Nichiren・Ikeda
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50 蘇生(50)
フィギュアの演技が行われた、このスケートリンクづくりも、難航を極めた作業であった。二月に入り、次第に暖かくなり始めてしまったからだ。
リンクは、雪を踏み固めて下地をつくり、その上に、毎日、小川から汲み上げた水を、ホースを使って霧状にして散布し、薄い氷を少しずつ張ってつくられていった。
しかし、イチョウの根の近くなどでは、氷がシャーベット状になっていた。地温が高くなっているのだ。
また、氷の面に、わずかでもデコボコがあれば、フィギュア演技の命取りになりかねない。設営メンバーは、カンナや左官ゴテを手にし、氷上に鼻先を付けるようにかがみ込んで、氷のかすかな起伏も見逃さず、表面を滑らかにしていった。翌日、鳥の足跡があったり、風で落ちた葉が氷の中に埋まっていたりすれば、また、やり直さなければならない。
特設したリンクの上で、本格的なフィギュアの練習ができたのは、本番の前々日だった。それでも、まだ氷の状態は、完璧でなかった。
本番前夜、設営担当者は、皆、懸命に祈った。やるべきことはすべてやった。しかし、気温が上がってしまえば、いっさいは水の泡だ。もはや祈るしかなかった。
この祈りが天に通じたのか、その夜、気温はグングン下がり始めた。
″雪の文化祭″当日の二月二十五日――。
最低気温は、五日ぶりに、マイナス一〇度を下回った。
北海道の冬らしい寒い朝となり、スケートリンクも、雪像も、冷気の中で引き締まり、予想を上回る仕上がりとなった。
しかも、夜間には、小雪もちらつき、「幻想の森」の木々には綿帽子のような雪が枝にかかり、最高の演出となった。
今、スケートリンクの上では、″銀盤の妖精″たちが、ライトを浴び、音楽に合わせて、流れるように、舞っていた。
山本伸一も、身を乗り出して、大きな拍手を送り、演技を讃えた。
「すばらしいね!」
その瞬間、設営担当者の頬に、大粒の涙が、ポロポロと流れた。
勝利の喜びの涙は、限りなく温かかった。
51 蘇生(51)
翌二十六日、山本伸一は、第一会場のテイネオリンピアで、マスゲームなどの演技を観賞した。
実は、この日、彼は発熱していたのである。
昨年来、体調の本格的な回復をみないまま年を越したうえに、北海道の寒さが、いたく体にこたえたのだ。朝、熱を測ると、三九度近かった。
しかし、皆が待っていると思うと、行かぬわけにはいかなかった。
ゲレンデには、「'71北海道 雪の文化祭」「若人の広場」の文字が浮かび上がっていた。午後一時半、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
ゲレンデの下から頂上へ、リレーで運ばれた火が聖火台にともされた。そして、花火が打ち上げられ、色とりどりの風船が空に舞い上がった。
文化祭の開幕である。
ゲレンデ頂上から、黄色のスキーウエアの一群が、鮮やかなシュプールを描いた。威勢のいいエンジン音を響かせて、麓からスノーモービルの一隊が頂上へ一気にかけ上がった。
女子部百七十五人のマスゲーム。ジャンプ台を使った″飛翔″の演技。フィギュアスキー。徒手体操……。趣向を凝らした演技の数々に、終始、どよめきが起こっていた。技術指導に当たった一人の青年は、役員席で、興奮を抑えることができなかった。出演者のなかには、最初はスキー靴の履き方さえ知らない人もいた。それが短期間の練習で技術を修得し、見違えるように、堂々とマスゲームを演じているのである。彼は、一つ一つ演技が決まるたびに、自然に「ヨシッ!」と叫び、拳を握り締めていた。
たとえ、自分は檜舞台に立つことはなくとも、苦労し、力を尽くした分だけ、感動があり、充実があり、歓喜がある。それが、生命の因果の法則といってよい。
圧巻は、三十人のメンバーによる″組み体操″であった。
四人のスキーヤーが、肩の上に、スキーを履いた人を乗せ、まるで騎馬を組むようにして滑降してきた。途中で、上の一人も、パッと着地し、一緒に滑り出す。
大歓声があがり、拍手がこだました。
52 蘇生(52)
青年たちの演技は、来賓が、プロスキーヤーによるものと勘違いするほど見事なものであった。
次いで、白銀のゲレンデに、スキーヤーによって、絵が描かれ始めた。
斜面いっぱいに、青い服のメンバーが富士の輪郭を、黄色い服のメンバーが山頂部分を描き、そして、オレンジと緑の旗をもった女子部が裾野をかたどった。やがて、全出演者から「北海健児の歌」がわき起こり、フィナーレを迎えた。
山本伸一も歌った。熱のために悪寒が彼を苛み続けたが、北海道の友への賞讃と共戦の思いを込めて熱唱した。
「見事な″雪の文化祭″だった。みんな、勝ったね。歴史を開いたね」
彼は、側にいた幹部に語ると、両手を高く掲げて成功を祝福した。
文化祭の終了後、地元幹部が言った。
「スノーモービルを用意してありますので、ぜひ、お乗りください」
伸一は、皆の気持ちを大切にしたかった。
彼は、スノーモービルに乗せてもらい、スキー場の上に向かった。
バリバリバリバリッ!
猛烈なエンジン音であった。車体は起伏を越えるたびに激しく弾んだ。
スノーモービルを降りると、そこには、雄大な眺望が広がっていた。
白銀の稜線の間に、街並みが見え、その先には海が光っていた。石狩湾である。
「先生。厚田村は、こちらの方向です」青年が、石狩湾の右手の方角を示した。
このテイネオリンピアのある手稲山は、北海道師範学校の教諭だった初代会長の牧口常三郎も、生徒を引率して登った山である。
そして、伸一の恩師である戸田城聖は、石狩湾に臨む厚田村から雄飛していった。
伸一は、海を見ながら心で語りかけた。
″牧口先生! 戸田先生! 両先生の故郷に、今、人間文化の旗は、堂々と翻りました″
頭上を仰ぐと、やや西に傾いた太陽を囲むように、七彩の虹の環が美しく輝いていた。
伸一は、初代、二代の会長が、この″雪の文化祭″を見守り、新しき民衆文化の潮流を、讃え、喜んでくれているように思えてならなかった。