Nichiren・Ikeda
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50 楽土(50)
途中、道沿いの家の庭に、満開の美しい緋寒桜が見えた。ピンクの光を放っていた。
一人の婦人が、「車を止めてください」と言った。かつて誰かから、山本会長は桜が好きだと聞いたことを思い出したのである。
彼女は、桜を届けたいと思った。
車を降り、その家の人に、桜の枝を分けてほしいと頼んだ。快諾してくれた。
その桜の枝を、婦人の娘である、小学校五年生の少女が持った。
メンバーは、那覇へと急いだ。沖縄本部に着いたのは、午後九時近かった。
メンバーの一人が、懇願するように、警備にあたっていた役員の青年に告げた。
「私たちは、国頭から来ました。ひと目だけでも、先生にお会いできないでしょうか……」
青年は、困惑した顔で答えた。
「もう、夜も遅いですから、今日はお帰りください」
こんな時間に、突然、会長に取り次いでくれと言われても、応じるわけにはいかないと思ったからである。
メンバーは、寂しそうに肩を落とした。
それを見た、もう一人の役員の青年が言った。
「無理だとは思いますが、聞いてみますから、しばらく、車のなかでお待ちください」
国頭の同志は、自分たちが非常識なことをしていることも、よくわかっていた。断られても、仕方ないと思っていた。
ただ、それでも、山本会長と会い、自分たちの心を伝えたかった。
役員の青年は、なかなか戻ってこなかった。皆、心のなかで、懸命に題目を唱えながら待っていた。心臓は、早鐘を打つようにドキドキしていた。
「皆さん! 山本先生が、お会いしてくださるそうです」
青年の声がした。
「バンザーイ!」と、叫びだしたい衝動を、必死にこらえた。
沖縄本部の二階に案内された。それぞれ、心づくしの届け物を抱きかかえるようにして、われ先にと階段を上った。
伸一の声が響いた。
「よくおいでくださいました。本当にご苦労様です。どうぞ、こっちにいらっしゃい」
51 楽土(51)
メンバーは、伸一の周りに座った。
「国頭からだと、車で何時間ぐらいですか」
「休まずに走れば、三時間です」
「運転手の方は?」
何人かの男性が手をあげた。
「おなかがすいて、事故を起こしてはいけないので、おソバを用意しますから、運転手の方は、食べていってください」
メンバーが、語り始めた。
「今日は、先生が来られるのではないかと思って、みんなでお待ちしていたんです。今度は、ぜひ、国頭にいらしてください」
「そうか、待っていてくれたのか……。かわいそうなことをしたな。何人ぐらいの人が待っていたの?」
「全部含めると、百人ほどです」
「その方々に、くれぐれもよろしくとお伝えください。皆さんに袱紗を差し上げましょう」
すぐに、側近の幹部が袱紗を用意した。
「先生、これを!」
婦人が携えてきた荷をほどき、沖縄のミカンを差し出した。
伸一は「ありがとう」と言って、ミカンを一つ取り、皆にも勧めた。
メンバーは、芭蕉布や貝細工の置物など、持参した品々を、次々と伸一の前に広げた。
「私は、物はいただかないようにしていますが、皆様方の尊い真心なので頂戴いたします。御宝前にお供えします。私も、お土産を差し上げましょう」
さらに、一人の少女が、自分の身の丈ほどもあろうかと思われる、濃いピンク色の花びらを広げた緋寒桜の枝を持って、前に出てきた。
少女は、この桜は、自分が山本会長に渡したいと、持ち続けていたのである。
伸一は、その桜を受け取ると、少女を傍らに座らせた。
「ありがとう。きれいだね。沖縄はもう桜が咲いているんだね」
少女は頷いた。
「幾つになったの?」
だが、少女は黙っていた。涙があふれて、返事ができなかったのだ。
彼女は、幼少期に父親を亡くし、母親の手で育てられた。母親から、よく伸一の話を聞かされてきた彼女は、「私も先生にお会いしたい」と、祈り続けてきたのである。
