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日蓮大聖人・池田大作

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キリスト教衰退の原因  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
6  人間はますます、あたかも良く調整された機械の部品のように配置されるようになってきています。また、人々が自分たちの関心事を遂行する際には、たいていは、少なくとも国民国家レベルで「全体社会的に(注1)」組織化された機関に、またときには事実上国際的な制度や経済関係に、関わり合うことになるのです。このような構造が機能しているのは、キリスト教の宗教的な特殊性をまったく超えた論理によってであり、さらに、キリスト教の道徳律はたんに個人的なもの、その関心が偏狭なもの、現代の諸機関の非個人的な性格からすれば取るに足らないもの、と思わせるような規準に従ってのことなのです。
 キリスト教特有の信念は、それが初めて説かれた時代に固有のものであった、もしくはその後、何世紀にもわたって比較的最近まで残存していたような、今日よりもはるかに共同体を基盤とした社会秩序に適するものであった、ということがますます感じられています。
 現代の社会組織は超自然的なものを顧みることなしに動いていますから、宗教は、ますます社会の片隅へ、個人の私生活における余暇時間へと追いやられ、そのため社会の組織それ自体にとっては、重要な位置を占めるものではなくなっています。かつては、キリスト教の慣用語が人生万般にわたる活動の主な指針となっていたのが、いまでは、公共生活のあらゆる主要な分野――経済、政治、訴訟、教育、福祉、レクリエーションなど――が、すべてそれとは無関係に機能しているのです。
 その結果、西洋人がまだ宗教を持つ余地のある私生活の領域においてさえ、キリスト教の教説特有の要素が個人の経験と合致することは、少なくなっています。そして、キリスト教の倫理は、人間対人間の関係という、いまでは縮小されてしまった領域の倫理に、ますます限定されつつあるようです。
7  キリスト教の神話は、具体的、個人的、局地的という特殊性の故に、今日では、かつてほどの適応性がなくなっています。それは、キリスト教神話が縮図的に示す諸々の関係が、いまではほとんどの人々にとって、決して特別な社会的体験ではなくなっており、さらに、おそらくは最も支配的な社会的体験ですらなくなっているからです。これらの神話について、現代の神学者や聖職者の間に確信のなさが見られ、そのため、こうした神話が、私生活の模範としていまだに辛うじて保っているかもしれない魅力さえもが、そうした専門家自体の懐疑主義によって、一層薄められているのです。
 西洋における世俗化の過程には、さまざまな原因があるようですが、私個人としては、その多くは、キリスト教という宗教と、この数十年来、西欧諸国で機能している合理的・技術的な社会秩序とが、適合しなかったことによると思うのです。
8  (注1)「全体社会的に」(societally)
 ここでいう「全体社会的」とは、社会全体に特有の特質、社会全体と共存している特質のことを指し、社会内の一部のグループや少数グループがもつ特質とは、はっきり区別されるもの。

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