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日蓮大聖人・池田大作

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如来神力品(第二十一章) 「凡夫こそ本…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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15  渾身の「弟子の言葉」に「師の真実」が
 池田 まあ、そう言うためには、もっと、しっかりした実証的研究が必要です。ただ、大乗仏教は決して、釈尊と無関係の「非仏説」ではないということです。むしろ、釈尊の真意に追った結果なのです。
 もちろん、だれが説こうと、その教えが優れていればよいのです。
 釈尊が説いたから法華経が偉大なのではなく、法華経を説いたから釈尊は仏なのです。それがだれであれ、法華経を説いた人が仏なのです。「釈尊が説いたから偉大なのだ」というのでは、一種の権威主義であり、肩書主義でしょう。
 須田 プラトンが書き残した膨大な「対話篇」も、ソクラテスが主人公になっていますが、実際に、その通り、師・ソクラテスがしゃべったわけではないでしょう。
 では、「うそ」なのか、「非ソクラテス説」なのかというと、そうは言いきれない。弟子プラトンがつかんだ「師の真意」の表現だったと思います。
 池田 そうだね。私は、大乗仏典は、「釈尊の真意」に追った人々が、より多くの人々にそれを伝えるために、さまざまな工夫をして説いたものだと思う。
 遠藤 金庸さんは、こう言っています。「ついにわかったのです。すなわち本来、大乗経典がいいたかったことはみな、この『妙法』だったということを。大乗経典は、知力の劣った、のみこみの悪い人々にも理解させ、帰依させるために、巧妙な方法を用いて仏法を宣揚し、説き明かしたものだったのです」(前掲『旭日の世紀を求めて』)
 斉藤 たしかに「大乗非仏説」の弱点は、「これほどの偉大な法を説いた経典編集者が、『自分の勝手な自説を、釈尊の名前で発表する』ような破廉恥なことをするのか」ということです。「如是我聞(是の如きを、我聞きき)」(法華経七〇ページ)とある通り、その教えを文字にまとめた人々は、「自分はたしかに釈尊からこの教えを聞いたのだ」と信じていた──自覚していたと考えたはうが、すっきりします。
 池田 それでは、その「如是我聞」申し上げた相手は、だれなのか。「たしかに聞いた」──だれから聞いたのか。それこそ、「常住此説法(常に此〈=娑婆世界〉に住して法を説)」(寿量品、法華経四八九ページ)の「永遠の仏」から聞いたのではないだろうか。その「説法」を、たしかに聞いた。その宗教体験を「如是我聞」と言ったと考えられる。
 須田 大乗仏教の研究者にも、そういう立場を取る人がいます。
 池田 もちろん、「生身の釈尊」の説法が伝承されていて、それが「核」になったことも当然、考えられます。
 遠藤 「一心欲見仏」の修行のなかで、そういう不可思議な体験をする。それは必ずあったと思います。
 斉藤 否定する学者もいるかもしれませんが、こういう「観仏(見仏)」体験を否定したのでは、仏教史、宗教史はわかりません。
 遠藤 「音痴が音楽史を書く」ようなものですね(笑い)。
 池田 「大乗非仏説」は、「仏といえば(生身の)釈尊以外ない」という大前提に立っているようだ。
 しかし、それでは釈尊が何のために仏法を説いたのか、わからなくなってしまう。自分と同じ「不死の境地」を教えるために、仏法を説いたのだから。
 釈尊と同じ悟りを得た人は必ずいるはずです。
 斉藤 その人も「仏」ですね。
 池田 そうです。
 須田 法華経を編纂した人も「仏」でしょうか。
 名着金長そう言ってよいでしょう。