52 楽土(52)
少女は、肩を震わせて泣き始めた。
沖縄の幹部が、少女の父親は、既に他界していることを、伸一に伝えた。
「そうですか。寂しかっただろうね。今日から、私が父親になりましょう。だから、もう泣くのはやめようね。あなたは、何が好きなの?」
包み込むような、優しく、温かい声であった。
少女は、ますます泣きじゃくるのであった。一緒に来ていた母親が、代わって答えた。
「娘は、ピアノが好きなんです」
「うーん、ピアノか。ピアノは重くて持ってこられないな」
皆の笑いがこぼれた。
伸一は少女に語った。
「あなたのことは、生涯、見守っています。
もし、苦しいこと、辛いことがあったら、手紙を書くんだよ。元気な時や調子のよい時はいいから、大変な時こそ、遠慮せずに、私の胸に飛び込んでいらっしゃい。
これから先、何があったとしても、負けてはいけないよ。転んでも、転んでも、信心で立ち上がって、前へ、前へと進むんだ。きっと、きっと幸せになるんだよ」
それから、伸一は、側近の幹部に、新しいノートを持ってくるように頼んだ。
手渡されたノートを広げると、彼はペンを走らせた。
「国頭の友の栄光を 永遠に記しておくため 茲に氏名を留める 伸一」
そして、それぞれの名前と年齢を記載するように言って、ノートを回した。
全員が書いて、伸一のもとにノートが戻った。
メンバーのなかには、生活苦と懸命に戦っている人も少なくなかった。しかし、その顔には、清らかな信心の、黄金の輝きがあった。
伸一は、合掌する思いで、記された名前に、じっと視線を注いだ。
「このノートは、尊き広宣流布の記録として、沖縄の会館に永久保管いたします。また、皆さんが無事に帰られますよう、一緒にお題目を唱えましょう」
伸一は、御本尊に向かった。
国頭の友は、喜びに震えながら、彼の朗々たる声に唱和した。
53 楽土(53)
山本伸一の沖縄滞在は、三泊四日にすぎなかった。
しかし、その訪問は、沖縄の同志に無限の勇気を与え、楽土建設への、不撓不屈の闘魂を燃え上がらせたのである。
東京に戻ってから八日後の二月二十六日、千代田区の日本武道館で、二月度本部幹部会が開催された。
山本伸一の堂々たる声が響いた。
「学会の国内合計世帯数は、この二月をもちまして、待望の七百万世帯を達成いたしました。大変にご苦労様でございました!」
その瞬間、雷鳴のような大歓声と大拍手が、武道館を揺るがした。
一九六六年(昭和四十一年)十一月に六百万世帯を達成して以来、わずか二年三カ月で百万世帯の拡大である。まさに破竹の勢いで、広宣流布は進み、幸福と歓喜の大波が、日本列島を包もうとしていた。
伸一は言葉をついだ。
「大聖人は、『軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり』と仰せであります。この七百万世帯は、皆さんが大将軍となって、勇気をもって戦い抜いた証であります。
大聖人も、また、牧口先生、戸田先生も、この壮挙を喜ばれ、諸手をあげて、ご賞讃くださることは間違いありません。
勇気は、希望を呼び、力をわかせます。勇気こそ、自分の殻を破り、わが境涯を高めゆく原動力であります。
大将軍の皆さん! 遂に、新しき建設の幕は開かれ、創価の勇者の陣列は整いました。新時代が到来しました。わが胸中に、いや増して勇気の太陽を輝かせながら、いよいよ、歴史の大舞台に躍り出ようではありませんか!」
大勝利の獅子吼がこだました。同志の顔に決意が光った。
「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」――それが創価の精神である。この広宣流布の拡大のなかにこそ、師弟の直道があり、人類の幸福と平和の、確かなる大道があるのだ。