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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 人生の幸福・仏法の死生観  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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11  “永遠”を決定する「一念」の強さ
 池田 私がいつも感銘を深くする、大聖人のお手紙のなかに、「謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへに・きへさせ給うべしただいまに霊山にまいらせ給いなば・日いでて十方をみるが・ごとくうれしく、とくにぬるものかなと・うちよろこび給い候はんずらん」という、まことに甚深のお言葉があるのです。
 「日いでて十方をみるが・ごとくうれしく」──。このような広々とした心で、さわやかな一念で、死を迎えることができるのであれば、これほど幸せな人生もないであろうと、思っております。
 屋嘉比 そうした奥深い人生の生きざまというか、その人の内面というものは、第三者には、やはりわからないでしょうね。しかし、事実は事実です。
 ── それでいて、その近くにいた人に、なんらかの示唆というか、感動をあたえていくのだと思います。いや、よい勉強になりました。(笑い)
 池田 法華経寿量品に「更賜寿命」という経文があります。簡単に申しあげれば“更に寿命を賜え”という意味です。
 ですから、信仰して亡くなった、多くの方々の姿を見たときに、客観的にも、医学的にも、その人の寿命が、二年も三年も、十年も二十年も延ばされていたという例が、まことに多いのです。
 屋嘉比 たしかに、医師の眼からみても、その人の「生きゆこうとする力」が強い場合、難病を克服している場合が、かなりあります。
 池田 そこで、大聖人は、「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず」と、おおせになっておられる。これが三世の生命の大原則である。
 ゆえに「死」は恐ろしきものでなくして、むしろ自然そのものの、新しき「生」への一瞬の眠りに通ずるといってよい。そこに、「死は恐ろしい」とみていることは「無明」である、という意義があるわけです。
 ですから、その意味においては、妙法への「信」強きことは、最大に「安心」なのです。また「安全」なのです。この世の劇が終わったなら、疲れて休む。そしてまた、生命力を蓄えて、次の「生」の活躍の劇を、繰りかえしていけばよいわけです。
 ── そのお言葉、感銘します。
 池田 つまり、この世が「生の記」であり、亡くなっても、そのまま「死の記」となるというのです。そして「又生ず」、つまり「死」は、必ず新たな生命誕生への原動力となり、瞬発力となっていくわけです。
 屋嘉比 人生の総決算の姿は、そのままつづくということは、わかるような気がします。
 ── しかし、目連とか鏡忍房や、熱原の三烈士のように、殺されたり、また交通事故にあえば、苦しいのではないですかね。
 池田 いや、妙法という「法」自体に帰命し、殉じた場合は、そのまま「仏界」という法のなかに入ることができるのです。
 この点は、かつて私も、戸田第二代会長にうかがったことがある。すると先生は、「眠るときに、ちょっとなにか夢をみるが、すぐに深い安らぎの眠りに入るから、心配ないものなのです」と言われた。
 ── そうですか、わかりました。
 池田 要するに、その人のもつ「法」が大事となる。その人のもつ「一念」の強さが大事となる。死後の宇宙空間の「十界三千の法」との感応があるからです。
 ── そうですか……。
 屋嘉比 私の知る多くの医師も言っていますが、ガンとか脳卒中とか、交通事故で亡くなっていく人は、不幸なようであるが、一面的にはいえない気がします。
 生きぬいている間の、人生の価値がどうであったかが、幸、不幸を決定するものであると。
 ── いや、たしかにそう思われることもありますね。
 少々、極端な話で恐縮なんですが、もう七十歳ちかくなるのでしょうか、ある殺人犯の母親が「息子の死刑を私は祈っている」と語っていたという、痛々しいニュースがありました。
 よく、われわれマスコミ仲間でも話し合うんですが、いくら親が長生きしても、子供が殺人者であったり、強盗などをして捕まった場合、その親は子供かわいさのあまり、かえって苦しむ。この場合は、かえって長命が不幸となっている。どう考えたらよいのかと……。
 屋嘉比 医学者として、こんなことを言ってよいかわかりませんが、つきつめて考えていくと、生きているほうがいいのか、いなくなってしまったほうがいいのか、わからない場合もありますね。
 池田 それは当然、天寿をまっとうし、生きぬくことが、正しい自然の道理であると思います。しかし、一寸先が闇であるこの人生と社会にあっては、長生き即幸せと言いきれない人もいるかもしれない。そこに、確固たる自身の生命観をもった人と、そうでない人との違いが出てくると思います。
 どうでしょうか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 私も、三十七年間の仏法の実践のうえから、さまざまな事象を見、聞き、指導もしてきましたが、仏法の鏡に照らしてみたときに、部分観でなくして、長い眼からみた全体観のうえからの幸福観が、わかるような気がします。
 幸福というものは、近づけば近づくほど、消えてしまう場合がある。不幸というものは、強く実感的に感じるものである。また、幸福の絶頂の裏返しは、不幸の奈落それ自体ともいえる場合がある。
 ── 長生きそれ自体が幸せなのか、短命なのが不幸なのか、むずかしい問題ですね。
 池田 要するに、深い幸福感は、地道な人生のなかにあるような気がします。
 「派手な虚栄的なものは消費に等しい」と言った哲学者がいたが、私もそう思います。
 地道な一日一日の、正しい法則のうえにのっとった生活の生きがいのなかに、幸福感は広がっていく。その正しい生命観をもっていれば、すべてのものを乗り越えていくこともできると思います。

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