Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「激流」 激流

小説「新・人間革命」

前後
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 山本伸一は、SGI(創価学会インタナショナル)の発足に、韓国の代表が参加できなかったことが、残念でならなかった。
 また、長い試練に耐え抜いてきた、韓国の第一線の同志のことを思うと、かわいそうでならなかった。
 彼は、韓国のメンバーが仲良く団結し、尊い使命ある仏弟子として、互いに尊敬し合い、前進していくために、この時、韓国の同志の激励と相談の窓口を設けることにした。
 そして、当時、理事長であった十条潔、また、副会長であった泉田弘らが、その担当者となった。
 翌一九七六年五月、韓国のメンバーは、何度かの話し合いの末に、ソウルで全国代表者会議を開き、″仏教会″を発足させた。
 席上、九人の運営委員が決まり、そのなかから三人が議長団に選出された。
 ″三人議長制″というかたちではあったが、ようやく、全韓国を統合する組織が誕生したのである。
 しかし、その後も、韓国の同志は、さまざまな風雪にさらされた。正法に違背し、分派していく者もあった。宗門の破戒僧や日本の反逆者が、組織撹乱に暗躍したこともあった。
 だが、そのたびに、むしろ、信仰の純度は高まっていった。組織を利用して私利私欲を貪ろうとする者や、わがままな幹部は、淘汰されていったのである。
 そして、祖国の平和と繁栄を築く「同心」の大河ともいうべき、今日のSGI韓国仏教会へと発展していくのである。
 だが、韓国社会の創価学会への認識は、このころも依然として厳しかった。
 たとえば、韓国の新聞の記事には、学会について、日本色が強く、国粋主義的性格を色濃くもった宗教であるとし、韓国の民族精神を蝕む危険が大きい、といった批判的な論調が、しばしば掲載されていた。
 しかし、日蓮仏法は本来、日本という一国家の枠を突き抜けた、全人類のための宗教である。
 「一切衆生・皆成仏道の教」と、大聖人が仰せのように、全人類を一人残らず救いゆくための妙法である。
 また、大聖人が、当時の日本の最高権力者たちを「わづかの小島のぬしら主等」と言われていることを見ても、大聖人の仏法は、日本の″国粋主義的性格″をもつものでは断じてない。
 さらに、仏法では「随方毘尼」を説き、仏教の本義に違わないかぎり、その国や民族、地域の、文化、精神、習慣などを尊重していくべきことを教えている。
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 御書には「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と仰せである。
 つまり、社会を大事にして、社会のために貢献し、活躍していくことが仏法であり、その人が「智者」であるというのである。
 韓国の同志は、この日蓮仏法の、また、創価学会の「真実」と「正義」を、なんとしても証明していかなければならないと思った。
 誤解が誤解のままであれば、「真実」は葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは、「正義」の死を意味する。
 ″私たちが実際に何をなし、どれだけ社会に貢献できるかだ。その行動のなかに、学会の正しさを証明する道がある″
 こう考えたメンバーは、各地域で、自主的に、社会貢献の歩みを開始していったのである。
 一九七〇年代から、韓国では「セマウル(新しい村)運動」という農村の近代化政策が推進された。
 それは、国民の生活の向上をめざすものであり、この運動は、後に、市民意識の開発、街の清掃、緑化などを掲げ、都市部にも広がっていった。
 メンバーは、その社会奉仕の諸活動に勇んで参画し、田植えや刈り入れを手伝う「農村助け合い運動」や、自然保護運動に取り組んでいった。
 さらに、一九九〇年代に入ると、メンバーは、大規模な「国土大清掃運動」を展開していったのである。
 このほか、教育や福祉にも光をあて、学校への「良書贈呈運動」や、社会的に恵まれない人びとへの奉仕活動も進められた。
 仏法の人間主義に基づく韓国の″仏教会″のこうした地道な努力は、着実に信頼の輪を韓国社会に広げていった。
 一九七九年の十二月には、食糧増産と農作物災害克服への尽力が高く評価され、メンバーは農水産部長官から表彰された。
 それは、韓国社会からの最初の顕彰であった。
 八四年一月には、「農村助け合い運動」による、農漁村所得の増大への貢献に対して、当時の全斗煥大統領から、表彰状が贈られたのである。
 また、九六年六月には、環境保全への献身的な努力が称えられ、環境部長官から表彰を受けた。さらに、各地の行政機関等からの顕彰も相次いでいる。
 まさに、″仏教会″が、韓国社会になくてはならぬ″希望の存在″となった証左といってよい。メンバーの粘り強い努力が、厚い誤解の壁を打ち破っていったのである。
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 一方、山本伸一も、韓国の敬愛する同志の、幸福と活躍を念じ、「功徳の雨よ降れ!」と、日々、題目を送り続けてきた。
 また、韓国の同志が日本にやって来ると聞けば、真っ先に会い、一人ひとり、抱きかかえる思いで、全魂を込めて激励した。
 さらに、日本と韓国の間に、信義と友情の、永遠の「宝の橋」を架けようと、文化・教育の交流に、力を注いでいったのである。
 そうした努力が実り、一九九〇年秋、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」が、ソウルで開催されることになった。
 そのオープニングの式典に出席するため、彼は東京富士美術館の創立者として、この時、初めて、念願の韓国を訪問した。
 そして、一九九八年五月、伸一は、再び韓国の大地に立ったのである。
 創価大学の創立者として、名門・慶煕大学から招かれ、「名誉哲学博士号」を贈られたのである。
 伸一の「世界平和への献身的努力」と、「韓国の文化と歴史への深い洞察を通し、韓日の友好に大きく寄与した」ことを称えての授与であった。
 この韓国訪問中の五月十八日、伸一は、ソウルにある、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのである。
 初夏の風がさわやかであった。
 同志は、待っていた。一九六四年に、あの試練の嵐が吹き荒れて以来三十四年、メンバーは、この日が来ることを夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。
 それは、伸一も同じであった。
 彼は、韓国の″信心の大英雄″たちに、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆様方がおられれば、いっさいを勝利に導いていけるということが、厳然と証明されました。皆様は勝ちました!」
 喜びの大拍手が舞った。
 「社会に奉仕し、人間性を広げていく。二十一世紀の仏法ルネサンスは、韓国から始まっています。私は嬉しい。全世界が皆様を賛嘆しています!」
 一言一言に、全生命を注ぐ思いで、伸一は語った。
 「どうか、『楽しき人生』を! 『偉大な人生』を! 『勝利の人生』を!」
 誰もが泣いていた。誰もが大歓喜に包まれていた。そして、誰もが新たな旅立ちの誓いに燃えていた。
 嵐を越えた樹木には、みずみずしい鮮やかな緑の栄冠が輝く。艱難を乗り越えた韓国の同志の胸中には、二十一世紀を照らしゆく、黄金の太陽が輝いていた。

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