Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「激流」 激流

小説「新・人間革命」

前後
41  激流(41)
 御書には「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と仰せである。
 つまり、社会を大事にして、社会のために貢献し、活躍していくことが仏法であり、その人が「智者」であるというのである。
 韓国の同志は、この日蓮仏法の、また、創価学会の「真実」と「正義」を、なんとしても証明していかなければならないと思った。
 誤解が誤解のままであれば、「真実」は葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは、「正義」の死を意味する。
 ″私たちが実際に何をなし、どれだけ社会に貢献できるかだ。その行動のなかに、学会の正しさを証明する道がある″
 こう考えたメンバーは、各地域で、自主的に、社会貢献の歩みを開始していったのである。
 一九七〇年代から、韓国では「セマウル(新しい村)運動」という農村の近代化政策が推進された。
 それは、国民の生活の向上をめざすものであり、この運動は、後に、市民意識の開発、街の清掃、緑化などを掲げ、都市部にも広がっていった。
 メンバーは、その社会奉仕の諸活動に勇んで参画し、田植えや刈り入れを手伝う「農村助け合い運動」や、自然保護運動に取り組んでいった。
 さらに、一九九〇年代に入ると、メンバーは、大規模な「国土大清掃運動」を展開していったのである。
 このほか、教育や福祉にも光をあて、学校への「良書贈呈運動」や、社会的に恵まれない人びとへの奉仕活動も進められた。
 仏法の人間主義に基づく韓国の″仏教会″のこうした地道な努力は、着実に信頼の輪を韓国社会に広げていった。
 一九七九年の十二月には、食糧増産と農作物災害克服への尽力が高く評価され、メンバーは農水産部長官から表彰された。
 それは、韓国社会からの最初の顕彰であった。
 八四年一月には、「農村助け合い運動」による、農漁村所得の増大への貢献に対して、当時の全斗煥大統領から、表彰状が贈られたのである。
 また、九六年六月には、環境保全への献身的な努力が称えられ、環境部長官から表彰を受けた。さらに、各地の行政機関等からの顕彰も相次いでいる。
 まさに、″仏教会″が、韓国社会になくてはならぬ″希望の存在″となった証左といってよい。メンバーの粘り強い努力が、厚い誤解の壁を打ち破っていったのである。
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 一方、山本伸一も、韓国の敬愛する同志の、幸福と活躍を念じ、「功徳の雨よ降れ!」と、日々、題目を送り続けてきた。
 また、韓国の同志が日本にやって来ると聞けば、真っ先に会い、一人ひとり、抱きかかえる思いで、全魂を込めて激励した。
 さらに、日本と韓国の間に、信義と友情の、永遠の「宝の橋」を架けようと、文化・教育の交流に、力を注いでいったのである。
 そうした努力が実り、一九九〇年秋、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」が、ソウルで開催されることになった。
 そのオープニングの式典に出席するため、彼は東京富士美術館の創立者として、この時、初めて、念願の韓国を訪問した。
 そして、一九九八年五月、伸一は、再び韓国の大地に立ったのである。
 創価大学の創立者として、名門・慶煕大学から招かれ、「名誉哲学博士号」を贈られたのである。
 伸一の「世界平和への献身的努力」と、「韓国の文化と歴史への深い洞察を通し、韓日の友好に大きく寄与した」ことを称えての授与であった。
 この韓国訪問中の五月十八日、伸一は、ソウルにある、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのである。
 初夏の風がさわやかであった。
 同志は、待っていた。一九六四年に、あの試練の嵐が吹き荒れて以来三十四年、メンバーは、この日が来ることを夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。
 それは、伸一も同じであった。
 彼は、韓国の″信心の大英雄″たちに、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆様方がおられれば、いっさいを勝利に導いていけるということが、厳然と証明されました。皆様は勝ちました!」
 喜びの大拍手が舞った。
 「社会に奉仕し、人間性を広げていく。二十一世紀の仏法ルネサンスは、韓国から始まっています。私は嬉しい。全世界が皆様を賛嘆しています!」
 一言一言に、全生命を注ぐ思いで、伸一は語った。
 「どうか、『楽しき人生』を! 『偉大な人生』を! 『勝利の人生』を!」
 誰もが泣いていた。誰もが大歓喜に包まれていた。そして、誰もが新たな旅立ちの誓いに燃えていた。
 嵐を越えた樹木には、みずみずしい鮮やかな緑の栄冠が輝く。艱難を乗り越えた韓国の同志の胸中には、二十一世紀を照らしゆく、黄金の太陽が輝いていた。

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