Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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註解  

「人間革命と人間の条件」アンドレ・マルロー(池田大作全集第4巻)

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3  さ行
 シアヌーク(Norodom Sihanouk 1922~)
 元カンボジア民主国国家元首。一九四一年カンボジア国王に即位するや独立のために努力し、四九年に独立宣言、五三年には完全独立を果たした。五五年に王位を父にゆずり、父王の死後は即位にかわり国家元首に就任。東西両陣営から援助をあおぎ、“綱渡り外交”によってベトナム戦争からも中立を保った。七〇年モスクワ訪問中に親米右派のクーデターによって追放され、以後は北京に滞在し、カプチア民族統一戦線、カンボジア王国民族連合政府を樹立してプノンペン政権に対抗した。七五年四月、北京で池田名誉会長と会見。プノンペン陥落ののち、同年九月、五年ぶりに帰国。同国は七六年一月に民主国発足により王制と別れを告げた。九一年七月、カンボジア最高国民評議会議長に就任。
 ジスカール・デスタン(Valery Giscard d’Estaing 1926~)
 フランスの政治家。コブレンツ(独)の生まれ。理工科大学、国立行政学院を卒業し、はじめ大蔵省に入ったが、五六年に国民議会議員に当選、三年後には国務相となる。六二年にド・ゴール与党の新党である独立共和派を結成して、その総裁となった。ド・ゴール政権、ポンピドー政権を通じて長く蔵相をつとめたあと、七四年に大統領となり、国際経済危機の打開に尽力した。
 『資本論』カール・マルクス(1818~1883)の主著。科学的社会主義の理論的な基礎づけをした書物として、数十カ国語に翻訳され、共産主義・社会主義の運動の思想的な基盤の役割を果たした。第一巻を一八六七年(七二年に改訂版)に刊行したあと、続巻を完成せずにマルクスは没したが、友人のフリードリヒ・エンゲルスがその遺稿を整理して、一八九四年に全三巻四冊として完成した。その理論によれば、一方の側における富と資本の蓄積は、他方の側における貧困と窮乏の蓄積をもたらす。これは資本の運動法則がもたらした必然の結果であり、ここに資本主義社会の根本矛盾がある。この矛盾を解決するものは資本家階級ではなくて労働者階級である。だから労働者階級は資本家階級の蓄積した富と資本を奪取して、これを人間解放のために使わなければならない、と論じている。
 四門出遊四門遊観ともいわれ、四門とは四方の門、遊観とは遊び歩いて見物すること。仏教に説かれる。釈尊が悉達太子であったとき、宮城の東門から出遊して老人を見て、生あれば老あることを悟った。南門から出遊して病人に逢い、生あれば病あるを知った。西門から出遊して一死人に逢って、生あれば死あるを知った。さらに北門から出遊して端然として威儀具足した僧侶に逢い、その姿も心も清浄であるのを見て出家得道の望みを起こした。このようにして人身に生老病死の四苦があることを知ったと、その因縁を説いている。
 シャルトルのカテドラル
 フランス中北部のシャルトルにある聖堂で、ゴシック式大聖堂の代表的なものとして知られる。十二~十三世紀に改修されたが、その当時のステンド・グラスや多くの彫像が保存されており、中世大聖堂の景観をよく伝えている。聖母マリアの会堂(ノートル・ダム)として尊重され、その“御下着”があることから多くの巡礼者を集めている。カテドラルは、聖堂のうちの主聖堂、司教座のある聖堂のことで、これを大聖堂ととくに呼んでいる。
 十字軍遠征
