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日蓮大聖人・池田大作

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生命をとらえる眼  

「生命を語る」(池田大作全集第9巻)

前後
12  川田 実存主義という哲学の流れは、私たち自身が主体的に生きる道を求めようとしたものだと思います。そのなかで、西洋流の神を認める人たちと、神を否定する人たちがいますが、いずれにしても、人間らしい人生を求め、死とか不安とか絶望とかを乗り越えようとする自己変革に対する努力がうかがえます。
 いま池田先生のあげられたキルケゴールの場合は、最終的にはキリスト教的な神に行きつくのですが、とにかく、ただの一人で、不安とか絶望とかに対決していった。そういう人の生き方をつらぬく自我を「単独者」といったのでしょう。
 ニーチェの場合は、神を真っ正面から否定し、その代わり、人間が強くなる、つまり、西洋流でいう神に代わる力をもつ、そういう自我を求めて「超人」の思想ができあがってきます。さらに、ヤスパースやハイデッガーも、その哲学は違うにしても、ともに、死と不安とに対決して生きる自我、それを本来の人間のあり方だとし、「本来的自己」と表現しています。
 彼らには、日常の種々のことにとらわれ、ごまかされて、人間としての本来的自己を忘れてはならない、という主張が一貫してあります。つまり、実存主義の哲学者のなかには、自己の本質的な自我を直視しつつ、それを深めていった努力がありありとうかがえますね。
 北川 「我」というものを見つめることによって、自己の行動の起点、方向性がはっきりすることは考えられますね。唯物論は「仮」の世界を下部構造とし、それを根源としてとらえているし、観念論は「心性」を掘り下げた。しかし、唯物論や観念論などが行動の機縁になることは、「我」にくらべて薄い面もあるのではないでしょうか。
 たとえば、経済構造については『資本論』の姿勢をとるが、みずからの行動に対する発条としては、実存哲学をよりどころにしているというような青年も多いようです。
 池田 ただ「我」といっても、心理学等でいう自我意識とは、厳密にいえば、違う面もある。心理学でいう「我」は、意識と切り離せないし、精神活動の一部として、とらえられる。フロイトが、イド、自我、超自我と、精神を分析しているけれども、また、その自我には意識だけではなく、無意識層も含むわけだけれど、仏法でいう「我が此の身体」というのは、さらに生命の根源に迫り、生命そのもの、いわば全体像をさしていっているのです。
 たしかに自我意識や、フロイトのいう自我も、他人と区別するみずからの生命を考えているわけだが、仏法の「中」という考えにおける「我」の場合は、いうならば、「生命的我」ともいうべきもので、宇宙と生命の奥底に根ざした、生命の特性、特質というものがある、という考えです。
 川田 戸田先生が「我」を説明するのに、夢を見ているとき、その夢をじっと見つめつつ、苦しんだり、喜んだりしている存在があり、それが「我」というものを理解する示唆になるんじゃないか、という意味のことをいわれていましたね。
 ふつう、夢を見ているとき「これは夢だ」という感覚が起こるときがある。これは「いま起こっていることは現実であるはずがない」という意識が働いているわけですね。夢を夢として判断しているわけではないでしょうが、夢のなかで動き働いている自分を正確に把握してみるならば、そこに「我」がとらえられるのではないか、という意味だと思います。非常に興味深い示唆ですね。
 池田 ところで、このように、あらゆる存在は、空仮中の三諦でとらえることができるわけです。しかし、三諦といっても、それは一つの実在の三つの観点からの認識であって、決して別個に分離して考えるということではない。
 中道が空・仮なるものを支えている存在であるといっても、それだけでは、生命の本質をとらえたことにはならない。「中」が、「仮」にあらわれ、「空」として存在し、そして、その三つが、たがいに補いあって、一つの生命の実在をくまなく照らし晴らすのです。中道だけでは別教で説く「但中」の考え方で、これは円教・法華経からみれば、不十分といえるでしょう。
 つまり、三諦といっても一諦に含まれるし、逆に、一諦といっても三諦によってとらえた実在の一面だということができる。これを「円融の三諦」といい、「法華経」の極理であることは周知のとおりです。
 川田 私たち人間の生命が、仏界とあらわれたときには、「仮」から見れば、応身如来として、実証の姿を示し、「空」からいえば、報身如来として、仏智を顕現していくことができる。そして「中」から見れば、法身如来として、その身がそのまま仏なんですね。三諦が三身とあらわれるわけです。
 池田 円融の三諦によって、あらゆる生命的存在を、ありのままに把握することができる。あるいは変化し、あるいは不変であり、あるいは冥伏している生命の諸相を、正しく全体的につかむことによって、生命を開発し、変革していこうとした仏法の知恵は、深いものだし、一面からの探索にとらわれず、他の面から見直してみるという柔軟性が、やはり、生命とか宇宙という根源的なものを見つめるさいには、必要なのではないだろうか。

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