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日蓮大聖人・池田大作

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中国  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
8  池田 私は、これまで、ソ連、中国を何回か訪れ、その指導者たちとも語り合いましたし、若者や市民たちとも交歓しました。もちろん、そこで会うことのできた市民たちは、かなり指導者たちによって選ばれた人びとだったであろうと思います。
 しかし、マルキシズムによる革命が、それ以前の過酷な圧政を取り払い、少なくとも物質的豊かさの点では、人びとに大きい福祉をもたらしたこと、それを人びとが喜んでいることはまちがいないと感じました。私は、ソ連や中国のマルクス主義政権がこの物質的な貧しさの苦悩をその人民から取り除いてきた功績は高く評価すべきであろうと考えています。
 それにもかかわらず、思想、学問、芸術等の分野においては、創造的な仕事に対して、権力による圧迫が加えられることもあるようですし、とくに、思想を表明したり集会を行ったりすることに対しては、強い規制があります。
 この権力による管理的なやり方は、二十世紀の今日においては、自由諸国でも強まる傾向があり、それは、資本家と労働者、市民同士のあいだに自由主義原理のゆえに生ずる過当競争や、その結果としての敗北者のみじめさを救うためには必要なことでもあります。
9  だが、自由主義を基本としていくかぎり、そこで採用される管理的手段は、あくまでも欠陥を補整するためという限度をもっています。ところが、マルクス主義は、少なくとも物質の生産については徹底した管理方式を貫くことを原理としています。物質の生産に関する管理は、そこに働く人間に対する管理を必要とし、やがては、社会のあらゆる分野についても、権力による管理的やり方の拡大を要求するにいたります。
 この意味で、私はマルキシズムの政策は、本質的に全体主義的統制の手段から離れることはできないと思いますし、もし、物質的な欲求が十分に満足され、人びとがさらに精神的な自由を求め、管理的統制をきらうようになり、それが人びとの大多数の要求になったとすれば、マルキシズムの政治は、根底から動揺せざるをえなくなるであろうと推測するのです。
10  あなたも指摘されているように、マルクス主義国家が、マルクス主義をドグマ化することをやめ、時代の変遷に対応し、人びとの求めるところに応じた政治を実現していけば、マルクス主義は、その人民のために歴史的にも高く評価される貢献をしたことになるでしょう。そして、それが、かりにマルクス主義と現在呼ばれているものとはまったく異なったものになったとしても、教条的なマルクス主義よりも、本来、マルクスがいだいていた理想にはるかに近づいたものといえるでしょう。

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