 一〇九六年から一二七〇年にわたって、西ヨーロッパのキリスト教徒が聖地回復の名の下に行った大遠征。一〇九六年―九九年の第一次から、一二七〇年の第七次(第八次)におよんでいる。セルジューク・トルコが地中海東岸に進出して、エルサレム巡礼者に迫害をくわえたりしたため、ローマ法王・ウルバヌス二世が一〇九五年フランスのクレルモンで宗教会議を催し、十字軍遠征を決議させた。フランスが遠征を行ったのは第一次、第二次(ルイ七世)、第三次(フィリップ二世)、第六次、第七次(ルイ九世)であるが、第一次のときエルサレムを占領したのを除いては失敗に帰した。しかしこの遠征の結果、法王の権威失墜、封建貴族の没落、東西交易の促進、イスラム文化との交流などがおこり、中世社会の転換に大きな影響を与えた。
 ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne 1828~1905)
 フランスの科学冒険小説家。一八六三年に空想科学小説のはしりともいうべき『気球に乗って五週間、発見の旅』を雑誌に発表し、冒険小説の新しい分野を開拓した。H・G・ウェルズの初期の科学小説にも大きな影響を与え、SFの父ともいわれる。代表作の『八十日間世界一周』や『海底二万哩』は映画にもなった。『海底二万哩』では、潜水艦ノーチラス号が登場、潜水艦の発明に先がけたことで知られる。『二年間の学校休暇』は、日本では『十五少年漂流記』のタイトルで知られる。他に『地底旅行』『地球から月まで』など、多くの作品が翻訳されている。
 成住壊空、方便現涅槃
 「成住壊空」とは四劫といい、宇宙・生命・その他いっさいのものが、その過程をたどって流転していくことを説いた言葉。たとえば地球などの天体が成立する期間は成劫、その状態で続いていく期間は住劫、三災(火災・風災・水災)によって破壊される期間は壊劫、消滅してしまった期間は空劫となる。そしてまた次の成住壊空をくりかえしていく。この方軌を人間の一生にあてはめると、出生して成長する青少年時代は「成」、壮年時代は「住」、老年期が「壊」、死んで生命が宇宙の中にとけこんだ状態は「空」となる。しかし、日蓮大聖人の『観心本尊抄』には「四劫を出でたる常住の浄土なり」等と、この成住壊空の流転をくりかえす生命の中に、常住にして不滅の生命が、厳然と存在することが説かれており、本文での池田名誉会長の発言のように、生命の永遠性が、そこに説示されている。
 また「方便現涅槃」は法華経如来寿量品第十六の文で「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず而も実には滅度せず常に此に住して法を説く」とある。仏は衆生を救わんがために、方便して涅槃(死)を現ずるというのである。つまり、生命は永遠であり、本有常住であるが、仏は生死の理を示すために死を現ずるということを説いている。死とは生命の滅失を意味するのではなく、つぎの新しい生のための方便だとされているのであり、これも生命の永遠性を明かしたものである。
 ショーロホフ(Mikhail Aleksandrovich Sholokhov 1905~1984)
 旧ソビエトの作家。ドン河沿いのヴョーシェンスカヤ村で生まれた。作品のほとんどすべてにわたってドン・コサックの生活を描いているが、彼自身はコサックの出ではない。短編『ほくろ』で二四年文壇にデビュー。長編『静かなドン』は二八年に第一部を発表したが、第四部の完成まで十数年をついやした。これは民族の一大叙事詩ともいうべき大長編で、革命の歴史と階級闘争のきびしさを余すところなく伝えた、ソビエト文学最高の傑作とされている。第二の長編『開かれた処女地』は、第一部が三二年に書かれてから、六〇年に第二部が完結するまで三十年ちかくかかっている。三二年以来の党員で、三七年最高会議代議員、三九年科学アカデミー会員に選出され、ソビエト文学界では別格に遇されていた。六五年ノーベル文学賞受賞。七四年、池田名誉会長と会談。
 人権宣言
