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日蓮大聖人・池田大作

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親子の間の倫理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
5  池田 前の時代が、あまりにも子供を抑えつけた時代であったために、それへの反動が放縦主義を招いたというイギリスでの例は、日本についてもまったく同様に当てはまります。日本の場合は、特に明治・大正時代(十九世紀末以来の富国強兵の時代)に、国民一人一人が、天皇を中心とする国家の権威に服従することが求められたのと同じく、各家庭において、女性や子供は、夫や父に絶対的に服従することが理想とされました。こうした国内的秩序の確立が、国家として、国際社会の中で存分に力を発揮していくための条件と考えられたからでしょう。
 事実、若者たちを死の危険に満ちた戦場へ赴かせるためには、幼い時期から、権威の命令には絶対的に服従する精神的姿勢をしつけておかなければならないと考えられました。そのために、人間関係の秩序を徹底的に強調した儒教的道徳が、利用されてきました。
 この、国家の威信を高める行き方が、第二次世界大戦の敗北によって挫折し、富国強兵のあらゆる方策が放棄されたとき、儒教的道徳も一緒に捨てられたのは、このようないきさつからいって、当然であったといえましょう。もちろん、戦後の“民主主義”教育が、子供の人格を尊び、権威で縛ったり抑えたりしてはならない、子供の自由を最大限に認めるべきであるという考え方を普及させたことも、一つの大きな要因です。
6  また、さらに現実的な要素としては、戦後の経済的発展が、かつてない物質的豊かさをもたらし、夫婦が作る子供の数の減少と相まって、子供たちの欲求を存分に満たすことができるようになったこと、そして、親たちの多くは、仕事の多忙のために、子供をしつけるゆとりがなくなったこと、その結果、子供が非行に走っていることに気付いても、それに対処する自信も知恵もなくなっていること等々が挙げられましょう。おそらく、これらの諸要因は、日本だけの問題ではなく、現代の先進諸国が共通に抱えているものであり、その意味で、現代の物質主義的文明の本質的欠陥が現れたものであると思います。
 そこで、そうした親子間の関係に豊潤さと本来の愛情をとりもどすには、たんに外側からの規範、道徳教育のみでは不可能であると思われます。それは究極的には人間自身の問題に帰着し、人間の内面より律動するみずみずしい生命力の蘇生、より高度な精神的開化こそが、こうした技術社会にあっても、不変の親子の間の倫理を支えるものであると思うからです。その意味で、このような身近な現代の問題について、新たな人間の能動性を生み出す源泉に宗教がなりうるかどうかが、今後、問われなければならない点であると思います。
7  (注1)
 十戒モーゼ(イスラエルの民族統一者・立法者。紀元前一五〇〇年ごろあるいは紀元前一三〇〇年ごろ)がシナイ山で神の啓示を受けて定めた律法。「我のほか何物も神とすべからず」の他、安息日、殺人・姦淫・盗み・偽証・貪欲等々の十カ条で戒めたもの(『旧約聖書』「出エジプト記」二〇)。

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