Nichiren・Ikeda
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第一章 「外なる宇宙」と「内…
「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)
前後
10 はるかに遅れている「内なる心」の解明
―― たしかに「外なる宇宙」の無限の広がりは、実際の観測によって、どんどん裏づけられているようですね。
木口 ええ、ガモフの、宇宙は無限に広がっているという理論は、一九四〇年代に成立していたわけですが、その理論にもとづいて、宇宙が無限であるという考え方の正しさが、ある側面で実証されたのは、わずか十数年ほど前です。
アメリカのベル研究所の二人の電子工学者が証明しましたが、この研究で彼らはノーベル賞をもらっています。これによって、データや実験にもとづいた学問として、宇宙論が成立したといえます。さらにいまでは、エレクトロニクスの進歩による光学的観測手段の発達によって、三十億光年という広がりまで見ることができます。
そこにわかっているだけで十億以上の銀河系があり、一つの銀河には千億個以上の星がありますから、星の数にすると、かるく兆の千万倍を超します。
―― なるほど。
池田 こうした「外なる宇宙」の探究に比べ、「内なる心」の解明は、はるかに遅れていると言わざるをえませんね。
「外なる宇宙」への挑戦が、科学技術の進歩をもたらし、それが文明の花や実になって、たしかに、現実の暮らしを豊かにはしている。
コンピューターからインスタント食品まで、ロボットからクローン抗体まで、私たちの生活を大きく変えようとしています。
ところが、人間の「内なる心」の解明が、取り残されているがゆえに、“主役”であるべき人間が、科学の“脇役”にされてしまっている。昨今は、その感がますます強くなっているといっていいでしょう。
―― そのとおりですね。人々は、みなそのことを実感しており、一見、時代が華やかにみえても、心の底では不安をおぼえているのではないでしょうか。
11 「宇宙的宗教感情」への願望
池田 それが二十世紀の、“世紀末”の時代としての特徴といえるでしょう。
十九世紀の世紀末は、とくに文明の中心としてみられていたヨーロッパで、「内なる心」を担っていたキリスト教が、ドイツの哲学者ニーチェなどによって「神の死」を宣告されたことは、よく知られていますね。
「神の死」とは、比喩的な言い方で、じつは、それまでのキリスト教神学や価値観の破産であったといえます。
しかし、キリスト教の世界観にしばられていた学問の世界、とりわけ科学は、神の呪縛を解かれるやいなや、目を見はらんばかりの進歩を遂げたわけです。
ところが、神の死の枕辺に「内なる心」を担う相続人がだれもいなかった。
―― なるほど。そうしますと、アインシュタインはそこに着目し、相続人のイメージを考えぬき、むしろ願望を込めて「宇宙的宗教感情」という言葉をつくりだしたのではないでしょうか。
池田 そうでしょう。
一般的にいって、すぐれた科学者は、同時にすぐれた思想家でもあった、ということがいえます。
仏法を究める機会のなかったアインシュタインは、科学者としての思索の果てに、抽象的で漠然とした言葉だったけれど、「宇宙的宗教感情」という、一種の祈りにも似た感情を訴えかけたのだと思います。
話は変わりますが、木口さん、地球は、いちおうまるいといえますね。多少、楕円形ともいわれますが……。
他の一千億個以上(銀河系だけで)もある星は、ぜんぶ同じようにまるくなっているのでしょうか。
木口 いや、そうとはいえません。円盤状に見える星もあります。四角く見えるものもあります。とくに生まれたての星には、いろいろな刺が見えます。これらは、すべて光の屈折の関係でしょうか……。
しかし大多数の星は、まるいといっていいのではないでしょうか。まるが、いちばん重力、つまり自分の重みを支えやすいからです。
池田 なるほど。仏法でも円融円満という言葉があり、これこそ、人格の最高の理想とされているわけですが。
木口 「ガウスの定理」というのがあります。これは、物理学者が、みな不思議な法則と言っていますが、ひとことで言えば、まるくなっているということで、まるのなかの、すべての重みがムダなく重力となって、他からの影響をうけにくい、という定理です。
池田 団結ですね。(爆笑)
定理とか法則とかいうものは、必ず理にかなっている。不合理はない。
仏法もまた道理であり、宇宙の大法則にのっとった生命の法を開き、展開されたものを「経」と言っております。