 フランスの〈人および市民の権利の宣言〉をさす。この宣言は、一七八九年七月十四日のフランス大革命(バスティーユ解放)後、憲法制定国民議会が同年八月二十六日に可決したもの。一七九一年に制定されたフランス憲法の第一番目に掲げられている。人間が生まれながら自由で平等であること、国家は人間の自由、財産、安全、圧制への抵抗などいわゆる自然権を保全するためにあること、主権は国民に存すること、法律は市民の参与によって作られるべきこと、身体の自由、言論の自由、宗教の自由、財産権の不可侵などの原則を定めており、前文および十七カ条からなる。近代自由主義的国家・政治観を公式に表明した文書として、アメリカの独立宣言とともに広く知られる。
 シンメトリック
 シンメトリー(Syme’trie)ともいう。美的形式原理の一つであり、対象構成における中央の垂直軸によって区画される左右の二部分が、位置や形状において相照応する関係をいう。
 スターリン(Iosif Vissarionovich Stalin 1879~1953)
 旧ソビエト連邦共産党書記長、首相、大元帥。グルジアのチフリス近郊で靴屋の息子に生まれた。一八九八年社会民主労働党に入党し、党分裂後はボルシェビキに参加。たびたびシベリアへ流刑になったが逃亡し、一九一七年の二度にわたる革命で活躍。その後、革命軍事会議委員、党中央委員会書記長、コミンテルン中央執行委員となる。レーニン死後、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイエフなどを排除して党の独裁的主導権を握った。農・工業は大きな発展をとげたが、スターリン崇拝、権威主義、教条主義などの弊害を生じ、学問や芸術の正常な発展は阻害された。死後、スターリン批判の声が強い。
 世界食糧会議(World Food Conference)
 一九七四年十一月、国連の主催により、国連加盟百三十カ国の代表が参加してローマで開かれた国際会議。会議の背景には七二年以降の世界食糧事情の逼迫がある。七三年に開かれた開発途上国の非同盟諸国会議は、宣言の中で世界の食糧会議を提案、このあとの国連総会でも食糧会議の必要性が論じられ、これら立場の違う二つの提案が発端となっている。そのため会議でも、先進国に対して発展途上国七十七カ国が団結して、明白な対立を示すこととなった。「飢餓及び栄養不良解消に関する世界宣言」のほか、食糧生産の増強、食糧の安全保障強化、事後措置等について、二十項目の決議を採択、その後も第一回世界食糧理事会会合(七五年、ローマ)等何回かの会合が行われたが、目立った成果は上げていない。
 世界食糧銀行
 世界の食糧の安全保障、配分機構のセンターとして、具体的施策を即座に実行する機関を設けようという構想で、これによって飢餓に悩む発展途上国に対し食糧を供給配分しようというもの。池田名誉会長は早くからこの構想を提唱していた。一九七四年の世界食糧会議でも議題となったが、池田名誉会長は同年十一月十七日の第三十七回本部総会における講演でこれにふれ、その基盤となる理念・思想として「援助の見返りを求めるのではなく、あらゆる国の、あらゆる人々の生存の権利を回復するというものであり、あえていえば、人類の幸せと未来の存続に賭けるという『抜苦与楽』の慈悲の理念」が必要であり、その成否は「全世界の指導者たちが、自国の利害よりも飢餓に苦しむ人々の苦悩をわが苦悩とし、その生命の痛みから、何をなすべきかという行為へと移るか否かにかかっている」と述べている。
 ソクラテス(Sokrates B.C.470~B.C.399)
 古代ギリシアの哲学者。観念論哲学の始祖とされる。その言行についてはプラトンなどの門弟たちの著作を通して知られる。彼の哲学は、行為の原因を魂にみて、魂の良さ(徳)についての知を探究した。その知は、愛求することによって各自の内に自覚されるものであり、無知の自覚がその出発点となる。探究の方法は問答法であり、徳の「何であるか」(本質的概念規定)が獲得されるまで問答がすすめられるのだが、しばしば相手を困惑に陥らせるので、イロニー(皮肉といわれた。また問答法は各自の内から知を引きだすので産婆術ともよばれた。
