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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 仏法は「生老病死」をどう超える…  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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9  仏法で説く「不老不死」
 ── 仏法では万人の願いである「不老不死」について、なにか説かれておりますか。
 池田 日蓮大聖人の「如説修行抄」という御文にあります。
 「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ」とおおせなのです。
 ですから、この「不老不死の理」とは、別しては、仏の悟りの法門なわけですが、まことにありがたいことに、大聖人は「万民一同に」とおっしゃってくださっているわけです。
 ご存じのように、仏法では「仏」の異名を「如来」ともいっております。
 この「如来」とは読んで字のごとく、「如如として来る」と解釈します。
 この「如如として来る」、その本体は何かといえば、「瞬間」「瞬間」の生命それ自体をさしています。
 この瞬間の生命というものは、過去から現在へ、そして現在から未来へと絶えまなく流れていく。その三世にわたって存在していくという意義において、「過  来」「如来」「未来」ととらえているのです。
 またむずかしくなってすみません。(笑い)
 屋嘉比 大切なお話と思いますので、ぜひともお願いします。
 池田 ところが、この「過来」「如来」そして「未来」と、絶えまなく存在していく生命というものが、われわれ凡下の眼には、とらえようとして、とらえられないものである。
 この、まことに不可思議なる「瞬間」の生命の実体を、戸田第二代会長は、法華経の開経である「無量義経」の経文をひいて、わかりやすく私どもに話してくださっていた。
 屋嘉比 どういう内容ですか。
 池田 ちょっと読んでみます。
 「其の身は有に非ず亦無に非ず
  因に非ず縁に非ず自他に非ず
  方に非ず円に非ず短長に非ず
  出に非ず没に非ず生滅に非ず
  造に非ず起に非ず為作に非ず
    (中略)
  青に非ず黄に非ず赤白に非ず
  紅に非ず紫種種の色に非ず……」
 つまり「生命」とは、「有」るとか「無」いとか、「方」すなわち「四角」いとか、「円」いとか、「没」するとか、「生滅」とか、「造」るとか、「起」こるとかといった、ありとあらゆる概念によっても規定できない。
 それでいて厳然として存在し、一貫したものである、というわけなんです。
 屋嘉比 わかります。
 池田 ですから、この瞬間である「生命」というか、「一心」というか、「一念」の実在は、本来、見ることもできない。色もない。重さもない。(笑い)
 屋嘉比 生理学的に人間の身体をみても、絶えまなく細胞が分裂し、入れかわり、脳までも物質的には新陳代謝していきます。肉体も固定したものはありません。
 だから、「これが生命だ」といえるようなものはなにもありません。(笑い)
 ──「心」も、人間はしょっちゅう変わる。(大笑い)
 池田 そうした、変化してとどまることなき人間の実相を、仏法は「五陰仮に和合するを名けて衆生と云ふなり」と説いております。
 これは、人間という存在も、「色陰」「受陰」「想陰」「行陰」「識陰」の五つが仮に和合しているというわけです。
 「色陰」とは、有形の物質、身体の物質的側面
 「受陰」とは、六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を通し、外界のものを受け入れる心の作用
 「想陰」とは、受け入れたものを知覚し、心に想い浮かべる作用
 「行陰」とは、想陰にもとづいておこる意志や行動の善悪に関するあらゆる心の作用
 「識陰」とは、認識作用、識別作用、また受、想、行の作用をおこす根本の意識・心の本体をさしていると思います。
 そして「仮和合」でありながら、人間は、みずからの意志で行動する。また生きている。ですから、そこにひとつの一貫した「自分」というものの存在があることも、よくわかるわけです。
 屋嘉比さんのおっしゃるとおり、人の細胞の構成成分も一年もたてば、すべて変わるといわれるが、自分自身は一貫しています。
 ── 赤ん坊のときの自分と中年のいまの自分は、まぎれもなく同一人物です。(大笑い)
 池田 われわれ凡夫は、「有形」なものはわかるが、「無形」なものには無意識になりがちなものです。
 ですから、瞬間それ自体に実在する生命というものは、それなりの傾向性をそれぞれもったひとつのリズムとも、いえるかもしれない。
 それが、「有形」「無形」「有情」「非情」を問わず存在していくわけです。
 その見ることもできない、とらえることもできない、だが、実在する、その瞬間の「生命」のなかに、すべての時間も、空間も、くまなく蘊在されるものである。
