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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 人生の幸福・仏法の死生観  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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9  人間にのみ可能な「業」の転換
 ── 過去の「業」によって、未来の「果」が決定してしまうのであれば、人間の努力とか向上心は、無意味になってしまうのではないですか。
 池田 いや、仏法で説く「業論」というのは、運命決定論みたいなものではない。人間のもつ「業」というものをとらえ、その人間の「業苦」、つまり苦しみ、苦悩をば転換し、自身の変革とともに、時代、社会の変革へと志向しゆくための「法」を、仏法は明かしているのです。
 屋嘉比 そうでしょうね。人間が向上心や努力を捨てたら、生きる意味がなくなってしまいます。
 池田 一般的に、動物には創造的な主体性はないと思われる。人間には創造性がある。そこに人間としてのひとつの証があるのではないでしょうか。さらに仏法の深い眼からみれば、人界に生まれてきたこと自体が、「悪業」の生命から「善業」の多き生命へと変えゆく可能性をもった、ということになるのです。
 ここに根本的な、人間の主体性の裏づけがあると私はみております。
 屋嘉比 第一章で、遺伝によってすべて人生は決定されない、と池田先生がおっしゃった意味が、わかる気がします。
 池田 ただし、それであっても、「一闡提」という、無明長夜のような人生を送るようなものもある、と仏法では説いております。
 この「一闡提」というのは、ひとつには、現代的にいえば、人の苦を楽しみとするような、悪いことばかりしている者をさしていると思います。
 ── しかし、努力してもどうしようもない人間の苦しみ、悲しみというものもありますが。
 池田 そのとおりです。
 そうした人間の本然的な苦しみ、「業苦」には、その「業因」がある。その「業因」は、「煩悩」の働きによって生じるのであると、仏法は明かしております。
 長くなるので省略させていただきますが、仏法の真髄の眼は、この「煩悩」をもつつみ、「善」の方向へ、「幸」の方向へと動かしゆく、宇宙大に広がりゆく、清浄にして、力強い「我」というものがあることを、明快に説き明かしております。
 この「煩悩」をば、「善」の方向へと働かせ、無限に価値を創造せしめゆく現実的法則を、日蓮大聖人の仏法は教えているのです。また、それを「煩悩即菩提」また「無明即法性」といった「法理」として明かしております。
 そこから、一個の人間における宿業というか、宿命の転換ということも、可能となってくるわけです。ですから、かりに大聖人が、この「大法則」をお説きくださらなかったら、人類は永遠に、暗き無明の闇に閉ざされ、煩悩と業・苦の大海の波に翻弄されゆく運命になってしまったであろうと思います。
 屋嘉比 仏法が、人間の奥のまた奥の「生命」というものに光を当て、そこから一切を変革しゆく「法」ということがよくわかりました。
 ── しかし、信仰を一生懸命やっていても、必ずしも長命の人だけではないと思いますが。
 池田 まったくそのとおりです。
 仏教の歴史をみても、釈尊の弟子であった目連も、バラモンに殺されている。
 また、大聖人のお弟子のなかでも、鏡忍房というお弟子が、小松原の法難で、東条景信一味に殺されております。
 さらに、熱原では三人の信者である農民が、法のために殉死し、斬首刑になっております。
 屋嘉比 代々の法主のなかで、どちらかといえば若くして亡くなった方はおられますか。
 池田 そうですね。ほとんどが御長命であられますが、第十八世日盈上人が四十五歳、第四十一世日文上人、第四十五世日礼上人が四十六歳、第五十世日誠上人は四十二歳で御遷化なされておられます。
10  外見ではわからない人間の幸、不幸
 池田 そこで、私はいつも思いおこす、大聖人のお言葉があるのです。
 それは、「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」との、まことに私どもの心を強くうつ一節です。
 屋嘉比 いつも思うのですが、大聖人は名文家でもあられたのですね。
 池田 そう思います。ですから私は、このまれにして、草の上の露のごとき一生を、使命をもち、誇りをもって生きぬくことができれば、またその使命を果たすことができれば、これほど幸せな一生はない、とつねづね思っております。
