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日蓮大聖人・池田大作

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調和――心の世界の法則  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
5  ところが現代の文明は、このことを忘却しがちですが、それは、これまで話し合ってきましたように、主観的なものを追放するという物理学が打ち立てた方法に起因しています。現代の文明は、無意識や直観、想像、感受性といったものから起こって合理的知性によっては制御されないものをすべて“主観的”と呼んで放逐してしまったのです。
 物理学としては、その学問の実践にとって厳密に必要であった方法を導入したわけですが、それが不均衡に発達することによって、心の世界のすべてをリードすると自負し、ついには、実際の人間の心の歪曲をもたらしてしまいました。この物理学にならって、人間は、人間が精密な知覚でとらえられ、合理的・組織的に利用できるものになるはずだと信じてしまったのです。
 そこに、あなたが、いみじくもいわれるように、私たちのうえにのしかかっている不均衡と窒息の危機があるわけです。
 人間はいまや、一方では、感覚への反応である欲望と本能的欲求と、ほとんど動物的な感覚的生命に退歩し(この感覚的生命は、事実、私たちが動物と共有しているものではないでしょうか?)、他方では、渇ききった主知主義のおとしあなにとらわれてしまっています。すべてはそこに到達するのですが、人間がまだ保っているのは、中間部分の利用しうる残滓だけで、それをもって辛うじて感情の働きの代用にしているのみで、感情の豊かな働きは消えてしまったのです。
6  さて、この現代の危機から引き出される結論に戻りましょう。それは、生きている生命と人間存在は有機的な統一体を構成しており、そこでは、すべての部分、この統一体に参画しているすべての機能が、互いに整合しあい、結び合った働きをし、相互に豊かにしあっていかなければならないということです。これを一言でいうと、調和的でなければならないということです。
 人間を図式化し、人間をしだいに一種の高等機械に還元し、ほとんど一つの電子頭脳の模写にしてしまおうとするこの考え方に対しては、断固戦うことが大事です。統一体にとって必要なことは、そのあらゆる部分が自らの正常な発達を確かなものにすることだという点が理解され、そのもっているすべての能力を十分に働かせるようにすべきです。
7  このことは、周知のように、人間がその全体の、平衡のとれた働きを取り戻したときには、その機能を発揮するために行動を起こさねばならない――ということはつまり、時間の中に関わらなければならないであろうということを意味します。その心の仕組みは“生きること”、つまり持続し発展し、自らを変革し、生きているかぎりなにかを実現すべきことを運命づけられています。
 それは“憧憬”という以外にないでしょう。この“憧憬”が正しく知覚され、正しく打ち立てられるなら、それこそ人間の生命がもたらしてくれる究極性にほかならないでしょう。そして、たぶん、この目標は、各人が追求(それは私たちを休みなく引っぱっていくものですので、あえて“追求”というのです)すべきもので、芸術が強調しているのをみてきたとおり、人間の“質”を発展させることなのです。
 たぶん、この目標と、それがひきつける力――それも“最良”のそれ――は、各個人において生きています。それは、各人においては、人類を同じ方向に引っぱっている集団的な大きな動きの反映にほかならず、そして、各人はそのできるかぎりにおいて、そこに貢献しなければなりません。そして、その場合にのみ、私たちの生命は調和をあらわします。たぶん、その褒賞して、ほんとうの深い幸福、つまり生きること自体の満足感が得られるのです。

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