Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

現代科学文明と欲望  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
9  ウィルソン 宗教は、道徳的コンセンサス(意見の一致)と社会的安定について発言するだけに止まらず、人間に日常的経験や社会的安寧を超越した目標を明快に指し示す働きをもっています。西洋人がよく使う言葉でいえば、人間はしばしば“無限なるものとの調和”を求めます。つまり、自己の存在における一体性と究極的実在との融和を欲するのです。そのような欲求は、ある特定の人々だけが、それもおそらくは時折感じるだけでしょうが、その表現方法が文化の違いによって異なってくるのは理解できることです。
 あなたが述べておられるように、それは大宇宙に融合しようとする欲求なのです。あるキリスト教徒はそれをイエスとの真の結合と呼び、また別の人々はそれを心の内奥の安寧と表現するでしょう。この存在の本質的ないし究極的な諸相との一致に対する探求は、一つの深遠な、またたぶん、ある面では普遍的な、人間の傾向性であると私は信じています。
 何かに自己を完全に没頭させたいという欲望は、より取るに足らない面では、性欲を含む人間の生理的欲求の中に現れます。宗教においては、その欲望が昇華され、形而上学的な言葉でしか表現できないところまで高められます。この宗教的昇華は、結局はマックス・ウェーバーのいう“宗教的音痴”(注1)の人々の理解を超えたところのものですが、それが仏陀のような哲学的表現であるにせよ、アヴィラの聖テレサ(注2)のような神秘的表現であるにせよ、宗教を教える人たち、また実践する人たちからは、人間の精神的追求の極致とされているものです。広くいわれることですが、人生をきわめて豊かなものにする宗教の恩恵は、こうした精神的努力によってこそ、もたらされるのです。
10  しかし、そこにもなお、無視できない困難があります。あらゆる先進諸国において、多くの人々が、社会における道徳的コンセンサスという比較的小さな恩恵は当然として、個人の精神的豊かさの達成や、またたぶんいま述べたような精神的努力の極致とかを希求(ききゆう)しているわけですが、そうした人々でさえ、宗教的信仰の基礎をなす根本命題を知的に受け入れることは不可能であると思っていることです。
 また、それとは別に、宗教は長期的視野からみれば価値あるものだと思っていても、その長期的な恩恵のために目先の楽しみを捨てるだけの覚悟がなく、そのため宗教に帰依することができずにいる人々もいます。おそらくは、こうした二つの思惑が、人々の精神的・宗教的欲求を呼び起こそうとする宗教指導者たちの試みへの、主な障害となっているのではないでしょうか。
11  (注1)“宗教的音痴”
 音楽的感性に乏しいことを音痴というのを宗教に当てはめて、宗教的感情や実践に反応を示さない人々に対して付された語。
 (注2)アヴィラの聖テレサ(一五一五年―八二年)
 スペインのカルメル会修道院の修道女。自らの生涯を神秘的・恍惚的に叙述した著書は、キリスト教神秘主義の規範となっている。

1
9