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日蓮大聖人・池田大作

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安楽死について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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7  池田 たしかに人間にとっての死は、たんに医学的・生理学的な問題に止まらず、文化的・社会的側面をもっていると思います。一人の人間の死には、家族や親類や友人・知人等の、人間関係への影響が必然的に含まれています。また、自分の生命ならば自分で処理してもよいという考え方は、生命の尊厳の理念とは根本的に相反するのではないかと、私も思います。
 そこで私は、現在、安楽死(任意性安楽死)もやむをえないとして論議されている前提となる諸問題の解決にこそ、人智の限りを尽くし、努力を集中すべきであると考えます。同時に、私は、死に際して直面する精神的・実存的苦悩と、いかに対決するかということが大事であると思います。そして、死および死の恐怖と戦う勇気と安心感をどのようにして死にゆく人に与えられるか――そこに私は宗教の役割があるように思われます。
 死に際しての人間の苦には、生理学的苦痛以上のものがあり、相乗効果を発揮していると思われます。
 仏教では、人間苦を分析して、苦苦、壊苦、行苦に分けて捉えています。最初の苦苦は、肉体的・生理的苦痛です。第二の壊苦は精神的・心理的悩みです。最後の行苦というのは、行とは現象世界を指し、この世界での生命活動自体が無常である故に苦であると捉えるのです。
 人間にとっては生理的苦痛よりも、死を機縁として起きる心理的悩みのほうが大きいものです。自分や自分の仕事に対する評価を気にしたり、残していく家族のことを思い悩むものです。特に、仕事や家族に未解決の問題があった場合は、それを解決するまでは死ぬにも死に切れない気持ちになるでしょう。
8  さらに、死苦には、根源的な苦として、死という未知なるものへの不安・恐怖が加わってきます。ただひとり死と対決し、その恐怖を克服しなければならない、孤独なる戦いがもたらす苦悩――それが仏教でいう行苦です。
 今日、ペイン・クリニック(注3)はどんどん発達しており、やがては、どのような身体的苦痛でも除去することが期待できるでしょう。しかし、壊苦と行苦に対しては、身体的治療だけでは不十分です。
 私は、壊苦と行苦を患者が克服するために、家族や医療関係者の愛情ある援助とともに、宗教と、人間愛や慈悲といった宗教精神が重要な役割を果たしうるように思うのです。
 こうして、医学の進歩と宗教の援助等が相まって、安楽死を考えずにすむような“良き死”を招来させること――これが、望ましい解決法といえるのではないでしょうか。
9  (注1)安楽死
 助かる見込みのない病人を、苦痛から解放するために、薬品などの人為的な方法により安楽に死なせること。
 (注2)容認主義(パーミッシブネス)
 一般に認められている道徳上の定めを放棄することを正当化し、以前なら道義上非難されたはずの行為を積極的に容認したり、もしくは少なくともそれへの無関心を促すような性向をいう。
 「(注3)ペイン・クリニック
 痛みを和らげる治療医学の一部門。

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