Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「金の橋」 金の橋

小説「新・人間革命」

前後
54  金の橋(54)
 伸一は、心で叫んでいた。″松村先生! 私は、お約束通り、今、中国の大地を踏みました。あなたの志を受け継ぎ、永遠不滅の堅固なる日中の金の橋を、断じて架けてまいります″
 九竜を発つ時に降っていた雨は、既にあがっていた。深圳の空を見上げると、薄雲の間から顔を覗かせた太陽が、微笑みかけているように思えた。
 伸一は、第一次となるこの訪中で、北京、西安(シーアン)、上海、杭州(ハンジョウ)、広州(グアンジョウ)などを訪れた。そして、教育・文化交流の新しい道を開くために、北京大学をはじめ、幼稚園、小学校、中学校などを訪問する一方、中国仏教協会の責任者らと対話していった。
 また、李先念(リー・シエンニェン)副総理、中日友好協会の廖承志会長らと会談し、日中平和友好条約や社会主義と自由の問題、さらに、資源、国連、核兵器の問題等について語り合った。
 工場も視察した。民衆のなかへと、家庭も訪問した。託児所にも立ち寄った。青年たちとも語り合った。深夜の移動の車中も、中日友好協会の孫平化秘書長らと、寸暇を惜しんで対話を重ねた。
 伸一の中国での十七日間は、日中友好の沃野を開くための、全力を尽くしての、間断なき開墾作業であった。
 周総理は、山本伸一との会見を強く希望していた。しかし、彼の滞在中に、癌の手術のために入院したのである。総理と伸一の歴史的な会見が実現したのは、第二次訪中となった、半年後の一九七四年(昭和四十九年)十二月五日のことであった。
 総理は病床にあり、病は重かった。それを聞かされていた伸一は、答礼宴の席上、中日友好協会の廖承志会長から、「周総理が待っておられます」と言われた時、会見を辞退した。総理に負担をかけてはならないとの、思いからであった。しかし、もはや変更できぬ状況のようである。
 伸一は、廖会長の勧めにしたがい、「ひと目、お会いしたら失礼させてください」と言って、会見会場に向かった。
55  金の橋(55)
 周総理が、訪中した伸一に会うと言い出した時、病院の医師団は、全員が反対した。
 「どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません!」
 「いや、私は、どんなことがあっても会わねばならない!」
 困惑した医師団は、総理の妻の鄧穎超とうえいちょう(ドン・インチャオ)に、説得を頼んだ。
 夫人は答えた。「恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください」
 伸一を乗せた車が着いたところは、周総理が入院中の三〇五病院であった。時刻は既に午後十時(現地時間)近かった。
 玄関には、人民服に病躯を包んだ総理が立っていた。その全身から発する壮絶な気迫を、伸一は感じた。待ちに待った対面であった。会見には、伸一の妻の峯子も同席した。
 周総理七十六歳。伸一四十六歳――。
 二人は、固い固い握手を交わした。その瞬間、伸一は、互いの魂と魂が通い合い、熱く脈動し合うのを覚えた。
 瞬きもせずに、彼を見つめる総理の目は、鋭くもあり、また、限りなく優しくもあった。
 「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です」
 「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
 総理の発する一言一言が、遺言のように、伸一の生命を射貫いた。
 彼は、総理の言葉に、″日中の友好の永遠の道を!″との魂の叫びを聞いた。平和のバトンが託されたと思った。
 「桜の咲くころに、再び日本へ」との伸一の申し出に、総理は、寂しそうに微笑み、静かに首を振った。
 「願望はありますが、実現は無理でしょう」
 胸が痛んだ。これが、世々代々にわたる、日中の民衆交流の新しき歴史を開く、一期一会の出会いとなったのである。伸一は、深く、深く、心に誓った。
 ″私は、わが生涯をかけて、堅固にして永遠なる日中友好の金の橋を、断じて架ける!″
 師走の北京の深夜は、底冷えがしていた。しかし、彼の胸には、闘魂が赤々と、音を立てて燃え盛っていた。

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