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公害と自然観の変革  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  公害と自然観の変革
 池田 公害病の発生、自然の大規模な破壊と汚染等を契機として、人類はいま、これまでの自然観の根本的変革を迫られているように思います。
 すでに、住民運動が大きな盛り上がりをみせ、自然保護の運動が成果を上げているところもあります。しかし、地球環境の抜本的保全策を立てて回復を実現していくためには、より多くの人々の賛意と協力が必要でしょう。つまり、大自然を自己の欲望やエゴのために決して傷つけてはならないとか、自然とともに生を送るところに人間としての真実の人生があるという自然観を、全世界の人類が絶えずもち続けることが肝要だと思われます。
 いうまでもなく、現代にいたる科学文明の底流には、人間と自然を対立関係で捉え、人間の利益のために自然を征服し、利用することを是とする思想がありました。その淵源は、ユダヤ一神教的考えにまで遡ることができると思います。ところが、自然破壊が大規模になるにつれて、こうした行き方がいかに自然界のリズムを狂わせるかが、しだいに明瞭になってきました。そうした中にあって、科学の領域で、自然と人間の関係を、対立ではなくあくまでも共存であると主張し始めたのが生態学です。
 今日繰り広げられている自然保護運動も多くが、その基盤に生態学を置いていますが、さらに自然保護運動が多くの人々の共鳴を呼び、その参加を勝ち取っていくためには、人間一人一人の、自然との共存を目指す意識の変革が必要になると思われます。また同時に、自己の生命に内在する貪欲を打ち破るだけの、力強い精神力の確立がなければなりません。
 こうした、人間の自然観の根本的な変革がともなわなければ、大自然との共存といっても、たんなる理想になってしまうでしょう。私は、人間の意識の変革、貪欲、エゴの克服のためには、宗教がどうしても要請されると思います。その場合、私は、自然の律動と人生との一体観を捉えた東洋の仏教の自然観、生命観に注目すべきではないかと考えています。
2  ウィルソン 人間の科学上の努力、今日ますます比重を増している社会科学における努力も、その推進力は、すべて、自然に対する支配を確立することにありました。人間は、人工の環境を造り出すことに大いに成功を収めましたが、その結果、人間の日常生活の背景をなす特徴は、すべて人間自身の工夫によって作られた加工品であるということです。今日、大多数の人々が都市に住んでいますが、都市に備わるものは、すべて人間が築いたものなのです。鉄筋コンクリートが、自然の丘陵や谷間とほとんど競い合うようにして、人々を取り囲んでいます。
 人間は、しだいに自分の力で動くことが少なくなり、ますます機械装置に依存するようになっています。また、どんな自然環境・社会環境からも、他の環境へと、意のままに移動することができます。人間の食物は、改良され、製品化され、潅漑によって潤され、あるいは化学肥料で刺激が加えられています。それでいてそれらは、自然から直接得られる食物に比べて、濃度も栄養分もはるかに及ばない場合が多いのです。人間はまた、自分が住む生活空間の温度まで、セントラル・ヒーティングやエア・コンディションで調節しています。
 さらに人間は、かつて、もっと自然に接して生活していた時代に存在していた環境とはまったく異なった、独自の環境を造り上げました。かつてのような、各個人がそれぞれの経歴や縁故や友人関係、気質、性格、才能などをたがいによく知り合っていた、全人格的なつながりのある、親密な関係の集団からなる小さな共同体に代わって、現代における人々の関係は、たがいに名も知らぬ人々が、機能的な関係性をもつ複雑な構造の中で、それぞれに各自の役割を演じている、役割遂行者の集合体となってしまっています。人間同士が作っているこの環境は、物質的環境といえるまでに人為的・人工的になっています。
3  とはいっても、あらゆる工夫の挙句の果てに、結局、人間は、基本的に自然に依存し続けているのです。同様に、作られた人間関係のあらゆる精密な構造の奥にも、やはり個人としての人間という主体は存続しており、その多くが、親密な人間関係の温かさや愛情を、また、ますます非個人化する世界での共同体社会の安全性を、必死の思いで求めているのです。
 あなたがおっしゃるように、必ずしも明瞭な形では現れていないにせよ、自然に帰り、自然の蘇生的な特質を保存し、より本質的な自然界や人間社会との調和を一層体験したいという強い欲求が、人々の間に見られます。ところが、逆説的には、こうした自然への回帰の試みそのものが、往々にして科学的ないし社会学的な技術に頼ることになりがちなのです。
