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日蓮大聖人・池田大作

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第21巻 「人間外交」 人間外交

小説「新・人間革命」

前後
62  人間外交(62)
 山本伸一の一行は、この日の午後、上海の名門校・復旦大学を訪問した。
 そこには、緑に包まれた美しいキャンパスが広がっていた。梧桐の並木道、緑の芝生、桜の木も花をつけていた。
 校舎も、国際都市・上海にふさわしいモダンな建物であった。
 復旦大学は、一九〇五年(明治三十八年)に創立の復旦公学に始まる、伝統ある中国屈指の総合大学である。
 校舎の入り口には「熱烈歓迎 日本創価学会訪華代表団」と書かれ、大学の首脳、学生たちが、到着した一行を盛大に歓迎してくれた。
 伸一たちは、まず図書館を訪問し、閲覧室や蔵書を視察した。
 ここには、百六十万冊の蔵書があるという。伸一の寄稿やインタビューを掲載した雑誌も置かれていた。また、創価学会青年部による反戦出版もあった。
 それから一行は、教職員、学生との懇談会に臨んだ。
 復旦大学の首脳からは、歓迎のあいさつや大学の概要説明があった。
 この席上、伸一は、日中の相互理解を推進するため、日本語書籍二千冊の寄贈を申し出た。既に、贈書目録も用意してあった。
 彼は、それを読み上げていった。
 「一、日本語書籍二千冊
 右日中両国の善隣友好の増進と創価大学と復旦大学間の相互交流の第一歩として謹んで贈呈申し上げます。 
 創価学会会長、創価大学創立者 山本伸一」
 北京大学、武漢大学に続いて、中国三校目の教育交流の道が開かれたのである。
 また、懇談会では、大学教育の実情について意見交換が行われたが、伸一は通信教育の内容などについて、集中的に尋ねていった。
 創価大学では、翌春に通信教育部をスタートさせようと、盛んに準備を進めていたのである。
 伸一は、学ぶことにかけては、極めて貪欲であった。どこまでも、食い下がるように質問をぶつけていった。
 創価大学に世界最高の通信教育部をつくろうとの情熱が、彼を質問に駆り立てずにはおかなかったのである。
 「安閑としていてはなにも得られない」とは、トインビー博士の警句だ。
63  人間外交(63)
 復旦大学を訪問した日の夜、上海市の関係者によって、山本伸一たち一行の歓迎宴がもたれた。
 上海市は、横浜市、大阪市の友好都市となっており、開明的な気風にあふれた街である。
 伸一にとって上海は二度目の訪問であり、皆、懐かしい顔であった。
 この歓迎宴のあいさつで伸一は、初訪中以来、世々代々の日中の友好を願って、訪中の模様を映画にしたり、中国の印象記を執筆するなど、自分なりに、懸命に努力してきたことを伝えた。
 そして、中国から創価大学に留学した学生たちについて語った。
 「このたび、私が創立いたしました創価大学に、中国から六人の留学生を迎えました。
 中国からの留学生といえば、私は、偉大な文学者であり、人間の解放をめざして古い道徳・思想と鋭く戦い抜いた魯迅先生と、仙台の藤野先生の交流を思い起こします」
 伸一は、前年の第一次訪中の折、上海で魯迅の故居を訪れていた。そこで目にした、魯迅の遺品などを懐かしく思い返しながら話を続けた。
 「魯迅先生は、『藤野先生』という一文を残されております。お二人の間には、民族、国家の壁を超えた人間と人間の温かい心の触れ合いがありました。気高く美しい人間性の調べがあふれております」
 ――魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。ここで、解剖学を教える、福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。
 藤野は、留学生の魯迅に、講義を筆記したノートを提出するように言う。戻されたノートを見ると、朱筆でびっしりと添削されていた。
 魯迅が書き切れなかったところは補足され、日本語の文法の間違いも指摘してあった。
 その添削は、藤野が授業を担当している間、ずっと続けられた。
 魯迅は「藤野先生」に記している。
 「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。
 藤野は″なんとしても、彼には大成してほしい″との思いで、心血を注いで励まし続けたのであろう。それが師の心だ。
 伸一には、その″藤野先生″の気持ちが痛いほどよくわかった。
64  人間外交(64)
 魯迅はやがて、仙台医学専門学校を辞めて帰国し、中国人民の精神改造のために、正義のペンを執ることになる。
 教師の藤野厳九郎は、仙台を去る魯迅を家に招き、自分の写真を贈る。その裏には「惜別」の文字が記されていた。
 魯迅はさらに、藤野について、こう書いている。
 「かれの写真だけは今でも北京のわが寓居の東の壁に、机のむかいに掛けてある。夜ごと仕事に倦んでなまけたくなるとき、顔をあげて灯のもとに色の黒い、痩せたかれの顔が、いまにも節をつけた口調で語り出しそうなのを見ると、たちまち良心がよびもどされ、勇気も加わる」
 「良心」を、そして、「勇気」を呼び覚ましてくれるのが師である。
 だから、正しい師をもつ人は、正義の道を歩み抜くことができる。強く勇敢に生き抜くことができる。人生の師をもつ人は幸福である――。
 上海での歓迎宴で山本伸一は、決意をかみしめるように、話を続けた。
 「私は、創価大学の教師、学生と、中国からの留学生の間にも、このような美しい友情が育まれることを念願しております。いな、そうなるように最大限の努力を払ってまいります。
 希望の未来へつながる限りない発展性を秘めたこの友好の種子が、やがて亭々たる巨木となっていくよう、しっかり見守り、貴国の信頼に対して、誠意と信義の行動で応えていく所存です」
 創価大学に学んだ中国からの、この六人の留学生は、その後、それぞれが使命の大空に羽ばたき、日中友好のために大活躍していくことになる。
 伸一が結ぼうとしていたのは、政治や経済のための友誼ではない。本当の意味での「信頼の絆」であり、「友情の絆」であった。利害を超えた「人間の絆」であった。
 伸一の行動は、二十一世紀の人類共存の大河を、平和の大潮流を開くための人間外交であった。そこに彼は、生命をかけていたのだ。
 伸一は確信していた。
 ″後世の歴史は、必ずやわれらを、世界平和の開拓者として絶讃するであろう″と。
 伸一の一行が第三次訪中を終えて帰国したのは、四月二十二日の午後二時半過ぎであった。

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