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日蓮大聖人・池田大作

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生命の尊さ  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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7  池田 仏教が生命を慈しむことに最高の価値を置いたことを物語るエピソードを、ここで紹介しておきたいと思います。それは、釈尊が過去世に行った無数の仏道修行の一つとして説かれているものです。
 その一つは、薩埵王子(注2)と呼ばれたときのことで、王子は兄たちと森へ遊びに出かけたとき、飢えのために死にかかっている虎を見かけます。それは母親の虎で、かたわらには、何匹かの子虎が、すでに母親が乳も出ないので、同様に死に瀕していました。兄たちは、そのまま城へ帰ってしまいますが、薩埵王子は取って返して、飢えた母虎に自分の身体を食べさせ、彼らを救ったというのです。
 もう一つは尸毘王しびおうと(注3)いう王であったとき、鷹に追われて鳩が逃げ込んできます。王が憐れんで鳩を守ろうとすると、鷹が「あなたは鳩の命を重んずるが、私が飢え死にしてもよいのか」と迫ります。しかし、鷹にやる物がありません。そこで、王は、自分の身体の肉を削ぎ取って、鷹に与えたという話です。
 これらのエピソードは、仏教徒にはよく知られた本生譚の一つです。ここに教えられていることは、虎や鷹、鳩といった人間以外の生き物の生命をも、人間のそれと平等に尊ぶべきであるという考え方であり、そうした、他者のためには自己の生命をも抛つ慈愛の心と実践が、仏教の教えであるということです。
 釈尊滅後約百年ごろに出て、仏教の精神を政治に反映しようとしたアショーカ王(注4)は、さまざまな善政を行いましたが、その一つに、あらゆる動物のための病院を各地に設けたといわれています。
 人間の生命のみを尊重する考え方が往々にして人間のエゴイズムを生み、その人間の中でも、特定の民族や、特定の信仰者、特定の階級の人々のみに限られた生命尊重に陥りやすいのに対し、動物に対してさえも生命尊重の精神を及ぼすことは、最も本源的な生命尊重のあり方を象徴しているのです。
8  もとより、私たちは現実的にこれを行動に当てはめることはできません。さまざまな生き物を食糧にせざるをえませんし、明らかに害をもたらす生き物は、殺したり駆除したりせざるをえません。しかし、その根底に、生命尊重の精神が貫かれているかどうかが大事です。同じく牛の肉を食べるにしても、そこに感謝があり、また、そうした犠牲のうえに保たれている自己の生を、より価値あるものとしていこうとする努力がなければならないでしょう。そして、こうした精神的基盤が確立されていくことこそ、人間同士の殺し合い――小さい規模では犯罪としての殺人行為から、大きい規模では戦争まで――を、この世からなくしていく鍵といえるのではないでしょうか。
9  (注1)『新約聖書』マタイ539
 (注2)薩埵王子
 釈尊が過去世に菩薩行を修行したときの名。慈悲の精神を説いたもので、出典は金光明経巻四。
 (注3)尸毘王
 釈尊が過去世に菩薩として布施行の修行をしていたときの名。真に仏道を求めて精進しているかどうかを試された。菩薩本生鬘論巻一にある。
 (注4)アショーカ王
 生没年は不明。インドを初めて統一した大王。仏教に帰依し、過去の暴虐を悔悟してから、慈悲の精神に基づいた統治を行った。戦争の放棄、平和主義の政治・外交・福祉政策などを採用。仏典の結集や、石柱や磨崖に刻まれた法勅によってもその事跡が知られる。

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