 存在と当為
 存在(Sein)はなにかが“ある”ことを表し、当為(Sollen)は、“まさに為すべきこと”を指す。カントはある目的の手段としての意味を持つ当為と、それ自体が目的となる当為を明確に分けた。後者は“汝為すべし”という無条件の命令で倫理的側面をもち、必然が本質となる自然の法則と対立する。
4  た行
 ダーウィン(Charles Robert Darwin 1809~1882)
 イギリスの博物学者、進化論者。エディンバラ大学の医学部を中退しケンブリッジ大学の神学部を卒業したあと、博物学者として海軍の測量船ビーグル号に乗り南半球を周航。その間の調査から生物進化を確信するにいたり、一八五八年、ウォーレスとともに進化論の学説を発表した。五九年に『種の起原』を刊行。キリスト教勢力などからは激しい抗議がなされたが応じなかった。『種の起原』は、進化論史上最も重要な古典とされている。
 ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452~1519)
 イタリア・ルネッサンスの代表的な美術家。科学者・技術家でもあり、“万能の天才”といわれる。はじめフィレンツェでヴェロッキョの工房に入り、二十八歳で独立。「最後の晩餐」「モナ・リザ」など多数の作品がある。科学の研究にも力を入れ、物理学・天文学・地理学・解剖学・水理学・機械学・造兵学・土木学などの研究を示す手記や、人生論の草稿約五〇〇〇枚が現存している。
 チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer Churchill 1874~1965)
 イギリスの政治家。士官学校を卒業し、スペイン軍やスーダン遠征軍に参加したあと、一九〇〇年に保守党下院議員に当選し、のち自由党に転じて商相、内相、植民相を歴任。第一次大戦のときは海相だったが攻撃失敗の責任をとって辞職。戦後もいくつかの大臣を歴任して保守党に復帰した。第二次大戦直前に、ヒトラー・ドイツに対して防衛的強硬政策を唱え、やがてその主張が認識されて四〇年首相となった。戦時中はルーズベルト、スターリンとともに戦争の最高政策を指導。四五年の総選挙では敗北したが、五一年ふたたび首相となり、同年サーの称号をうけた。五五年、党首をイーデンにゆずって辞任した。『第二次大戦回顧録』で五三年ノーベル文学賞を受賞。画家としても著名であった。
 テレパシー(Telepathy)
 心霊研究や超心理学などで用いられる術語だが、空想科学小説(SF)でもさかんに使われており、思念伝達とか遠感と訳されることもある。思念を、言葉や文書などの他の手段によらずに、直接相手の心に伝え、または相手の思念を感得する方法で、これまでにさまざまな実験がなされているが、まだ正式には明らかにされていない。ただ、古くからそうした心の働きはあるのではないかと考えられており、その存在を信じている人も多い。
 トインビー(Arnold Joseph Toynbee 1889~1975)
 イギリスの歴史家。ロンドンに生まれる。オックスフォード大学を卒業し、王立国際問題研究所研究部長、ロンドン大学教授、外務省調査部長などを歴任。大著『歴史の研究』でユニークな文明論を展開し、二十世紀を代表する歴史家としての声価を定めた。ほかに『試練に立つ文明』『一歴史家の宗教観』など多数の著書がある。とくに一九七二年、七三年にのべ十日間、四十時間以上にわたった池田名誉会長との対談集『二十一世紀への対話』は、すでに十四言語に翻訳され発刊されている。
 ド・ゴール(Charles Andre’Joseph Marie de Gaule 1890~1970)
