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仏法と深層心理学  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  仏法と深層心理学
 池田 東西思想の比較には種々の角度がありうると思いますが、私は、仏法と深層心理学(注1)との比較研究も、重要なテーマの一つだと考えております。
 特に、仏法の中でも、唯識派の形成した八識論、そこからさらに発展した九識論(注2)は、人間の心の深層を解明し、体系づけた仏法法理の一つとして注目すべきものです。仏教者の禅定・瞑想の体験が、このような法理として結実したのです。深層心理学や精神分析、並びに昨今の心身医学(注3)においても、西洋的科学の方法論を使って人間の心の解明がなされており、そうした研究は、心と生理との相関にも及んでおります。
 私は、東洋の直観智が明らかにしたものと、西洋の科学的分析の成果を比較し、総合することによって、人間生命の鮮明な像が浮かび上がってくるのではないかと考えます。また、どちらが、生命奥底のより深部に及んでいるかという比較も可能であるし、それによって、両者を一段と深めることもできると思います。
 このような意味からしても、たとえばユングの集合的無意識層(注4)と唯識派の阿頼耶識(第八識)の対比を試みることは、きわめて興味深いことであると考えています。
2  むろん、ユングと唯識派の仏教者とは、その思想的基盤が異なり、また方法論・目的も違っているかもしれません。ユングの分析心理学の基盤は、あくまでキリスト教的土壌であり(グノーシス派(注5)及び錬金術の(注6)系統に立ったとはいえ、東洋の神秘主義とは違っています)、一方、唯識仏法は、大乗仏教の高度な理論化の一つの精華といえましょう。また、ユングの無意識界への探求は、精神病の患者の症状が出発点になったと聞いています。唯識仏法は、瞑想や禅定による仏道修行を通じて、無意識の深層を解明していったものです。
 しかし、私が興味をもつのは、ユングが、自ら精神分裂症になったのではないかと思うほど、激烈な体験を経て、東洋的思考に巡り合ったという事実です。もちろん、ユングはキリスト教的土壌に止まりましたが、ユングの出合った東洋的思考を東洋人の立場から吟味し、検討してみることは、東洋と西洋の両方にとって意義深いことでしょう。
 この両者を対比する作業がきわめて困難であることは当然ですが、それでも一つの糸口として、たとえばユングの“自己”とその象徴と、仏教でいう仏性やマンダラ(注7)との対比、ユングの自己実現というものと、仏教でいう成道との比較検討等が、考えられるのではないかと思うのです。
3  ウィルソン 私は社会学者として、比較研究法にたいへん力を注いでおります。私は、もし社会学が人類の歴史学的・心理学的・人類学的な知識に何かを補足しうるとすれば、それは系統的な比較研究の過程によってなされるであろうと信じております。したがって、私は、精神分析の理論や心理的操作の技法、心身機能の経験的証拠などは、すべて比較研究の格好の主題になるとのご意見に、原則的に賛成です。
 ただし、これを具体化するとなると、さまざまな問題が生じてきます。比較分析が有益なものとなるためには、十分な準備と、厳密さと、調整が必要です。経験的な証拠に関しては、基本的な困難は方法論上の困難であり、これは慎重さと忍耐とによって、だいたい解決することができます。さまざまな技法を比較することは可能ですし、それらの各種技法を説明し正当づけている理論上の原理を別にすれば、きわめて実際的な検査によって、種々の技法の長所を評価することが可能でしょう。また、たんに主観的な状態だけでなく、客観的条件にも注目するなら、瞑想やヨーガ、反対暗示(注8)、自由連想法(注9)、夢の分析といった、さまざまに異なる技法を、たがいに関連づけて評価することができます。
