Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第17巻 「本陣」 本陣

小説「新・人間革命」

前後
48  本陣(48)
 「広布第二章」の本格的な旅立ちにあたって、さっそうと、その先駆を切ったのは、青年たちであった。
 男子部は、二月十八日に、新章節開拓の意義を込めて、第二十一回総会を両国の日大講堂で開催した。
 この席上、活動方針の柱として、社会に開いた青年運動を打ち出したのである。
 そして、反戦平和、反公害、文化保護の原則の確立や、戦争否定の持続的な意識の啓発核兵器と戦争の廃絶のための署名運動、ベトナム救援募金の実施を、具体的な活動として示した。
 また、「生存の権利を守る青年部アピール」が、男子部長の野村勇から発表された。
 「われわれ創価学会青年部は、『生存の権利』という至上の権利を守り抜き、この地球上に恒久平和と人類の幸福をもたらすために、次の三つの主張を粘り強く訴え続けていく。
 一、核兵器および一切の軍備を地球上から消滅させ、一切の戦争を廃絶する。
 二、環境を破壊し、生命の生存の基盤を日に日に奪っていく公害を絶滅し、生き抜く権利を守り抜く。
 三、生命軽視の社会的風潮、暴力、人間性への不当なる抑圧と戦い、真の人間解放をめざす」
 アピールでは、さらに、この運動は万人の生存の権利を守り抜く「生命的ヒューマニズム運動」であり、生命、人格、個人の幸福は、いかなる場合も手段化しないという「生命尊厳」の立場からの展開であることを訴えていた。
 また、思想、信条の違いを乗り越えて、世界平和を願い、生命の尊厳を守り抜こうとする多くの人びとと友好の絆を強め、連帯して、その実現に向かって進むことをうたっていた。
 このアピールの採決では、皆が一斉に起立し、総意をもって決定をみたのである。
 青年たちは、深く心に誓っていた。
 ″この世から不幸と悲惨をなくそう″
 ″人類最高の叡知である仏法を社会に開こう″
 御聖訓には、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」と仰せである。
 立正安国の使命を自覚した青年たちの胸には、社会建設への闘魂が、赤々と燃え盛っていた。
49  本陣(49)
 山本伸一は、難解な人類の諸問題に真っ向から取り組み、本格的に立ち上がった青年たちの若々しい気概が頼もしくもあり、嬉しくもあった。
 この男子部総会で伸一は、人生の勝利を飾りゆく要諦として、「信心」「見識」「努力」
 「人情」「目標」の五項目を示したのである。
 彼は、さらに方面ごとの青年の集いにも出席して、共に「広布第二章」へ船出しようと、心に決めていた。
 そして三月四日には、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の青年の代表が、東京・日大講堂に集って行われた、関東男子部総会に出席したのである。
 あいさつに立った伸一は、厳とした口調で語り始めた。
 「第二章の新しい出発にあたり、まず最初に諸君の敢闘を期待したい。これは、決して私がお願いするという意味のものではない。
 私も戸田先生の松明を受け継いで、自ら走れる限り走り抜いた。
 広宣流布は人に頼まれてするのではなく、地涌の菩薩としての自身の自覚から、また、この世に生まれてきた自分の使命として、やむにやまれぬ久遠の生命の発動として遂行するものだからです。
 その自発の決意と能動の実践なき人は、もはや第二章の戦いを担う勇士ではない。真実の学会健児ではない。
 この第二章は、広宣流布の本格的な実践段階であり、本格的な信心の人こそが、それを担いうる実践者なのであります。
 御金言には『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せのように、臆病者では戦い抜けない時代なのであります。
 諸君の歌っている男子部の愛唱歌の一節に『友も半ばに倒るとも 誓い忘るか 誓い忘るか 革命の……』とある。
 この歌を決して忘れないで、高らかに歌いながら、力ある法戦の勇士になってほしい」
 この歌は、二月の男子部総会で発表されたばかりの、「原野に挑む」という愛唱歌であった。
 いかなる試練も、嵐も乗り越えて、敢然と一人立ち、師弟の道を征く師子たらんとする男子部の熱き誓いを歌にしたものである。
 伸一は、その青年たちの心意気を讃え、広宣流布の主体者となることを訴えたのである。
50  本陣(50)
 ″青年さえ育てば、未来は開かれる。青年のために、命もかけよう。すべてをなげうとう″
 それが山本伸一の誓いであり、決断であった。
 彼は、寸暇を惜しんで青年と会い、会合に出席しては、遺言の思いで、「広布第二章」の新たな指針を示していった。
 三月十一日、日大講堂で行われた女子部総会では、成長の糧として「発心」「進歩」「連帯」「善美」「展望」の五項目の指針を贈った。
 このうち、「善美」とは、人びとに希望と勇気と喜びをもたらす、崇高な生き方である。
 さらに、引き続いて、同じ会場で行われた学生部総会では、「人間学の権威者に」「教学を根本に幅広く学問に挑戦を」「向上は青年の異名である」と指導している。
 そして、十日後の二十一日には、初の九州青年部総会に臨み、「正信」「研鑽」「誠実」「品格」「連持」を行動の規範として提案した。五番目の「連持」は、持続といってもよい。
 確かなる指針は、未来をめざす青年の、希望の灯台となる。
 それらを胸に、新しき世紀の大海原へ、青年たちは勇躍、旅立っていったのである。
 この一九七三年(昭和四十八年)は、言論の本陣・聖教新聞社にとっても新たな船出となった。
 二月末から四月初旬にかけ、海外常駐特派員の第一陣として、香港、アメリカのシカゴとロサンゼルス、フランスのパリに、記者が派遣されていったのである。皆、青年であった。
 世界広布第二章の開幕を迎え、「世界の聖教」へと飛躍するための新たなる布石であった。
 伸一は、その一人ひとりに全精魂を注ぎ、厳しくも温かい励ましを重ねて送り出した。
 「ひとたび行くからには、その国の土となる覚悟をもて! その国の人びとに尽くし抜け!」
 海外生活は決して容易ではない。遊び半分では自身も行き詰まり、周囲も迷惑する。特派員は、皆、珠玉の人材である。ゆえに伸一は、全員を大成させたかったのだ。
 彼の植えた励ましの種子は、やがて見事に花開いていく。このなかから各国の理事長などとして活躍するメンバーが誕生するのである。

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