 遠藤 ではなぜ、「(歴史的)釈尊が霊鷲山で説いた」という形式になっているのでしょうか。
 池田 そういう伝承があったのかもしれないし、何よりも「これこそが釈尊の真意である」という確証を実感していたからでしょう。
 須田 大乗の運動が、紀元前後の数百年をピークとしますと、釈尊滅後、五百年ぐらいでしょうか。「五五百歳」説で言えば、ちょうど「禅定堅固」のころに当たります。
 斉藤 「禅定」の体験の中で、「常住此説法」している「久遠の釈尊」にまみえたと考えられますね。
 遠藤 戸田先生の獄中の悟りも、「霊山の一会、儼然とて未だ散らず」を体験されたわけです。
 池田 きょうは仏教史のような話になってしまったが、現代人が法華経を理解するにあたっては、こういう考察も必要だろうね。
 遠藤 これまで「法華経の説法」は、『事実』そのものではなくても生命の『真実』なのだ」ということで納得していたのですが、より鮮明になりました。
16  「仏とは人間」への大転換点
 池田 話は、まだ終わらないんだ(笑い)。
 読者も大変だけれども、むずかしいところは、飛ばして読んでもいいから──。
 仏教史の流れを、ごく大づかみに言うと、こう言えるでしょう。
 いわゆる「原始仏教」は、生身の人間・釈尊が出家者に遺した戒法を持つことに、力を注いだ。いわば「保守」です。その結果、かえって、釈尊の真意──みずからの「仏因」を示して、皆を仏にしたいという──を見失いがちであった。
 一方、大乗仏教は、釈尊の「仏因」を探究し、「永遠性の仏」を追究した。いわば「革新」勢力です。その結果、阿弥陀仏とか盧舎那仏とか、真言の大日如来とか、多くの「長遠の寿命をもつ仏」が説かれた。
 これらは、法華経の眼から見るならば、「無始無終の無作三身如来(南無妙法蓮華経如来)」の一面、一面を説いているとも言えるでしょう。
 しかし、「永遠性の仏」を追究するあまり、原点の「人間・釈尊」と切り離されてしまった。否、「人間」そのものから離れてしまった。
 須田 たしかに、阿弥陀仏はこの娑婆世界にいない「他土」の仏だし、大日如来は法身仏であり、身相をもたない仏です。人間とは隔絶しています。盧舎那仏も、広大な智慧身(他受用報身)として説かれ、凡夫とは、はるかにかけ離れた存在になっています。
 池田 小乗と大乗には、それぞれ、こういう限界があった。この両者を統合し、両方の限界を打ち破ったのが「法華経」です。
 すなわち「人間・釈尊」が、その「本地」を「久遠実成の仏」であると明かす。そのことによって、″身近でありながら、永遠性にして偉大な仏″を示す道を開いたのです。それは、釈尊その人の原点に戻ったとも言える。
 須田 「発迹顕本」は「人間・釈尊に返れ」という意義があるということは、以前にも語っていただきました。
 池田 「人間・釈尊に返れ」とは、「人間に返れ」ということです。「人間の尊貴さに目覚めよ」ということです。
 斉藤 法華経は、小乗と大乗の両方を「統合」した経典ですね。
 池田 そうです。発迩顧本によって、すべての諸仏を「久遠実成の釈尊が教化してきた仏」として統一した。これが本門です。諸大乗経を統一している。
 迹門では、小乗の担い手であった二乗の成仏を説いた。その根拠は、一切の諸法を「実相」の一理のもとに統一したからです。
 遠藤 諸法実相です。
 池田 しかも、逆門の「諸法の統一」と、本門の「諸仏の統一」は対応している。
 どちらも「妙法」のもとに統一されたのです。
 斉藤 それまでの仏教史の進歩の「頂点」にあります。まさに「経王」ですね。
 池田 その進歩はしかし、まだ止まらない。それが法華経の「文底」の仏法です。
 いよいよ、次回は「なぜ文底仏法が必要なのか」を論じよう。
 「凡夫こそ本仏」──仏教史を画する、根本的な転機(ターニング・ポイント)は、文底仏法によって、初めて現実となるのです。

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