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芸術と宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  芸術と宗教
 池田 ある思想が、一つの国や地域においてかなり大きな影響力をもつにいたった場合、あるいはそうなろうとするとき、特に芸術に、その強い影響が現れるように思います。革命芸術とか宗教芸術などが、その顕著な例ですが、それは芸術の偏向をもたらすのではないか、という批判があります。
 すなわち、特定の宗教・思想を宣揚する内容をもった芸術は称賛され、また芸術家がそうしたものを創造するように仕向けられることが多く、それらの分野については創造も進むかもしれませんが、それ以外のもの、特にその思想に反する内容のものは、徹底的に排斥される傾向が強いという指摘です。
 私もその考えには、全面的にではありませんが、賛成です。なぜ全面的でないかというと、個人的な考えですが、人を暗く悲しくさせるもの、死を賛美するかのような芸術よりも、未来に希望を与え、明るくさせるもののほうを好むからであり、私は、芸術なら何でもよいというような考えには、なかなか馴染めません。といってもこれは、まったく私の好みの問題であって、それを人に強制しようという考えは、少しももっておりません。
2  芸術に、道徳的な、あるいは思想的な目的をもたせようとすること自体、芸術を手段化するものであり、芸術はそれ自体、目的であるという考えを否定しようとは思いません。また、私一人がどういう印象を抱いているとしても、それが普遍化されなければならないとは思いません。芸術は、たしかに個人の好みの問題でもあるわけですから、要はそれをいかなる人にも強制しないことが大切であると、私は考えています。
 もし、その思想あるいは宗教に、真実、人々に訴えかける内容があるならば、何らかの方向づけを与えなくとも、十分にその内容を反映したものが出てくるはずだと考えます。教授は各国の例を見ておられると思いますが、この問題について、どのような印象をおもちになり、どうあるべきだとお考えになりますか。
3  ウィルソン 芸術が、特定の宗教やイデオロギーへの奉仕を強いられるのは不当なことだとのご意見には、私もまったく同感です。実際、そんなことになれば、純粋な想像力を、枠にはまった形式や命じられた内容にすりかえて、自己の利益のみに奉仕するような芸術家ばかりになってしまうことでしょう。芸術家は、自分に伝えられた概念をただ解釈するだけの、たんなる技巧屋になってしまいます。
 いうまでもなく、現代の世界では、そうした事態が生じる可能性が増大しています。現代は、イデオロギーによる体制が、社会統制の手法においてより強力化してきており、全体主義社会にあってはこの体制が浸透して、日常生活の細目にまで影響を与えようとしています。そうした体制のもとでは、芸術は公的な保護によって、完全に支配されてしまいます。そして、国家や政党が、最も個人的な表現の形式を含めて、あらゆる意志疎通の機関に、画一的な物の見方を押しつけるようになります。
 しかし、また同時に、一つの社会において人々の価値観が高度に画一化しており、また芸術家が、自分を召し抱えている君主や宗教的権力者のために――せいぜい自分特有の技法で――その支配的価値観をしばしば表現しているような文化的背景においても、最高の芸術作品といわれるものの多くが生まれ出たことも事実です。こうした芸術家の中には、自らかなり積極的に宗教に関わりをもった人々もいましたが、自分たちが生きた時代のテーマや、自分たちの芸術的才能を形成してくれた文化のテーマを、ただ受け入れていたにすぎない人々もいたのです。
4  とはいえ、芸術作品の中には、それ以外にも、まぎれもなく豊かな構成をもつ名匠の労作があり、そうした名匠が、必ずしもみな、自分が仕えたパトロンたちと、同じ宗教的心情をもっていたわけではありません(このことは、宗教的な記念建造物の装飾などにしばしば明瞭に表れている“生きる歓び”や、ときとしては、いくつかの大聖堂の彫刻の中にさえ密かに表現されている異教徒的心情などにも、見ることができます)。
 多くの芸術家は、もちろん、信仰心が篤かったわけでもなければ、宗教的な徳性からインスピレーションを得ていたわけでもありません。芸術家として第一級の才能をもっていた人々も、往々にして放埓な生活を送っていましたし、宗教的テーマを大胆かつ想像力豊かに解釈していながら、実生活のうえでは宗教的な考え方には無関心、といった芸術家たちもいました。
 過去数世紀を見るかぎり、成功をおさめた芸術家たちの芸術家気質は、多くの場合、何ものにも依存しない、片意地なものでした。これに対して、多くの信仰心篤い人々が、自らの宗教的確信からインスピレーションを得た芸術を創造しようとして、みごとに失敗しています。こうした人々の作品は、往々にして感傷と陳腐に堕し、宗教的な“駄作”の手本となってもいるのです(ヨーロッパには、そうした“駄作”を扱う、庶民向けの大きな市場があります)。
5  しかしながら、芸術上の想像力と宗教的な世界観との間には、緊密な親近性があることも、また確かです。宗教家の抱く世界観には価値と意義が充満し、象徴的要素が響き渡っています。宗教家は、そうした要素を、すばらしい景色や非凡な行為の中に見出すのと同じ程度に、日常的な行動やありきたりの事物や些細な出来事の中にも、見出します。これと同じように、芸術家は、他の人々なら捨て去ってしまったり、あるいは少しも気付かないでいるような事象に、深い意義を感じることができるのです。
 宗教家と同じく、本来、芸術家もまた、意義に満ち満ちた世界に生きています。そうした世界では、多種多様の事物が感動を呼び起こしてくれますし、そこにはさまざまな価値が暗に含まれています。宗教家と芸術家とでは、世界観は一致しないかもしれませんし、価値観も分かれるかもしれませんが、しかし、彼らは同種類の人間なのです。彼らは、他の人々の間ではとかく優勢になりがちな、実証的態度や物質的関心とは、基本的に対極の立場にあります。芸術にとっても宗教にとっても、世の中は、額面通りに捉えられるべきものではないのです。
