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日蓮大聖人・池田大作

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薬草喩品(第五章) 個性を伸ばす「智慧…  

講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻)

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10  繚乱たる「人華」広がる世紀へ
 斉藤 多様な個性の人々を等しく潤すのは、智慧即慈悲の大境涯なのですね。
 池田 そうです。師匠である仏の慈悲に潤されるのです。そして自身も慈悲の当体として成長するのです。人間を潤すのは人間です。生命を潤すのは生命です。
 薬草喩品の最後には「仏の説きたまう所の法は、譬えば大雲の一味の雨を以って 人華を潤して 各実を成ずることを得せしむるが如し」(法華経二五四ページ)とあります。
 私は、この「人華」という言葉が好きです。個性を持った一人一人の人間の開花というイメージが強く出ています。
 釈尊には、どの人も桜海桃李の果実を実らせる、色とりどりの花のごとく見えたのではないだろうか。その「心」を薬草喩品では学びたい。
 これは「多様性の調和」という二十一世紀の根本問題に直接、かかわってくる。多様な民族・文化が、その多様さを尊重しつつ、同じ「人間」「生命」という次元で連帯していく。それなくして人類の未来はない。多様性が世界に「対立」をもたらすのではなく、「豊かさ」をもたらすようにしなければならないのです。
 そのカギが法華経の人間主義にある。その具体化は「慈愛の人格」です。
 ガンジーが、インドの独立運動で、あれほど多くの民衆を動かせたのはなぜか。私は、その根本の要因は、ガンジーの人格にあったと思う。真理に生き、戦い抜いて、磨かれたガンジーの人格が、民衆の心を潤したのです。
 象徴的なエピソードとして、以前(一九九四年八月、北海道研修道場で)にも語ったことがあるが、ふたたびここでふれておきたい。(青年部主催の講演会〈「マハートマ・ガンディーにみる政治と宗教」〉で孔子の森本達雄氏が紹介〈「聖教新聞」九四年七月五日付けに掲載〉)
 「ある重大な会議を前にガンジーは着席していた。しかし、何かそわそわした様子で、あたりを見回したり、机の下をのぞいたりしていた。
 『何か、おさがしですか』ある人がと聞くと、ガンジーは『鉛筆をさがしているのだ』。それではと、その人はガンジーに自分の鉛筆を渡した。
 すると『その鉛筆は、私のさがしている鉛筆ではない』。これから大事な会合が始まろうというときに、どうしてこんな小さなことにこだわるのかと不思議だった。
 『どうして、この鉛筆ではいけないのですか』『その鉛筆ではだめだ』
 ガンジーはつよく言った。
 しかたがないので一緒に机の下をさがした。やっと見つかったのは、三センチほどの、ちびた鉛筆だった。
 ガンジーは説明した。
 「私が以前、独立運動を呼びかけ、援助を求めて各地を演説して回っていたとき、ある会場で一人の少年が、この鉛筆を寄付してくれた。
 子どもにとって大事な鉛筆を、独立運動のために差し出してくれたのだ。そんな一人一人の国民の『思い』を忘れて、私の政治活動はありえない。
 こうした一人の少年の『心』を忘れて、いくら政治を論じたところで、それは空論にすぎないだろう。この気持ちを私は捨てることができないのだ」
 彼にとって、ちびた鉛筆は鉛筆ではなかった。美しい「心」そのものだった。だから捨てられなかったのです。
 人々から「マハトマ(偉大な魂)」と尊敬されていたガンジーが、一方では「バプー(お父さん)」と呼ばれて親しまれていた秘密が、このあたりにあるのではないだろうか。
 私も会員の真心がこもったものは紙一枚、むだにはしません。日蓮大聖人は、真心の白米を供養された時、こう教えてくださっています。「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」と。
 本当の人間の世界においては、物であっても物ではない。命であり、心なのです。いわんや人間自身は、最高にかけがえのない存在です。
 斉藤 ガンジーには、民衆への無限の信頼があったと思います。「一人に可能なことは万人に可能である」(クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな──ガンジー語録』古賀勝郎訳、朝日新聞社)という信念で、あの「非暴力」の理想を説き、大規模な民衆運動を組織化していきました。
 池田 そう。運動や組織というものは、命令や規則で長続きするものではない。いわんや、強制で動かしても絶対にうまくいかない。
 一人一人の個性を尊重し、勇気と希望を与え、喜びも苦しみもわかち合ってこそ、多くの人々が団結できるのです。和気があり、触発があって、真の民衆運動が成り立つのです。
11  学会は「法華経の人間主義」を実践
 遠藤 組織というと「型にはめる」というイメージがつきまといがちですが、今の時代に、そんなことで大勢の人がついてくるわけがありませんね。
 池田 その通りです。「人間主義」こそ民衆運動の根本原理です。
 須田 創価学会の発展の根底には、生き生きとした人間主義があります。子どものころから学会の庭で育ってきた私たちの偽らざる実感です。
 池田 自然にそうなったのではない。そうなるために、毎日、時々刻々、渾身の力で仏法の慈悲の精神を組織に脈動せているのです。この辛労、この責任感を、学会のリーダーは未来永劫にわたって失ってはなりません。
 須田 組織といっても、核となる「人間」を離れて実体はないということですね。