 ゆえに、私どもは、日夜、正しき「法」を持ち、その法を弘め、人々のために、またよりよき社会建設のため、平和のために、貢献しゆくことをめざし、努力しております。
 人間の幸、不幸というものは、外面から見ただけでは絶対にわからない。生命は客観を含めた主観である。外から客観視するだけでは、これまた見る人の主観で、その人の幸、不幸の一次元だけしか見えない。
 屋嘉比 自分の幸、不幸は、自分がいちばんよくわかるものです。人間は自分自身まで、不幸であっても幸福であると詐ったり、騙したりはできないものです。
 ── たしかに、外見だけではわからないものですね。資産家であっても、自殺したりする例も多い。「ナイロン」を発明したのは、アメリカの天才化学者・カロザーズです。
 彼はその功績で、勤め先のデュポン社から「生涯、どこへ海外旅行しても、どこの高級レストラン、バーで飲食しても、その一切の費用は会社が負担する」と約束されたそうです。しかし、そんな満ち足りた生活に嫌気がさしたのか、彼は四十一歳という若さで自殺しております。
 屋嘉比 彼の場合、みずからの知性により、あらゆる地位も名誉も保証された。しかし、それでも幸せとはいえなかったわけですね。これに似た例は、意外とありますね。
 ── また、有名人であっても、家庭内の陰湿な葛藤があったり、ひと皮むくと、醜い人間性であったりすることが、意外と多いですね。そうした場合、死に方も概してよくありませんね。
 池田 人の行く末は、だれもわからない。ゆえに、自分自身で正しき人生の大道をみつけながら、その大道を自分らしく歩み、みずからを磨いていくことが大切でしょう。
 ── さまざまな経験をし、年を経れば経るほど、そのことが実感できますね。
 池田 よく私の恩師は言われた。「人生の総仕上げの年齢こそいちばん大切だ」と。
 戸田先生は、「そのためにも、大法の大道を見失ってはならない」と言われた。
 ── そう思います。
 池田 私のまわりにも交通事故で亡くなった人もいる。病気で亡くなった方もおられる。短命な人もおられる。さまざまな人間模様を、私は知っているつもりだ。
 しかし、ここでいえることは、「南無妙法蓮華経」という、宇宙の根本法則に生きぬいた人々の、不慮の死というものをよく見ると、必ずといっていいくらい「大きく宿命の転換がなされている」と、まわりの人々が言っております。
 また、なんとなくその死を予感していた場合が多いようです。
 ── よく聞きますね。
 池田 それらは、永遠に連続しゆく三世の生命のリズムを、それなりに知り、さわやかな「生」と「死」との姿を、鮮やかに見せていたと感じとれますね。
 屋嘉比 たしかに、そういう方がおられます。
 池田 当然、人情としては、別離の寂しさや悲しみはあるかもしれない。
 しかし、いわゆる「仏界」の作用というのか、苦悩を味わうようなことは、まったく近親の方々の姿には見られないものです。
 ── わかるような気がします。
 池田 そうした人々の「死」の姿というものは、さわやかな夢のようであり、そのさわやかな夢が、縁ある人々をさらに勇気づけ、希望へと志向させながら、力強い波動の輪となっているようです。
 屋嘉比 私も立場上、多くの方々の「死」の姿を見てきて、亡くなる寸前まで「生きぬくんだ」という力をみせて、苦しまず、笑顔で、反対に、私どもに生きる力をあたえてくれる場合がありますね。
11  “永遠”を決定する「一念」の強さ
 池田 私がいつも感銘を深くする、大聖人のお手紙のなかに、「謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」という、まことに甚深のお言葉があるのです。
 「日いでて十方をみるが・ごとくうれしく」──。このような広々とした心で、さわやかな一念で、死を迎えることができるのであれば、これほど幸せな人生もないであろうと、思っております。
 屋嘉比 そうした奥深い人生の生きざまというか、その人の内面というものは、第三者には、やはりわからないでしょうね。しかし、事実は事実です。
 ── それでいて、その近くにいた人に、なんらかの示唆というか、感動をあたえていくのだと思います。いや、よい勉強になりました。(笑い)
 池田 法華経寿量品に「更賜寿命」という経文があります。簡単に申しあげれば“更に寿命を賜え”という意味です。
 ですから、信仰して亡くなった、多くの方々の姿を見たときに、客観的にも、医学的にも、その人の寿命が、二年も三年も、十年も二十年も延ばされていたという例が、まことに多いのです。