 フランスの政治家で軍人。第一次世界大戦で捕虜生活を経験。一九二一年ポーランド革命戦線から帰国して四〇年には国防次官に。第二次大戦中は、ドイツに対しフランスが降伏してからも徹底抗戦してロンドンに亡命し、四三年国民解放委員長兼国防委員会議長として、レジスタンス運動を指導した。四四年に帰国して臨時政府主席兼国防相兼軍司令官に。四七年から五三年にかけて「フランス国民連合」総裁をつとめた。一時、引退したが、五八年、アルジェリア暴動突発後、政界に復帰、同年六月首相となる。新憲法国民投票をへて、第五共和制を公布し、同年十二月大統領に就任した。一九六九年五月に辞任するまで十年以上大統領をつとめた。
 トルーマン(Harry Shippe Truman 1884~1972)
 第三十三代アメリカ大統領(在職一九四五年―五三年)。ミズーリ州に生まれる。第一次大戦に出征、一九三五年からは民主党に所属して上院議員をつとめた。四五年一月副大統領に就任し、四月、ルーズベルト大統領の急死にともない大統領の地位についた。第二次大戦中から戦後にかけて、国連憲章を議するサンフランシスコ会議、ポツダム会議、国内のインフレ対策などにたずさわる。対外政策としては、戦後の原子力管理問題やドイツ処理問題などでソ連と対立、トルーマン宣言やマーシャル・プランなどによって〈封じ込め政策〉を行った。さらに、北大西洋条約機構(NATO)をつくり、朝鮮戦争では韓国に武力援助をするなど、対ソ強硬政策によって〈冷戦〉を展開した。
5  な行
 ナショナリズム(Nationalism)
 英語のネーション(nation)からきているが、ネーションが民族とも国民とも国家とも訳すことができるように、ナショナリズムも民族主義と訳されたり、国家主義と訳されたり、ときには国粋主義と訳されたりする。第二次大戦後のナショナリズムは、多くはアジア・アフリカなどに起こった独立運動としていわれ、植民地の解放に結びついている。その他にも帝国主義支配と結びついていわれたり、社会主義国によって主張される場合があったりして、その意味内容はそれぞれに異なる。本文では、それほど明確な意味ではなく、ヨーロッパ大陸全体の利益よりも国家利益を優先する考えかた、というようなニュアンスで使われている。
 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844~1900)
 ドイツの哲学者、詩人。ザクセンのリュッツェン近郊に生まれる。ボン大学に入学し、ライプチヒ大学に転じたが、在学中に二十五歳の若さでスイスのバーゼル大学に教授として招かれた。このころショーペンハウアーの深い影響を受け、ワーグナーを崇拝し親交を結ぶ。処女作『音楽の精神からの悲劇の誕生』は、文化類型としてのディオニュソス型とアポロン型をはじめて区別した書として知られる。時評家としての才気にみちた『反時代的考察』につづき、『人間的な、あまりに人間的な』を七九年に完成したが、このころから病気が重くなり大学の教職を辞した。八三年―八五年にかけて、アルプス山中で得た「永劫回帰」の霊感をもとに『ツァラトゥストラはかく語りき』を書いたが、そこでは絶対否定をつきつめて絶対肯定の立場に達している。
 『人間の運命』
 ショーロホフ(別項参照)が、第二次大戦後の一九五六年に発表した短編。ナチスの収容所に捕えられた一兵士の運命を描きながら、戦争がいかに平和で幸福な個人の生活を破壊し、人間の一生を残酷にもてあそぶかを訴えている。
 『人間の条件』(La Condition humaine)
 本書の対談者アンドレ・マルローの代表作。主要登場人物は三人で、チエンは孤独感にひたるテロリストとして、キヨは北京大学教授と日本人女性とのあいだに生まれたインテリとして、カトフは鉄の意志をもつ革命家として描かれている。この三人を中心に、一九二七年の上海クーデターを背景として、革命に人生をかける人々の激しい意志と行動や、共産主義に対する情熱、その中での愛と苦悩が多角的に描き出されている。
6  は行
 パリのノートル・ダム寺院
