題目を唱える人の「正報」が、確かになることでしょう。
 これは、余談になりますが、明治時代の著名な人がよく話していたことがある。まことに素朴ななかにも含蓄のある話と、私は思ってきた。
 それは、中国の東北地方には雷がなかった。日本人が入るようになってから、雷が見られるようになった、というのです。
 ―― それは私も聞いたことがあります。
 偶然の一致か、なんらかの因果関係のなせるものか。それにしてもなにか心の奥に感ずるものがある話ですね。
 池田 これはまた、アラスカに住むある日本人から聞いた話ですが、まだあまり人間がいなかったころのアラスカは、本当に人間が住めるような場所ではなかった。
 ところが、人が多く住むようになってから、多少なりとも温度が上がってきた、といわれているというのです。
 屋嘉比 人間は火を使うから、気温が上がるということもあるのでしょうが、私は、もっとなにか大きな、生命が生きようとするとき、自然もそれに応じていくものがある気がします。
 池田 科学的にどうなるか、私にはわかりません。
 ただ、なんとなく不思議なものを感ずるのです。
 ―― いや、東京でも、昔から比べると、雪なんかもたいへん少なくなっている。
 屋嘉比 台風もほとんど来ませんね。
 ―― これも、ひとつの現象でしょうね。
 屋嘉比 それはそれとして、仏法が、最も現実を厳しくふまえながら、人生と社会と、そして宇宙をも包みゆく広がりの法であることは、私には驚きです。
 池田 ただ私は、信仰すればそれでよいというようなことは、まったく考えておりません。
 その大仏法を根底に、即政治・経済の発展、また科学・技術の進歩、さらに文化の創造へと常に連動しゆくのが、私どもの運動の目的である。それがまた仏法の真髄であり、仏法たるゆえんなのです。
 ―― トインビー博士も、「一文明における宗教は、その文明の生気の源泉である」と述べておりますね。
 池田 キリスト教でも、何世紀にもわたる人類的規模の実験がなされてきたと思う。
 また近くは、マルクス主義も実験されてきた。
 しかし、高度な科学文明が発達し、人類全体が絶滅か、共存共栄かが問われる時代は、日蓮大聖人の仏法が、これから何百年、何千年と実験、証明されゆく段階に入っていると、私は信じております。

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