 それを仏法では、「我」ともとらえております。
 屋嘉比 普通にいう「生きている間」という意味での「生命」と、仏法で説く「生命」の違いが、よくわかりました。
10  「常楽我浄」の人生へ
 池田 重ねて申しあげますが、その「一心」といおうか、「一念」といおうか、瞬間の生命といっても、瞬間、瞬間の連続である。その過去から現在、現在から未来へという瞬間、瞬間の流れは、とどまることはない。
 それはまた「誕生」から「生」へ、「生」から「死」へ、「死」から「無」へ、すなわち「空」へ、また「無」すなわち「空」から「有」へというように、森羅万象にわたって、それぞれの現象、姿というものを演じながら、流れていくわけである。
 つまり、生命というものは永遠に「生死」「生死」を繰りかえしゆくのが、本来の姿なのである、というわけです。
 この点について、戸田第二代会長は、仏法で説くこの三世の生命観というものを、法華経寿量品第十六のなかの「方便現涅槃」という経文を引きながら、よく話してくれました。
 屋嘉比 その寿量品とは、どういう経文なのでしょうか。
 池田 この寿量品によって、釈尊の一代五十年の説法が完結するといわれております。
 簡潔に申しあげますと、ひとつの意義は、「文上」「文底」という次元がありますが、仏の生命が無量、すなわち永遠であることを、初めて明かしております。
 さらに結論していえば、大聖人は、「所詮しょせん寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ」とおっしゃっておられる。
 つまりこの宇宙の有情、非情のありとあらゆる森羅三千を貫く「大法則」であり、十方三世の仏の成道の本源の「法」たる「南無妙法蓮華経」の一法が文底に秘沈されているところに、この寿量品の元意があるわけです。
 ── よくわかりました。
 池田 そこで恩師は、この難解なる寿量品の「方便現涅槃」を、卑近な例をとおし、わかりやすく展開しております。
 それは、「涅槃、つまりわれわれが死ぬということは、方便である。人間はだれでも年をとる。そしてこの世の中で生存する生命力がだんだん衰えてきて死ぬ。だが、この身体は死んでも、われわれ自身の生命それ自体は、大宇宙の生命に溶けこんで、『我』として存在し、また生死を繰りかえすのである。いわば、疲れを癒すために夜寝るようなものだ。朝、目がさめて起きれば、また同じ人間である。これが違う人間だったらたいへんなことになる」というような内容でした。(大笑い)
 屋嘉比 なるほど。明快です。(笑い)
 池田 また「もし、われわれが死なないとしたら、地球は老人ばかり増えて、たいへんに困ることが起きてしまう。死ぬところにいいところがある」ともハッキリ言っておられた。(笑い)──いや、明快です。よく思索してみれば、そのとおりです。これもひとつの「妙」なのでしょうか。
 池田 そう思います。「生」も「死」もすべて「妙」であり「妙法」であると、大聖人はおっしゃっておられるわけです。
 まあ、戸田先生は「本有の生死」という大聖人の仏法をふまえられながら、この「方便現涅槃」についておっしゃっていたのだと思います。
 また、仏法では、「三世」の生命を達観なされた仏にそなわった「常」「楽」「我」「浄」という「四徳」というものが説かれております。
 ── その四徳とは、どういうものでしょうか。
 池田 これも簡単に言いますと、「常徳」すなわち、仏の境地は永遠に不変である。「楽徳」すなわち、無上の安楽である。「我徳」すなわち、自身の「我」の生命が自由自在で、他からなんの束縛も受けることがない。
 そして「浄徳」つまり、煩悩の汚れなき清浄の完成という意義になると思います。
 屋嘉比 すると、仏法で説く「不老不死」とは、肉体的な永遠を説くわけではないわけですね。
 池田 おっしゃるとおりです。
 ですから、「不老不死」すなわち「生死」「生死」とめぐりゆく、自身の「生命」の実在を達観した、自在無碍にして、清く、強い、そして永遠にくずれざる自分の「一念」というか、「一心」というか、それを築きあげていくのが、私どもの信仰の目的なのです。
 ── すると、仏法は「現世利益主義」だ、なんていうのは、無認識もはなはだしいですね。
 池田 そのとおりです。
 われわれ人間は、煩悩のかたまりみたいなものだ。その苦悩と煩悶の自身の「我」を現実の人生、生活にあって、「常楽」へ「我浄」へ、より高き人生の目的に向かいゆく大いなる煩悩へと、転換せしめゆく絶対的法則が「妙法」である。
 ゆえに私どもは、妙法の「以信得入」「以信代慧」という法理、法則にのっとって、日々仏法を信じ、行じ、学び、そこから人生、社会の価値創造をしているわけです。
 この一人ひとりの人間の幸せと蘇生への運動は、偉大なる時代変革の、一切の基本となると思っております。

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