4  決定的な困難が生ずるのは、理論に関してです。そこで直面するのは言語上の問題です。一つの言語から他の言語への翻訳が必要なだけではありません(しかも、まぎれもなく、これ自体がすでに困難なことが多いのです)。厳密な科学的・数学的公理や記号に直接支配されない事柄になると、言語が伝える仄めかしや、言外の意味や、言葉の響きによるコミュニケーションが必要になります。現代の厳密に合理的な手段も、心理現象の際立った特徴である非合理なものを分析するうえでは、困難に突き当たります。
 この問題は、ある部分では、諸々の範疇に関連している問題です。精神面の現象については経験による照合が困難であるため、そのさまざまな意識状態を区別するのに用いられる範疇は、任意のものになりがちです。私たちは、意識のさまざまな状態について立てる区別が、必ず客観的事実の一部であると無邪気に想定することはできません。
5  また他方、私たちが用いている範疇そのものが、私たちの認識を左右するだけでなく、実際のデータを左右することも考えられます。人間の精神はきわめて順応性がありますから、ア・プリオリ(先験的)な根拠から、範疇決定の適切な基盤として初めに任意に受け入れた精神構造の類型に反応を示したり、影響を受けたりするということは、決して考えられないことではありません。
 ここに生じてくる問題が複雑であることは、明らかです。人間精神の柔軟さが、私たちの範疇を、信頼するに足る、恒常的な価値を示すものとして想定することを難しくするのです。人間は、その時代その時代に、分析のために使われている範疇に順応して生きています。したがって、このこと自体が、人間の反応の感度に影響しており、あるいはそれらを決定すらしているのかもしれません。比較分析を行うには、明らかに、このように複雑難解な問題を解決する必要があるわけです。
 この範疇という問題からさらに先に、普通、人間の起源や本性や運命についての広範な哲学的・宗教的前提に依拠している、もっと一般的でとりとめのない、解釈の論理という本論があります。ただし、そこに第二(または第三)の範疇法が展開されて、それがさまざまに異なる解釈の論理体系のうえに――必然的にかなり抽象的な次元において――応用されないかぎり、この領域で比較研究をすることは、厳密さを欠くことになりそうです。
6  そのような、幅広い哲学的世界観が経験的データや、精神療法の技術といかなる関係をもつかは、制度や文化によって異なりますから、この関係性の本質を究明する必要があるでしょう。また、この幅広い哲学的基盤そのものが、精神分析や精神治療の技法がもつ効力に実際に影響するのかどうかも、問うてみなければなりません。あるいは、これらの知識体系は、固有の魅力を備えた自由な発想に立つものであって、心理学的体系を正しいと認めさせる思想をたんに文化的に容認されうる言葉でまとめ上げたものにすぎず、もしかしたらそうした思想的裏付けがなくとも十分に効力をもち、根拠もあるものなのではないでしょうか。
 私はたぶん、いまここで私が言わんとしていることを例証できると思います。
 たとえば鍼療法は、多くの症例にまぎれもなく効能のある医療です。しかし、鍼の裏付けとなる理論と、西洋医学の正当化のために引き合いに出される理論を一致させることには、相当な困難があります。鍼療法は時として、西洋医学が失敗している分野で成功を収めることがありますが、鍼の有効性を説明するのに用いられる理論は、西洋の医学者にはほとんど理解できません。鍼療法の効能を左右するような、文化的に特殊な心理的要素というものがあるのでしょうか。
7  また、別の分野での例ですが、今日、超常的な現象の体験に関して、意見が一致しつつあるようです。そうした超常体験のいくつかは、死の淵から蘇った人々や、あるいは自ら“超自然的”と感じる、強烈な体験を経た人々の間に起こっているものです。しかし、そうした実際の体験は、詳しく述べられている通り、たがいに類似していても、それらを説明する理論は種々さまざまにあって、一致してはおりません。しかも、そうした理論が、体験それ自体の真実の話を粉飾している場合も往々にしてありえます。理論自体が、そうした体験を生み出しているということもありうるのではないでしょうか。
