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日蓮大聖人・池田大作

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自律の喪失  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
10  もとより、これも、単純に過去の状態に戻せばよいというものではありません。すでに国家という大規模社会の壁さえも打ち破って全地球的規模での経済的流通、文化の交流が日常化しているのが現状です。毎日の食卓にのぼっている物自体、遠く世界の彼方から運ばれてきた果物や魚、肉等です。今こうして私が書いている紙も、おそらくカナダ等から輸入された原木からつくられたものでしょう。
 私は、まずなによりも、この点に関していえば、私たちは世界全体をわが生の基盤として深く認識し、そこに愛着をもち、責任感をいだいていけるようにならなければならないと思います。と同時に、ただ便利さや効率だけを追い、極端に分業化していく、近代以後、現在もつづいている文化の流れに対して、そのために失われたものを鋭く認識し、これを主体的にとらえなおしていく姿勢が大事だと思うのです。
 現在、欧米や日本のような先進諸国で起こっている、若者たちのコミュニティー運動は、こうした志向性の一つのあらわれとして認められます。ただ、これらは、あまりにも現実社会から逃避的です。むしろ、そうした発想、考え方を、現代社会そのものの中に具体化し反映させていくことこそ、なによりも求められる点ではないでしょうか。
11  ユイグ そうした若者たちは、現代において一つの反動が必要になっていることを表明しているのです。しかし、彼らはあまりにも初歩的な段階にとどまっています。今日の全般的危機の時代にあっては、その実現をめざさなければならない社会のさまざまな部面で必要な調和のとれた均衡は、もっともっと大きな規模の問題です。そうした調和ある均衡を達成することは、人間の精神的変革によってでなければ、期待できません。
 この変革において第一に求められることは、人間が自らの身体組織(心理現象をも含んでの)に均衡を再建することです。人間は、その本能的な手段と理性的能力とを、あらためて協力して働かせなければなりません。
 本能的手段は、私たちの感受性と身体組織との深い直観から生ずるものであるとともに、伝承によって少しずつ、非常に古い経験として伝えられたこれらの直観から生じます。他方、理性的能力は、合理的な尺度を創り出すまでになることによって古い経験を明確化しながら、行動をより迅速に起こすことを可能にします。人は、ただ盲目的な伝統によっているだけでも、または反対に、管理的な合理主義によるだけでも、社会生活を樹立することはできません。そのどちらも極端化すると、組織体の死をまねく以外にないのです。
12  私が恐れるのは、不幸なことに、現代の文明は、これらの部分的で偏った解決法の後者のほうに没入しているため、その平衡を取り戻して、逆戻りしないで補整しながら進むということが困難になっていくのではないかということです。現代文明のように進んでしまっている場合は、これまでやってきたことを元へ戻すことは不可能で、その行きつくところまで、ということはたぶん、破局に到達するまで行かざるをえないのではないかということです。
 人類が危機を前にして、必要なことに気づき、これまでの行き過ぎを修正しながら、新しい型の文明を再発足させるためには、ときとして、こうした破局も必要です。この恐れは無視できません。なぜなら、現代の文明は、自らを修正しようとするどころか、冷酷にも全世界に拡大しようとしていることがはっきりしているからです。そこでは、道がみつからないうちは一つの本能的で暴力的な危機が、たくさんの苦悩をひきおこしているのですが、だからこそ、ただ一つの出口がこの危機の中に見いだされるということが可能です。

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