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カリスマ性について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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8  ウィルソン その通りです。カリスマ的なものに対する、そうした現代人の不信は十分に理解できるものですが、しかし、だからといって、それは、ある特定の分野で名をなす人々に特別の尊敬を払ってはならない、という理由にはならないように思われます。非常に優れた資質、偉大な美徳、抜きんでた知恵や技能などが、すべて個人によって達成されうることを認めたからといって、それが直ちにカリスマを意味すると決めてかかる必要はないでしょう。それに、私には、人間に具わる資格の異なり、人間の真価に対するさまざまな認識、職務や業績のそれぞれ異なる尊さなどを認め、支持することは、人間関係にとっても必要なことであるように思われます。
 個人個人の差異があるにもかかわらず、あまりに徹底した平等が要求されると、民主主義は、現実の世界に沿わない仮説につけこんだ、一つの戯画になってしまいます。こうした業績や個人差が認められないとしたら、また、資格の違いが維持されないとしたら、人類の向上への努力、文明化への努力は、支えを失ってしまうことでしょう。刺激は少なくなり、人間的な価値を支える重要な源泉は、破壊されてしまうことでしょう。
9  私の信じるところでは、人々は、自分たちを率いてくれる者に、栄誉を与えたがるものです。指導されているという認識は、感謝と尊敬の念を呼び起こすものです。たしかに、それが行きすぎることもありえます。釈迦牟尼が、後世の信奉者によって神格化されがちであるのは、まさにその一例でありましょう。他の宗教においても、ほぼ同様のことが生じました。キリスト教でもイスラム教でも、その創始者たちが決して提唱しなかった“聖者”の概念によって、超自然的な力を個人に付与することが、事実上、制度化されてしまいました。
 人間の才能、適応力、情緒的安定、根気強さなどは、多くの属性の中でも、特にその差異が保たれるものです。このため、たぶん私たちは、リーダーシップは、人間事象においては不可避なものであるということを、認めなければならないでしょう。また、それだけではなく、人間の常として、自分よりも成功している人や進歩している人に対しては、自分にそうした能力がなくとも、あるいは自分が精神的な旅立ちをより遅い時点で始めたとしても、競争意識が起きるものだ、ということも認めなければならないでしょう。
 競争意識とか、尊敬の念、そして手本を探し求めることなどは、たしかに、これから学びたいと思っている者にふさわしい事柄です。これに対して、指導者としては、自分が達成した目標は、他の人々にも達成可能であることが認識されうるよう、常に留意すべきでしょう。そうすれば、リーダーシップは、依然として人間的なもの、近づきやすいもの、人を奮い立たせるものであり続け、カリスマの概念に含まれる呪術的な要素が生じるのを防止することになります。また、これによって、指導者に対する信奉者たちの尊敬の念も、それにふさわしいものとなるとともに、彼らの追求を前進させるうえで、その効力を発揮することになるのです。
10  (注1)カリスマ性カリスマとは元来カトリックの用語で特能、霊能、聖賜物などと訳されるが、社会学者マックス・ウェーバーによって学術用語化された。ウェーバーによれば、カリスマの資質をもつ者は、身体あるいは精神に超自然的・非日常的な特殊能力をもつ者である。ウェーバーは、社会における支配形態の一つとして、カリスマをもつ者と、それに帰依する者との関係をカリスマ的支配形態と名付けた。カリスマ的人格の例には、ペリクレスやナポレオンのような政治的指導者なども含まれるとされる。

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