8  池田 たしかにそうした理論が、超常的な体験を粉飾し、歪曲しているかもしれないことは、十分に考えられることです。
 また、教授は、文化的に特殊な心理的要素が鍼治療の効果に影響を与えるのではないか、という疑問を提示されました。鍼灸療法を含んだ東洋医学(広義の東洋医学は、漢方医学・インド医学等を包含する名称ですが、ここでは漢方医学の名称として東洋医学を使用します)は、近代西洋医学とはまったく違った哲学的生命観あるいは世界観に立脚しています。
 教授が言われるように、東洋医学は、西洋医学で効果のない症例でも治療効果をあげることが少なくありません。だからといって、東洋医学が万能でないことは当然です。また、東洋医学の基礎理論は、西洋人にとってきわめて理解しがたいものであることも、当然かもしれません。
 たとえば、東洋医学では、前にも述べました“随証治療”という最も重要な原則があります。患者の“証”を見ながら、その“証”の時間的推移に従って、そのつど薬方を変えていくという原則です。
9  さて、ここにいう“証”とは何かということですが、“証”を構成し治療の方針を定めるための範疇として、気血思想というのがあります。これは、生命体の基本になるものは気と血であり、生命現象はこの調和によって成り立っているという思想です。気とは生命現象の根源になるもので、西洋の医学者のなかにはエネルギーと訳している人もいるようです。その気が血を生じ、気と血の調和で健康な生命活動が営まれるとされます。血も、たんなる血液ではなく、あらゆる液体成分を総称したものと考えられます。この気と血が不調和であると、種々の病気を引き起こすわけです。
 そして、この気血が全身に行きわたる経路があり、これらの経路は、陰と陽の二つのグループに分けられます。陰は静的・消極的であり、陽は動的・積極的ですが、陰陽は相対的なものですから、陰と陽を切り離して使用することはありません。
 東洋医学では、このような種々の範疇を組み合わせて、患者の“証”を診断し、経路を追い、処方や鍼灸の治療を行うのです。この理論は難解ですが、東洋医学が、西洋医学的方法によって測定しても十分に確認できる、生理的・肉体的効果をあげていることは事実です。
 このような東洋医学の治療効果を考えれば、西洋医学とともに、東洋医学も十分に活用できるような方途が講じられなければならないと思います。また、今後、西洋科学の方法を使った東洋医学の実証例が蓄積されていくにつれて、西洋医学の立場から見ても整合された理論体系ができ、また、東洋医学の範疇を西洋医学の言葉と理論に対比できるようになるのではないかと、私は期待しております。
10  ウィルソン 比較研究にとって必要な第一歩は、人間精神の研究のうえでの各種のアプローチにおいて、記述、分析、説明などさまざまな段階で使用される言語を綿密に分析することでしょう。
 こうした手順は、思想形態を一つの文化的脈絡から他の文化的脈絡の中へ移し替えようとする場合、必要不可欠であるように思われます。この仕事には、中性化、乾燥化された言語記号(コード)が必要です。その記号は、それでいて、私たちのデータの一部となりうるもとの言葉の中に、生きた要素として、適切に反応するものでなければなりません。
 自然科学のデータは、意志をもたず、移ろいやすさもなく、心理的な感受性ももたず、この点が自然科学を益していることは明らかです。自然科学は、完全に客観的で経験的なデータに依存している度合いが高く、それ故にこそ、数学的な乾燥化した言語を使用することができるのであり、その結果として、特定の文化の枠を超えて、国際性をもつにいたったわけです。