 大聖人の御書を拝しましても、弟子門下の個性、性格を、実に的確につかんだうえで、さまざまな御指南をされていることがうかがえます。四条金吾が短気な性格であったということを私たちが知っているのも、御書のおかげです(笑い)。
 池田 大聖人がどれほど弟子門下のことを思っておられたか──その証左です。
 四条金吾に対しては、″外では酒を控えるように″とか、″女性にどんな失敗があっても叱ってはいけない、まして争ってはいけない″などと、親が子どもを諭すように、こまやかな心配りをされています。
 その一方で、たとえば、池上兄弟の兄・宗仲が父親から二度目の勘当にあった時、大聖人は弟・宗長のことを心配されながらも、″今度は、殿は必ず退転してしまうだろうと思う。退転することを、とやかく言うつもりはまったくないが、ただ地獄に行って日蓮をうらんではならない″というように、一見、突き放した言い方をされている。
 こうした言い方は、相手のことによほど通じ、その心をつかんでいないと到底できるものではない。大聖人は、人生最大の岐路に立たされた宗長の心の葛藤を知り尽くされていただけではない。その性格までも手に取るように知悉されていたのでしょう。
 遠藤 とくに、遺族に対する励ましなどは、いくつか例がありますが、大聖人はお子さんがおられなかったのに、子どもに先立たれた親の心情というものを、余りにも深くつかんでおられるのに驚き、どうしようもなく感動したことがあります。
 池田 本当に偉大な仏様です。一人一人の「現実」をすべて受け止め、同苦してくださっているのです。決まりきった答えを押しつけるような観念的指導では絶対にない。
 ゆえに、ある場合は、他の人に対して言われたこととは正反対に見えることも、あえて言われている。
 病弱で苦しんでいたが医者にかかろうとしなかった富木常忍の夫人には「智者なれども夭死あれば生犬に劣る」と長寿の大切さを説かれ、治療を促された。
 しかし、鎌倉武士であり、「名は惜しむが命は惜しまない」気風の四条金吾に対しては、長寿よりも、仏法と社会の誉れが大切であると強調されています。
 須田 「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と仰せです。
 池田 そう。どちらも弟子を慈しむお心から出た慈悲即智慧のご指導です。どちらも真実です。これが薬草喩品の心です。
 四条金吾に対しては、短気な性格を自覚して一日一日を賢明に振る舞いなさい、というお気持ちもあったでしょう。そうでなければ、金吾は命さえ危うい状況だったのです。
 御書を子細に拝すると、大聖人のお振る舞いにこそ法華経の人間主義が躍動していることに感動します。法華経と符合するのは、大難を忍ばれる法華経の行者としてのお振る舞いだけではないのです。
 大聖人は、民衆を苦しめる権力者たちや、権力と癒着する宗教者たちに対しては、烈火のごとく怒り、厳しく諌められた。従来、それをもって、大聖人の仏法は非寛容だとか、排他的であると言われてきたが、あまりにも偏った見方です。民衆に対する慈愛のご指導にも、権力者への厳しい諌言にも、生きた人間主義が貫かれているのです。
12  斉藤 この十年余の先生のスピーチで、多くの御書が拝されてきましたが、一貫して大聖人の人間主義に焦点が当てられています。
 池田 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と断言された大聖人の広大なるご境涯──その「最高の人間性」を、全世界に伝えたいとの思いで御書を拝し、語ってきました。
 薬草喩品の譬えでは、仏の慈悲の大雲は三千大千世界、つまり全宇宙を覆ったと説かれている。どうすれば全世界を御本仏の大慈大悲で潤すことができるか──私の一念は、いつも、そこにあります。この「如来行」こそ創価学会の使命だからです。その戦いは、これから本格化する。いよいよ本門に入るのです。
 行き詰まった現代世界を開き、蘇生させるために必要なのは「宇宙的視野」であると思う。大宇宙と一体のものとして人間を捉える見方です。大宇宙と一体であれば、自然、地球とも一体であることは言うまでもない。そういう人間観のもとに社会も国家も民族も捉え直していくのです。
 心の窓が閉ざされていては、大きな未来は見えない。窓を開け放つことです。そうすれば、行き詰まりはないのです。
 すべての人間は、全宇宙と一体です。全宇宙のあらゆる営みが、一人の人間の独自性を成り立たせている。言い換えれば、一人一人の人間は、「大宇宙」を独自の仕方で映し出す「小宇宙」です。「個人」は、本来、「全人」なのです。だから、″一人″がかけがえのない存在なのです。
 そういう生命の秘密を知る究極の智慧が、仏の一切種智であり、平等大慧です。どの人も、どの生命も、かけがえのない存在として平等と見るのです。この法華経の人間主義こそ、「次の千年」に必要な「宇宙的ヒューマニズム」であると私は確信します。
 タゴールは歌っています。
 「昼となく夜となくわたしの血管をながれる同じ生命の流れが、世界をつらぬいてながれ、律動的に鼓動をうちながら躍動している。
 その同じ生命が大地の塵のなかをかけめぐり、無数の草の葉のなかに歓びとなって萌え出で、木の葉や花々のざわめく波となってくだける。
 その同じ生命が生と死の海の揺藍(ゆりかご)のなかで、潮の満ち干につれてゆられている。
 この生命の世界に触れるとわたしの手足は輝きわたるかに思われる。そして、いまこの刹那にも、幾世代の生命の鼓動がわたしの血のなかに脈打っているという思いから、わたしの誇りは湧きおこる。」(「ギタンジャリ」森本達雄訳、『タゴール著作集第一巻詩集』1所収、第三文明社)
 我が命に宇宙の根源のリズムを鼓動させながら、にぎやかに、楽しく前進また前進していきたいものです。

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