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妙荘厳王本事品(第二十七章) 盤石な「…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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20  未入会家族に敬意と感謝を
 池田 ちょっとした心づかいが、大きな違いになる。周囲も、未入会家族に、礼儀正しくごあいさつし、小さなことにも心を配っていくことだ。訪問のときとか、電話のときとか。
 須田 電話をしたとき、未入会家族が出たら、どきっとして(笑い)、その緊張感が相手に伝わって、ますます気まずくなる場合があります。「いつもありがとうございます」とか、きちんとあいさつすべきですね。
 池田 未入会であろうが、家族は家族です。信心しているからいいとか、戦っていないからダメだとか、形のうえだけで決めつけてはいけない。そんな垣根なんか全部、取り払って、だれに対しても誠実に、礼儀正しく、常識豊かに接していくべきです。
 未入会家族と言っても、そのご主人がいるからこそ、奥さんは学会活動できるんだし、両親、舅、姑、そういう人が支え、留守番してくださっているからこそ、安心して出かけられるのです。周囲も尊敬し、感謝していくべきです。
 妙荘厳王一家の過去世のように、だれかが一家の経済を担当したり、留守番を担当して支えているんだと思えば、おのずと尊敬と感謝がわくでしょう。もちろん、支えた未入会家族にも功徳はあります。仏法の世界は大きいのです。
 斉藤 そう言えば、先生が、青年部員の未入会のお父さんに対して「名誉支部長」とか「名誉本部長」とかの栄誉を贈られたことがありました。
 はじめは、びっくりしましたが──。
 「学会の支部長、本部長が、どんなに激務で、どれだけ大勢の人の面倒を見ているのかを、きちんと伝えたうえで、(名誉支部長、名誉本部長に)なっていただきなさい」と。青年のほうも驚いたようですが、「先生が『父への尊敬の心』を教えてくださったんだ。ここまで育ててくれた父に、人間として『感謝する心』を教えてくださったんだ」と感激していました。
 池田 家族は家族です。内部とか外部とか、垣根があってはいけない。また家庭の中にまで、組織の役職をもちこむのも愚かです。検事が家の中まで検事の肩書をもって帰ったら、家族は窒息してしまう(笑い)。
 須田 前に先生が英国に伝わるヴィクトリア女王の話をスピーチしてくださいましたね。
 女王とご主人が何かのことで争って、ご主人は部屋に閉じこもってしまった。あやまろうと思って、「女王です。開けてください」と、ドアを叩いても開けてくれない。行くたびに「どなたです?」「女王です」──開けてくれない。それが「どなたです?」「あなたの妻です」と話したとき、ドアは、さっと開かれた。(リットン・ストレイチイ『ヴィクトリア女王』小川和夫訳、冨山房。参照)
 人間の機微をつかんだエピソードだと思います。
 池田 家庭訪問の際なども、ご主人が未入会だったり、役職がないなどの場合には、とくに心がけて、誠実に、敬意をもって、ごあいさつするのが賢明な信仰者でしょう。「小事」が「大事」なんです。
 たとえば、さっき「ご主人がおいてきぼりにされる」という話が出たが、ご主人の食事の準備中に、婦人部の同志から電話があったとする。緊急のことでなければ「ちょっと今、大事な用事で、手がはなせないので、十五分したら、こちらから電話しますから」と言って、食事の準備をしてから電話すれば、ご主人だって納得するでしょう。
 それが電話を優先して、ご主人は二の次では、ご主人が味けない思いをするのも無理もないでしょう。そういうことが重なると、溝ができてしまう。ちょっとした心配りが大事なのです。
 須田 会合から帰ってくるなり、「ああ疲れた」とか「まだ、これから連絡が残ってるのよ」とか、一方的に、自分が感激した話をするだけだったり、ともすれば自分中心で、「留守番をしてくれていた家族の気持ち」に配慮が足りない場合もあるようです。
21  「何とかなるだろう」は信心利用
 池田 周囲も、ひとつひとつの家庭を、こまやかに大事にしてあげていただきたい。たとえば、今は不況の時代です。
 ご主人が、仕事に専念しなければならない場合もある。
 「あなたは今は仕事に頑張ってください」と、しっかり題目を唱えるように言ってあげたほうがいい場合がある。しつかり活動して、福運をつけるようにしたほうがいい場合もある。聡明に、価値判断しなければならない。
 現実は厳しい。一番いけないのは無責任です。「御本尊を拝んでいるから何とかなるだろう」というのは信心利用です。祈ったならば、全力をあげて、全身全霊で、それを実現していくために戦うのが、まことの信心です。
 社会で勝ち、「実証」を示してこそ、一家の勝利もあるし、広布の進展もある。不可能を可能にする信心で、「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に」祈って、祈って、勝つのです。これが「神変」です。それによって、社会の信頼を勝ち取っていくのです。
 妙荘厳王品の終わりのほうで、王は仏に対して、こう誓っている。「我今日より、復みずから心行に随わず。邪見、僑慢、瞋恚、諸悪の心を生ぜじ」(法華経六六三ページ)
 (「きょうよりは二度と、自分の心の言いなりにはなりません。二度と邪見、僑慢、瞋り、諸悪の心を起こしません」)
 権力者が、このように変わった。自分勝手で、わがままで、増上慢で、焼きもちやきで、正義を正しく見られない悪人が、「母と青年」の戦いで正義に目ざめた。ただ「自分のため」に生きていた人間が、「民衆のため」の人生に変わった。
22  二十一世紀は「哲学の時代」
 池田 「王」というのは、政治を象徴し、広げれば経済などの社会の営みを象徴している。しかし「それだけでは幸福はない。正しき哲学が必要だ」というのが、妙荘厳王品なのです。
 政治も経済も「手段」です。「目的」は人間の幸福です。その目的を達成するには、人生とは何か、幸福とは何か、どうすれば実現できるのかという「哲学」が、どうしても必要になる。
 二十一世紀は、政治だけ、経済だけでなく、一歩深い「生命の時代」であり、「哲学の時代」となっていかざるをえないと、私は見ています。その先駆けが私たちです。
 日本という悪王を、善の「妙荘厳王」に変え、世界をその方向に引っ張っていく軌道を今、つくっているのです。

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