Nichiren・Ikeda
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30 波浪(30)
事件が起こってからは、吉山恒造の住むハモニカ長屋への部外者の立ち入りにも、厳しい監視の目が向けられるようになった。
しかし、夜、周囲が寝静まるのを待って、先輩幹部が激励に通ってくれた。
ある夜、佐世保支部長の松川徹がやって来た。
「元気かね。
ところで、腹が減ったけんが、ウドンばつくってもらえんかね」
そう言って、松川は持っていた袋を、吉山の妻に渡した。そこには、ウドンが十玉ほど入っていた。
「あんたたちも、よかったら一緒に食わんか」
松川は、吉山の苦境をよく知っていた。だが、吉山に、他人から施しを受けているような惨めな思いをさせたくなかった。
だから、あえて自分が腹が減っていると言って、ウドンを出したのである。
松川は言った。
「吉山さん、自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。
それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。
自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝つしかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。
いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。
信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことたい。獅子のごと戦うことたい」
真の信仰とは、″おすがり信仰″ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。
ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという″負けじ魂″こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。
吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。
湯気のたつウドンを夢中ですする子供たちを見ながら、吉山の心に、学会の同志の厳しくも温かい励ましが熱く染みた。彼は、そっと涙を拭い、決意を新たにするのであった。
こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。
一方、解雇されてしまった木田悟郎は、別の炭鉱で働くことになった。
足の怪我も回復し、どうにか、生活を維持することができた。
そして、移り住んだ借家を学会活動の会場に提供して、黙々と信心に励んだ。
彼が日々、念じていたことは、組合が、後に残った吉山の除名処分を撤回することであった。
31 波浪(31)
尾去沢鉱山の事件は、和解によって、除名から四カ月で終止符が打たれたが、中里炭鉱の事件は、本裁判に持ち込まれた。
中里炭鉱に残っている吉山恒造一人が原告となり、組合を相手取って除名決議の無効を訴えたのである。
そして、八回にわたる公判の末、長崎地裁佐世保支部は、一九六四年(昭和三十九年)三月三十日、吉山の主張通り、除名決議は無効との判決を下したのだ。
しかし、組合側は、判決を不服として控訴した。
翌一九六五年(同四十年)の四月、福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、更に組合側は、最高裁に上告したのである。組合の体面を守るためだけの醜い姿であった。
その結果、裁判の決着は最高裁判決まで持ち越されることになった。中里炭鉱は一九六七年(同四十二年)一月に閉鎖されるが、裁判はその後も続いていた。
最高裁の判決は、上告から四年後であった。一九六九年(同四十四年)の五月二日、最高裁第二小法廷は、一審、二審判決を支持し、″組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である″という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を無効とした。
実に、事件勃発から七年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。
吉山は「悪は多けれども一善にかつ事なし」の御文を実感した。いかなる謀略も、道理をねじ曲げることなど、できはしなかったのだ。
既に中里炭鉱の閉山から二年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。
組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。
暗雲を破って、勝利の輝く太陽は、佐世保の大空に、悠然と昇っていった。
山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。
学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から、時代の建設という、波浪の猛る大海に乗り出したのだ。
彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。
ただ、船内の同志たちの幸福と安穏とを、祈り念じながら――。