 ノートル・ダムとは聖母マリアのことで、十二~十三世紀に聖母崇拝が盛んになり、各地にノートル・ダムにささげる教会堂が建てられた。シャルトルの大聖堂のほか、パリ、ラン、ランス、アミアンなどにもある。パリのノートル・ダム(ノートル・ダム・ド・パリ)はそれらのうちでも特に有名で、ゴシック建築の最高傑作とされている。現在の教会堂の工事が始まったのは一一六三年だが、何段階かの工事をへて最後の塔が完成したのは一二三五年。一二四〇年ころ起こった火災以後、大幅に改造・増設された。
 フェニックス(Phoenix)
 不死の霊鳥とされる伝説上の鳥で、「不死鳥」と訳される。その故郷はインドともアラビアともいわれる。さまざまな言い伝えの中で、もっとも一般的なものはローマ時代の説で、「フェニックスはたいへんな長命ののち、老いるとみずからを焼いて死に、その灰から生きかえる」という。学者たちの解釈では、もとは毎日新しく生まれてくる太陽の「魂」の鳥であり、きのう死んだ太陽から出てくることから、自らを焼いて若々しく生まれかわるという信仰が生じたとされている。対談のなかで、マルロー氏はフェニックスという言葉を、「蘇生」というような意味に用いている。
 プサイ
 プサイ粒子のことで、一九七四年十一月にスタンフォード線型加速器実験所で発見された新素粒子。質量の異なる二種のプサイがあり、重さの割には寿命が非常に長く、これまでの素粒子論に当てはまらない。この発見は、新しい素粒子論をうち立てるかもしれないと言われている。
 プラトン(Platon B.C.427~B.C.347)
 古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子。組織的な教育機関としてのアカデメイアを創設した。『ソクラテスの弁明』をはじめ、ソクラテスの言動を記述した著作によって、ソクラテスの思想を後世に伝えるために尽力した。彼のイデア論によると、すべてのものは、その原型たる実在、すなわちイデアに関与することによって本質を獲得する。諸々の美しいものは、美そのものたる美のイデアによって美しいというのである。このイデアの認識は経験的でなく理性的になされ、根本的には不死の魂があって、それによって想起されることによるという。プラトンにおいて魂の永遠が説かれるのは想起説に関連してである。
 フランス革命
 一七八九年から一七九九年にかけて、フランスに起こった典型的な市民革命。革命の原因としては、封建的土地所有者と特権ブルジョアジーなど支配階級の無能、腐敗と政策の行きづまりが、分裂と動揺をきたしたこと、新勢力(ブルジョアジー)が経済的・政治的に強力化し、啓蒙思想の普及によって思想的に開眼していったこと、下層民衆や農民大衆の要求が強くなり、行動力が大きくなったことなどがあげられる。貴族層の王権への反抗とブルジョアジーの自覚を背景に、第三身分(平民)が構成した国民議会を、王は軍事力で抑圧しようとしたので、パリ市民が蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃した。これが、一七八九年七月十四日のことで、フランス革命の本格的な開始とされている。農民も蜂起した。その結果、立憲王政が確立され、憲法制定議会は八月に封建制の廃止を宣言し、人権宣言を出した。しかし、外国の干渉により対外戦争がはじまり、祖国が危機におちいったため、人民はチュイルリー宮を襲撃して王権を停止、ブルジョア共和制を樹立した。その後、政権を握ったモンタニャールは恐怖政治をしいたので、テルミドール反動(一七九四年七月)が起こり、これ以後、ブルジョアジーの総裁政府は左右両派から常に攻撃されて、結局ナポレオンの軍事的独裁にいたる。
7  ま行
 「ミロのヴィーナス」
 ヴィーナスは「美しさ」「愛らしさ」をあらわす言葉で、古いイタリアの女神につけられた名称。のちにギリシアの神アフロディテと同視され、その神話をうけついだ。いくつかのヴィーナス像のうち、とくに有名なのが「ミロのヴィーナス」で、一八二〇年にミロ(メロス)島で発見された。製作年代は前二世紀~前一世紀、つまりヘレニズム時代と推測されているが、前四世紀の作という説もある。パロス産大理石の彫像で、気品の高い表情や優雅な曲線をもっている。
