Nichiren・Ikeda
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65 革心(66)
鄧穎超は、周志英が香港の出身であると聞くと、広東語で話し始めた。
周恩来と結婚したあと、広東省で活動した経験をもつ彼女は、広東語も堪能であったのだ。
母国語でない北京語と日本語を駆使して通訳に奮闘してきた周志英にとって、広東語を使えることで、どれほど気持ちが軽くなったか。生き生きとした表情で通訳を続けた。
鄧穎超の語る広東語を日本語に訳す彼の言葉に、真剣に耳をそばだてていたのが、中日友好協会の孫平化秘書長や、中国側の通訳たちであった。
皆、広東語がよくわからないために、周が訳す日本語を聞くまで、鄧穎超が何を話しているのか理解できないのである。
鄧穎超は、山本伸一に言った。
「山本先生は、一生懸命に若い人を育てようとされているんですね。それが、いちばん大事なことです。
どんなに大変でも、今、苗を植えて、育てていかなければ、未来に果実は実りません。
十年、二十年とたてば、青年は大成していきます。それなくして中日友好の大道は開けません。楽しみですね」
孫平化たちは、周志英の通訳ぶりを、じっと見てきた。そして、しばしば、周に発音などのアドバイスをしてくれた。
彼が日本で、日本語と北京語を猛勉強したとはいえ、中国の一流の通訳には、どちらの言葉もたどたどしく、心もとなく感じられていたのであろう。
山本会長は、どうして彼を通訳に使っているのだろう″と、疑問にも思っていたようだ。
周志英も、実際に中国に来て、通訳としての力不足を思い知らされ、自信を失いかけていた。
しかし、鄧穎超の話に、伸一の深い思いを再確認し、勇気が湧くのを覚えた。
また、孫平化も、永遠なる中日の平和友好を願い、若い通訳を育成しようという伸一の心を知り、強く共感したという。
孫平化らは、以後、周志英に、公式の場で使う言葉や表現などを、懇切丁寧に教えてくれるようになった。未来に果実を実らせたいと、伸一と同じ心で臨んでくれたのである。
66 革心(67)
答礼宴の最後に、訪中団が、心からの感謝の気持ちを込めて、日本語で「愛する中国の歌」と、中国語で「春が来た」を合唱した。
歌のあとで山本伸一は、鄧穎超に言った。
「明春、桜の満開のころ、鄧穎超先生が日本に来られることをお待ちしています」
大きな拍手が起こった。
続いて、伸一は、周志英を促した。
「あの歌を歌おうよ!」
「あの歌」とは、「敬愛する周総理」という、北京大学での交歓の折に、周志英が披露した中国の歌であった。
伸一は、鄧穎超への御礼として、ぜひ、聴いてほしかったのである。
よく通る中国語の歌声が響いた。
♪敬愛する周総理
私たちはあなたを偲びます
数十の春秋の風と雨を
あなたは人民とともに
真心は紅旗に映じ
輝きは大地を照らす
あなたは大河とともに永久にあり
あなたは泰山のようにそびえ立つ
鄧穎超は、テーブルの上の一点を、じっと見つめるようにして聴き入っていた。
視線を上方に向けている廖承志の目には、うっすらと光るものがあった。
夫人の経普椿も、あふれる涙をナプキンで拭った。
料理を運んでいた人たちも、立ち止まって耳を傾けていた。
偉大な指導者への敬慕の念
が、皆、自然にあふれ出てくるのであろう。
伸一が今回の旅で、ただ一つ残念で寂しかったことは、既に周総理がいないことであった。
彼は、日中友好の永遠なる金の橋を築き、総理との信義に生き抜こうと、強く心に誓いながら、目を閉じて静かに聴き入っていた。
歌が終わった。万雷の拍手が起こった。
席に戻ってきた周志英に、鄧穎超は、「ありがとう!」と言って、ことのほか嬉しそうに手を差し伸べるのであった。
歌は魂の発露であり、心をつなぐ懸け橋となる。
67 革心(68)
答礼宴は、感動のなかに幕を閉じた。
山本伸一は、帰途に就く一人ひとりと握手し、再会を約した。峯子も隣で、満面の笑みで御礼の言葉を述べ、見送っていた。
鄧穎超は、その峯子の手を、何度も強く握り、じっと目を見つめながら語った。
「今日は本当にありがとうございました。心に残る一夜でした。山本先生のご健康と、お仕事の成就を祈ります」
「こちらこそ、わざわざお出でいただき、本当にありがとうございました」
――続けて峯子は、「どうか、ご無理をなさらず、ご静養なさってください」と言おうとして言葉をのんだ。鄧穎超の小さな体から、″私は安穏など欲しない。命ある限り、人民のために働く!″という、無言の気迫が感じられたからだ。
峯子が、「四月のご来日をお待ちしております」と言うと、柔和な笑みと、「私も楽しみにしていますよ」との言葉が返ってきた。
翌二十日は帰国の日である。伸一たちは午後一時過ぎ、北京の空港に到着した。見送りに来てくれた人たちと対話が弾んだ。
廖会長夫人の経普椿との語らいにも花が咲いた。鄧穎超のことに話が及ぶと、彼女は言った。
「周総理が亡くなられて、どれほど寂しかったことかと思います。しかし、亡くなられた時も、涙はこぼされませんでした。
夫人の泣いたのを見たことがありません。″自分が泣いたら、皆を、さらに悲しませてしまう″と、ご自身と闘い、感情を押し殺していたんです。強い人です。人民の母です。
最愛の人を失った悲しみさえも、中国建設の力にされているように思います」
鄧穎超は、まさに″革心の人″であった。
常に自らの心と闘い、信念を貫き通してこそ、人間も、人生も、不滅の輝きを放つ。
彼女は、「恩来戦友」と書いて、夫の周恩来を追悼した。
そこには、生涯、革命精神を貫くとの万感の決意が込められていた。
眩い陽光のなか、友誼の握手を交わし、一行は機上の人となった。
新しい日中友好の希望の大空へ、機は飛び立った。 (この章終わり)