 屋嘉比 たしかに、医師の眼からみても、その人の「生きゆこうとする力」が強い場合、難病を克服している場合が、かなりあります。
 池田 そこで、大聖人は、「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず」と、おおせになっておられる。これが三世の生命の大原則である。
 ゆえに「死」は恐ろしきものでなくして、むしろ自然そのものの、新しき「生」への一瞬の眠りに通ずるといってよい。そこに、「死は恐ろしい」とみていることは「無明」である、という意義があるわけです。
 ですから、その意味においては、妙法への「信」強きことは、最大に「安心」なのです。また「安全」なのです。この世の劇が終わったなら、疲れて休む。そしてまた、生命力を蓄えて、次の「生」の活躍の劇を、繰りかえしていけばよいわけです。
 ── そのお言葉、感銘します。
 池田 つまり、この世が「生の記」であり、亡くなっても、そのまま「死の記」となるというのです。そして「又生ず」、つまり「死」は、必ず新たな生命誕生への原動力となり、瞬発力となっていくわけです。
 屋嘉比 人生の総決算の姿は、そのままつづくということは、わかるような気がします。
 ── しかし、目連とか鏡忍房や、熱原の三烈士のように、殺されたり、また交通事故にあえば、苦しいのではないですかね。
 池田 いや、妙法という「法」自体に帰命し、殉じた場合は、そのまま「仏界」という法のなかに入ることができるのです。
 この点は、かつて私も、戸田第二代会長にうかがったことがある。すると先生は、「眠るときに、ちょっとなにか夢をみるが、すぐに深い安らぎの眠りに入るから、心配ないものなのです」と言われた。
 ── そうですか、わかりました。
 池田 要するに、その人のもつ「法」が大事となる。その人のもつ「一念」の強さが大事となる。死後の宇宙空間の「十界三千の法」との感応があるからです。
 ── そうですか……。
 屋嘉比 私の知る多くの医師も言っていますが、ガンとか脳卒中とか、交通事故で亡くなっていく人は、不幸なようであるが、一面的にはいえない気がします。
 生きぬいている間の、人生の価値がどうであったかが、幸、不幸を決定するものであると。
 ── いや、たしかにそう思われることもありますね。
 少々、極端な話で恐縮なんですが、もう七十歳ちかくなるのでしょうか、ある殺人犯の母親が「息子の死刑を私は祈っている」と語っていたという、痛々しいニュースがありました。
 よく、われわれマスコミ仲間でも話し合うんですが、いくら親が長生きしても、子供が殺人者であったり、強盗などをして捕まった場合、その親は子供かわいさのあまり、かえって苦しむ。この場合は、かえって長命が不幸となっている。どう考えたらよいのかと……。
 屋嘉比 医学者として、こんなことを言ってよいかわかりませんが、つきつめて考えていくと、生きているほうがいいのか、いなくなってしまったほうがいいのか、わからない場合もありますね。
 池田 それは当然、天寿をまっとうし、生きぬくことが、正しい自然の道理であると思います。しかし、一寸先が闇であるこの人生と社会にあっては、長生き即幸せと言いきれない人もいるかもしれない。そこに、確固たる自身の生命観をもった人と、そうでない人との違いが出てくると思います。
 どうでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 私も、三十七年間の仏法の実践のうえから、さまざまな事象を見、聞き、指導もしてきましたが、仏法の鏡に照らしてみたときに、部分観でなくして、長い眼からみた全体観のうえからの幸福観が、わかるような気がします。
 幸福というものは、近づけば近づくほど、消えてしまう場合がある。不幸というものは、強く実感的に感じるものである。また、幸福の絶頂の裏返しは、不幸の奈落それ自体ともいえる場合がある。
 ── 長生きそれ自体が幸せなのか、短命なのが不幸なのか、むずかしい問題ですね。
 池田 要するに、深い幸福感は、地道な人生のなかにあるような気がします。
 「派手な虚栄的なものは消費に等しい」と言った哲学者がいたが、私もそう思います。
 地道な一日一日の、正しい法則のうえにのっとった生活の生きがいのなかに、幸福感は広がっていく。その正しい生命観をもっていれば、すべてのものを乗り越えていくこともできると思います。

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