 これに比べて、社会科学を“翻訳”することは容易ではありません。なぜなら、社会科学が扱うのは、本来、文化的に限定された経験的データであり、その説明のためには、特定の文化的概念を用いなければならないからです。これらの概念を、他の言語を用いる他文化の人々のために翻訳しようとすると、必ず困難がともないます。この学問分野をより科学的なものにすれば、翻訳の仕事は容易になりますが、しかしその代償として、説明しようとする現象の、特殊な、その地方特有の文化的内容が失われてしまうことになります(ここでは、人文科学は別にします。人文科学は、特定の文化内に通じる言葉を使って特殊な文化的所産を研究するものであり、したがって異文化間の比較も、曖昧で散漫な用語による以外には、はるかに無系統な比較しかできない分野です。このことは、社会科学がそれなりにもっている厳格ささえも欠く「比較文学」や「比較宗教学」といった柔軟な学科からも分かることです)。
11  最後に、哲学について見ますと、これは、社会科学に比べて、哲学の擁護者が認めようとするよりも、ずっと大きい文化的制約を受けています。哲学の主要な関心事は経験的データではないため、哲学は概念の分析に大きく依存することになり、その結果、特定の言語形態に拘束されます。このため、ある文化においては人目を引く洞察的な分析のように見えるものも、他の言語に翻訳されると、さほど大きな意味合いをもたなくなってしまうことが多いのです。
 西洋と東洋で発見された人間精神への異なる研究法を検討することは、このように自然科学や、社会科学や、哲学において経験されている、種々の困難に直面することになるでしょう。しかし、私の提案したような、一歩一歩を積み重ねていく過程は、あなたが提唱されたきわめて望ましい比較研究へ向けての、一つの可能性をもつ道であるように思われます。
12  (注1)深層心理学
 意識に対して無意識の層を考え、経験や行動を無意識の現象によって説明する心理学。フロイトの精神分析学、ユングの分析心理学、アドラーの個人心理学などのことを深層心理学と呼ぶことが多い。
 (注2)八識論・九識論
 人間の意識作用を分析したもので、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識(一切の現象を生ずる根源の識)までを八識、さらに阿摩羅識(奥底の究極的実在)を含めて九識という。前五識は感覚的知覚、その他は内面的経験である。(第五部「死と意識」の項参照)
 (注3)心身医学
 精神身体医学。心身相関医学。人間はたんに生物学的な存在ではなく、生物学的・心理的・社会的要素の統一体であるとの考えから、人間を総合的に考察・診療する医学。
 (注4)集合的無意識層
 集団的無意識論。人間の心の深層には個人の体験だけでなく、原始よりの種族的な経験の集積に起源をもつ集団的無意識があって、遺伝的に伝えられるというユングの説。
 (注5)グノーシス派
 ギリシャ時代末期(紀元一、二世紀)に、ローマをはじめ、ギリシャ文化の及んだ中近東一帯に流行した宗教思想の一派。超感覚的な神との融合の体験を可能にする神秘的直観を重んじた。その思想は、東洋の宗教思想とギリシャ哲学思考の混合といわれる。
 (注6)錬金術
 人造黄金を作り出すことを目的とした観念論的で神秘主義的な化学技術。古代エジプトに起こり、アラビアを経てヨーロッパに伝わり、近代化学の基礎がつくられるまで全ヨーロッパを風靡した。不老不死の万能薬の発明などには成功しなかったが、化学の諸分野の発達を促した。
 (注7)マンダラ(Mandala)
 曼陀羅・道場・壇・輪円具足・功徳聚などと訳す。その意味は①本尊のこと、②菩提道場のこと(釈尊が成道した菩提座とその周辺地域)、③壇のこと(仏像などを安置して供物・供具などをそなえる場所)、④密教では、本質・真髄を有するものの意から、仏内証の菩提の境地や万徳具足の仏果を絵画に描いたものをいう。
 (注8)反対暗示(countersuggestion)
 心理学で、以前の暗示効果を禁止したり、あるいは固定観念の影響を消す目的のもとに、逆の暗示をかけること。
 (注9)自由連想法
 精神分析学で、心に浮かぶことを次々に言わせる方法。フロイトが患者の深層心理を解明しコンプレックスを吐露させるために用いた。

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