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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「人間外交」 人間外交

小説「新・人間革命」

前後
63  人間外交(63)
 復旦大学を訪問した日の夜、上海市の関係者によって、山本伸一たち一行の歓迎宴がもたれた。
 上海市は、横浜市、大阪市の友好都市となっており、開明的な気風にあふれた街である。
 伸一にとって上海は二度目の訪問であり、皆、懐かしい顔であった。
 この歓迎宴のあいさつで伸一は、初訪中以来、世々代々の日中の友好を願って、訪中の模様を映画にしたり、中国の印象記を執筆するなど、自分なりに、懸命に努力してきたことを伝えた。
 そして、中国から創価大学に留学した学生たちについて語った。
 「このたび、私が創立いたしました創価大学に、中国から六人の留学生を迎えました。
 中国からの留学生といえば、私は、偉大な文学者であり、人間の解放をめざして古い道徳・思想と鋭く戦い抜いた魯迅先生と、仙台の藤野先生の交流を思い起こします」
 伸一は、前年の第一次訪中の折、上海で魯迅の故居を訪れていた。そこで目にした、魯迅の遺品などを懐かしく思い返しながら話を続けた。
 「魯迅先生は、『藤野先生』という一文を残されております。お二人の間には、民族、国家の壁を超えた人間と人間の温かい心の触れ合いがありました。気高く美しい人間性の調べがあふれております」
 ――魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。ここで、解剖学を教える、福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。
 藤野は、留学生の魯迅に、講義を筆記したノートを提出するように言う。戻されたノートを見ると、朱筆でびっしりと添削されていた。
 魯迅が書き切れなかったところは補足され、日本語の文法の間違いも指摘してあった。
 その添削は、藤野が授業を担当している間、ずっと続けられた。
 魯迅は「藤野先生」に記している。
 「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。
 藤野は″なんとしても、彼には大成してほしい″との思いで、心血を注いで励まし続けたのであろう。それが師の心だ。
 伸一には、その″藤野先生″の気持ちが痛いほどよくわかった。
64  人間外交(64)
 魯迅はやがて、仙台医学専門学校を辞めて帰国し、中国人民の精神改造のために、正義のペンを執ることになる。
 教師の藤野厳九郎は、仙台を去る魯迅を家に招き、自分の写真を贈る。その裏には「惜別」の文字が記されていた。
 魯迅はさらに、藤野について、こう書いている。
 「かれの写真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて灯のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語り出しそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる」
 「良心」を、そして、「勇気」を呼び覚ましてくれるのが師である。
 だから、正しい師をもつ人は、正義の道を歩み抜くことができる。強く勇敢に生き抜くことができる。人生の師をもつ人は幸福である――。
 上海での歓迎宴で山本伸一は、決意をかみしめるように、話を続けた。
 「私は、創価大学の教師、学生と、中国からの留学生の間にも、このような美しい友情が育まれることを念願しております。いな、そうなるように最大限の努力を払ってまいります。
 希望の未来へつながる限りない発展性を秘めたこの友好の種子が、やがて亭々たる巨木となっていくよう、しっかり見守り、貴国の信頼に対して、誠意と信義の行動で応えていく所存です」
 創価大学に学んだ中国からの、この六人の留学生は、その後、それぞれが使命の大空に羽ばたき、日中友好のために大活躍していくことになる。
 伸一が結ぼうとしていたのは、政治や経済のための友誼ではない。本当の意味での「信頼の絆」であり、「友情の絆」であった。利害を超えた「人間の絆」であった。
 伸一の行動は、二十一世紀の人類共存の大河を、平和の大潮流を開くための人間外交であった。そこに彼は、生命をかけていたのだ。
 伸一は確信していた。
 ″後世の歴史は、必ずやわれらを、世界平和の開拓者として絶讃するであろう″と。
 伸一の一行が第三次訪中を終えて帰国したのは、四月二十二日の午後二時半過ぎであった。

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