6  池田 芸術と宗教とが非常に深い共通性をもっていることは、ルネ・ユイグ(注1)氏も、私との対談で強調されていたところですが、それは、私の見方とも一致していました。宗教が、この世界を一つの意味体系によって捉えることはいうまでもありませんが、芸術においてもまた、その芸術家なりの意味づけ・見方が、芸術の芸術たるゆえんとして重視されます。つまり、宗教も芸術も、内面世界を根本とし、外的世界はその内面世界の投影といった意義をもつものになります。
 特に仏法では、依正不二といって、その人の生命の状態、心のあり方によって、客観的・実証的には同じである世界が、まったく異なってくることを明らかにしています。依とは「依報」の略で、依報とは、その生命活動のよりどころということで、環境世界を意味します。正とは「正報」の略で、生命活動を営む主体を意味するのです。そして不二とは、二つの別々のものではないということです。根本的には、生命というものが、われわれの身体の中に限定されて閉じ込められているのではなく、依報をも包含した広がりをもっていることをいうのです。ただし、現実問題としては、生命主体に対峙するものとして捉えられる依報も、主体である正報を反映して変化の姿を示すということです。
7  仏教の経典には「心は巧みな画家のようなものである」と、こうした生命の働きをなぞらえて説いた一節があります。当時の画家は、西方世界でもそうだったと思いますが、写生よりも、自分の心に想像して絵を描きました。実際には存在しない竜などの動物や、天使や神を描いたのです。それは、文字どおり、主観的な心象の投影であったわけです。しかし、このことは、現実のモデルを写生する近代絵画においても、程度の差こそあれ、相通ずる真理です。モデルを写してはいても、その見方は、やはり主観的な心によって変わりますし、絵筆をもってカンバスに描いていく段階には、なおいっそう主観性が介入します。
 写実主義の絵画においても、モデルは一つの素材であり機縁であって、その絵を描くことは創造行為であり、絵は作品であるわけです。これと同じく、宗教者にあっても、信仰の内面世界と日常の外的世界とが渾然一体となり、信仰生活そのものが一種の芸術作品とでもいうべきものになっているといえましょう。
8  ウィルソン そうなのです。言い換えれば、宗教と芸術は、ともにさまざまな事象と相互に影響し合いながら、冷徹な客観性ではなく、情緒的な共感を求めるものです。科学的伝統が、対象を客観的に見て距離を置くことを要求するのに対して、宗教と芸術は内的な実在を理解することを求め、もっぱら主観的な認識と独自の解釈を旨とし、そこでは対象に対して距離を置くことよりも関わりをもつことが不可欠になります。宗教と芸術にとって、世界は、たんに科学的に測定できるものではとうていなく、事物の表層下に横たわる種々の意味に浸されているのです。
 過去の偉大な宗教的伝統の中では、芸術家は、たとえ自分自身はその支配的な宗教の思想を強く信じていないまでも、少なくとも信仰者と同じ共鳴を感じていましたし、同種の世界観を直観的に把握していました。ですから、芸術家は、篤信家と同じ文化的示唆を受け、その宗教的文化から筋書きや人物像、象徴や主題を提供してもらって、自分の芸術創作に表現したのです。
9  これに対して、現代の世界では、どの自由社会でも価値が多元化しており、このため芸術家には、過去の宗教的世界観から得られたような、重要な文化的テーマがありません。その結果として、芸術自体、その主題が以前よりも一貫性がなく、分散したものとなり、その価値が多様化しており、このために、一般の人々にはなかなか理解できないものになっているのです。ひとつの危険性は、芸術が過度に個人化しているということです。文化が一貫性と連続性に欠けるため、芸術家に作風を与えることができず、そのため芸術家たちは作風を求めて奇抜な表現をし、自意識過剰になっているのです。ときとして、彼らは、ある期間、ちょうど一揃いの衣服を着るように一つの作風を身にまとい、後になって別の作風に着替えるというようなこともします。彼らの芸術は、もはや自己の人格の本来的なものから生まれるのでなく、移ろいやすい時代のファッションや流行に由来するようになります。
10  人間社会に一貫した価値体系が失われるとき、何よりも芸術は、重大な影響を受けずにはいられません。そうなると、人々はかなり懐疑的な眼で芸術を見るようになりますが、だからといって、それがあながち誤りだとはいえません。そうしたことから、芸術は、宗教や思想に不当に隷属させられる可能性はたしかにあるわけですが、しかし、以上のような意味において、まとまりをもった価値意識を失えば、芸術家がまったくの個人的レベルを越えて何らかの一般的な価値を社会に伝達することが困難になる、いやそれどころか、(芸術的想像力を高めることなく)技巧を凝らすことしかできなくなる場合が、逆説的ではありますが、ありうるのです。
 現代社会はあまりにも開放的であり、あまりにも多元的であるため、「芸術と偶然は一つに収束する」などと一部の芸術家が(私にいわせれば愚にもつかず)公然と信じているような現状では、もはや技能さえも必要でないのかもしれません。
11  (注1)ルネ・ユイグ(一九〇六年―)
 フランスの美術史家。パリ大学で哲学を学び、一九二七年ルーブル美術館に入り、三七年以来、絵画担当技官として展示方法の変革、作品修復、美術館の運営に優れた才能を示した。アカデミー・フランセーズ会員。コレージュ・ド・フランスの教授、ジャックマール・アンドレ美術館館長等を歴任。ルネ・ユイグ・池田大作共著『闇は暁を求めて』(講談社)は一九八一年に発刊。

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