4  池田 現代人はあまりにも科学技術の恩恵に包まれてしまっているため、自然に帰るのにも、科学技術の力に頼ってしまうのです。人々は自然を求めて、バカンスには、たとえば山へ出かけますが、エア・コンディションを付けた自動車で行きます。そして、そうした客をより多く引きつけるために、自動車道路が原生林に覆われた山腹を削り、自然の植生を台無しにしています。旅行者は、エア・コンディションを効かせた車の中から、高台や山頂に建てられた、やはりエア・コンディションを効かせたホテルやレストランに入り、ガラス越しに雄大な展望を楽しみながら、人工的な食事をし、やがて車で帰っていきます。
 日常生活も、もちろん、科学技術の力に頼っています。建物の階から階への移動はエレベーターやエスカレーターに頼り、道路上では車に頼り、ほとんど脚力を使いません。そのために生ずる運動不足を解消するために、アスレチック・センターへ通っているわけです。階段を自分の脚で上り、路も自分の脚で歩いたならば、運動不足の大半は自然に解消されるのです。
 バカンスの山や海も、自動車などによらず、麓まで通じている列車を降りてからは、せいぜいバスを使う程度で、山道や海岸沿いの道を、それこそ自然の土や岩を踏んで歩いたならば、新鮮な空気を存分に呼吸できるし、足の裏に当たる土や石の感触は、身体の中にたまった日ごろの不健康要因を一挙に払拭してくれるでしょう。自然に帰るとは、たんに自然の景観を眼で見ることではなく、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、肌に触れ、胸いっぱいに吸い込むことなのです。こうした考え方に立つならば、自然の破壊も、そのかなり多くが防がれるはずである、と私は思います。
5  ウィルソン その通りです。言い換えれば、科学も、人間の組織も、人間自身が作り出したものであり、したがって、科学によってわれわれが失ってしまった社会、つまり科学に頼らない、共同体的な(意識的に組織化したものではない)社会を回復しようとして、科学の不都合な結果を取り消そうとする場合ですら、現代の人間は、しばしば科学的な方法や技巧を用いるはめに陥っているのです。
 現代人は、科学的な方法で変質させた食物に、科学を用いてビタミンを添加しています。われわれは、土壌や人間自身の体内に注ぎ込まれた化学薬品の影響をなくすために、新たな薬物を注入しているのです。同じ現象が、社会のレベルにおいても、これに劣らず生じています。
 数年前、アメリカの大学で学生紛争が盛んであったころ、あるグループが広い大学の構内という、まったく非個人的な環境の中で、失われた人間関係を必死に回復しようとして、「共同体創立委員会」なるものを自称していたのを思い起こします。委員会というものは、すでに意識的に作り出されたものであり、そうした人為的なものによっては、自然発生的な共同体を生み出すことはできないのです。共同体を破壊した張本人の官僚制的な手順が、今度は、その共同体を復活させようという試みの手段になろうとしているのですから――。
 政府の機関であれ、関心と善意をもつ市民の圧力団体であれ、そうした人為的機関は、人間と自然の調和を回復したり、人々に共同体を再び確立させるうえでは、あまり効力を発揮しないでしょう。したがって、私は、倫理的な関心が広く普及して、各個人がそれを熟慮の末に自己自身の意識とし、さらに子孫に伝えようとする場合にのみ、人間と自然の均衡を再構築する可能性があるとする、あなたのご意見には賛成です。あなたが「内面の変革」と言われたものを、私は「内面化」(注1)という用語で表現したいと思います。私たちが言わんとしているのは、ともに人間的な価値への方向性を、最も深いレベルで受け入れることであると思います。
6  価値観が社会に行き渡る過程は、文化的な順応が微妙に進行することに依存しています。新しい価値を求める方向性は、政府などが命令できるものでないことは明らかです。これは、ソ連における経験からも明らかなことです。
 すなわち、ソ連の数年前のある公式の報告によると、多くの村の中から特に隣接する二つの村を選んで、ある調査がなされました。一つの村で調査員が発見したのは、生産のノルマが達成されず、道路が十分に修理されていないこと、そして村民は酔っぱらっていることが多く、不潔と無秩序がはびこっていることでした。しかし、村民の中で共産党員が占める比率は高いものでした。もう一つの村では、高水準の生産がなされていました。道路はよく維持され、アルコール中毒者もなく、清潔で秩序が保たれていました。しかし、この村の住民はイデオロギー上、不健全であるとされました。彼らはバプティスト派の信徒だったのです。