 「モナ・リザ」
 レオナルド・ダ・ヴィンチ(ダ・ヴィンチの項参照)が、フィレンツェの富豪ジョコンドのために、その夫人エリザベッタを描いた肖像画で「ラ・ジョコンダ」ともいう。モナとはイタリア語で夫のある婦人への敬称、リザはエリザベッタの略称。ルーヴル美術館にあり、板に油彩で描かれている。その魅惑的で神秘的な微笑は、これまでもさまざまな解釈がなされてきた。
 モンロー主義
 アメリカ合衆国の伝統的な外交政策の一つで、第五代大統領モンローが一八二三年議会あての教書で宣明したことに始まる。非植民主義と非干渉主義の二つの主張をもつが、時代によって変遷してきている。要するに〈アメリカ人のアメリカ〉を唱えるもので、建国以来の孤立主義を発展させたものといえる。
8  ら行
 リシュリュー(Armand Jean du Plesis de Richelieu 1585~1642)
 ルイ十三世時代のフランスの宰相として、フランス絶対王政の基礎を固めた。そ
 の性格は厳格で人を容れず、現実的であったが、人間と事態を見ぬく才能には非凡なものがあり、国力を発展させる道は過たなかったといわれる。国内的には秩序の回復をはかり、商業と植民に力を入れ、外交政策としてはドイツとスペインを弱体化するためにあらゆる手段を用いた。『政治的遺言』『メモワール』などの著書がある。フランセーズ・アカデミー(フランス学士院)の基礎を築いた。
 ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt 1882~1945)
 第三十二代アメリカ大統領(在職一九三三年―四五年)。ニュー・ディール政策を実行して、今日のアメリカを築いた最も偉大な大統領の一人とされている。ニューヨークの名家の生まれ。ハーバード、コロンビア両大学で法律を学んで弁護士となり、民主党に入党。ニューヨーク州上院議員、海軍次官、ニューヨーク州知事をへて、一九三三年、世界恐慌の最中に大統領となった。大統領に与えられた広範な権限をフルに活用し、国家が経済生活に介入して資本主義を修正・制約を加えるというニュー・ディール政策によって危機を脱出させた。第二次世界大戦に際しては、チャーチル、スターリンとともに全体主義打倒のため民主主義陣営を指導したが、終戦をまたずに死去した。
 ルネ・デュボス(Rene’ Jule Dubos 1901~1982)
 フランスに生まれる。アメリカのロックフェラー大学医学研究所教授。医学的微生物学者として世界的に著名。また、人間は遺伝の資質とともに環境全体の所産でもあるという立場から機械文明のなかで人間性を喪失する危機を訴えている。一九七三年十一月に来日し、池田名誉会長と生命次元での意見の交換を行った。著書『細菌細胞』(川喜田愛郎訳、岩波書店)、『人間と適応』(木原弘二訳、みすず書房)、『人間であるために』(一九六九年度ピュリツァー賞ノンフィクション部門の受賞作、野島徳吉・遠藤三喜子共訳、紀伊国屋書店)等。
 レーニン(Vladimir Il’ich Lenin 1870~1924)
 旧ソビエトの政治家で、ソビエト社会主義革命を達成した。レーニンはペンネームで、本姓はウリヤノフ。早くから社会改革に関心をもち、カザン大学在学中に学生運動のかどで退学と追放を強いられた。入獄、流刑、亡命の生活を送ったあと、一九一七年の十月革命を指導し、ソビエト政権確立の翌日、首相にあたる人民委員会議議長に選出され、死ぬまでその職にあった。社会主義運動史上における最大の実践家であるとともに、最もすぐれた理論家の一人でもあり、『唯物論と経験批判論』『国家と革命』など多くの著作がある。

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