 人々は、公式のイデオロギーには口先だけの忠誠を尽くしますが、意識や生活様式の正真正銘の変革は、人々が自主的に賛同し、内面に受け入れ、「自分自身のもの」とした、内的な価値観から生じるものでなければなりません。
7  池田 興味深いお話です。イデオロギーやスローガンを、ただ口で論じ、人に命令することはやさしいのですが、それを実践化することは、しばしば忘れられてしまうものです。表面的に口で派手に論じている人ほど、肝心の自身の実践化をなおざりにしている場合が多いものです。これは、いま言われた例にかぎらず、あらゆる思想と、その実践運動にもいえることであろうと思います。
 自然との調和、自然との一体感を取り戻すということも、そうです。さきに教授は、アメリカの大学で見聞された「共同体創立委員会」の話をされましたが、指摘されると、なるほどそうだと思いますし、一種の滑稽味さえ覚えますが、人間は、あらゆる場合、さまざまな次元で、これと同じような間違いを犯し続けてきたのではないでしょうか。
 これまで、平和を口実にしなかった戦争はないといわれますが、いまも、人類の多くは“平和のため”を口実に核兵器をつくり、核武装の競争をしています。さきに私が挙げた、自然に帰るために自然を破壊している例も、同様です。口に言い頭で考えていることと、それを自身の内に確立し実践していくこととが結びつかず、往々にして逆のことをしているところに、人類文明の直面している悲劇の一つの原因があるといっても過言ではないでしょう。「内面化」が大事であるとして教授がご指摘になった点は、まことに重要な意味を包含していると思います。正しい理念の「内面化」が、とりもなおさず「内面の変革」ということになるわけです。
8  ウィルソン そのような、価値観の社会化や文化変容の過程に、最も効果的な働きをするものが宗教であることは、私は疑問の余地がないと思います。事実、宗教こそは、この種の価値観を効果的に普及することができる、唯一の媒体でありましょう。
 制度的な調整は、素朴なルソー(注2)的楽観主義が想像したような効果は生まないということに、私たちはいまこそ気付かなければなりません。良い制度は(かりに良い制度を構成する要因について合意が得られたとしても)、本来それだけで良い人間を作るものではありません。同時に、いやおそらく根本的に、何をなすべきか、何をしてはならないかという社会的意識が広まらなければなりません。要するに、西洋的伝統の中に広まった自然観とは、まったく異なる自然観をもつ文化がなければならないということです。
 人間と自然の適合を回復する価値観を弘めることは、あなたのご指摘からもうかがえるように、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統をもつ諸宗教には、不適切な仕事であるかもしれません。「人間は自然より優位にある」というのがキリスト教の有力な考え方であり、現実の世界が、そして世俗社会が堕落するというのは、これらの諸宗教の伝統に深く根差した思想です。プロテスタントの社会では、こうした方向性が、人間が自然を支配すべきであるという主張となって開花し、この気質が科学技術の発達に大いに貢献しました。
 今日、多くのキリスト教徒が、自然環境問題に大きな関心をもっています。しかし、こうした信条に立つ最も活発なグループでさえ、おそらくキリスト教の概念にはほとんど依存していないでしょう。
 たとえば産児制限のような、人間による人間性の支配も含めて、人間による自然の支配から生じている不都合な結果を、大多数の人々に分からせるためには、たしかに新しい価値観を普及し直すことが必要でしょう。もし仏教が、これらの価値観を人々に提供して、環境破壊から生じる損害や危険に目覚めさせることができるなら、仏教は、人類を人類自身から救ううえで、決定的な役割を演じることができるでしょう。
9  (注1)「内面化」
 第四部「ルネサンスと宗教改革」の項参照。
 (注2)ルソー(ジャン・ジャック)(一七一二年―七八年)
 フランスの作家・啓蒙思想家。『人間不平等起源説』『社会契約論』などで民主主義理論を唱え、フランス大革命の先駆となった。自然への賛美と人間社会への呪詛がその思想の中心をなし、「自然に帰れ」の語は有名。『新エロイーズ』『エミール』『懺悔録』『民約論』他。

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