Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「波浪」 波浪

小説「新・人間革命」

前後
29  波浪(29)
 九月の下旬、木田悟郎が、突然、会社から解雇されてしまった。解雇の理由は、除名問題とは全く別の理由であった。
 木田は働き盛りの四十歳であったが、一年近く前に勤務中に足を骨折し、通院などのため、欠勤することが多かった。それが勤務怠慢として、解雇の理由にされたのである。
 一方、吉山恒造は、仮処分の決定と前後して、それまでの「採炭」、つまり坑内で石炭を採掘する仕事から外され、「坑内日役」に異動させられた。「坑内日役」とは、坑道内の掃除などの雑役である。
 それにともない、これまで月三万円から三万二千円あった給料が、一万円ほどに減ってしまった。三十六歳の吉山には、育ち盛りの四人の子供がおり、生活はたちまち逼迫していった。
 民生委員に生活保護を受けたいと相談したが、その民生委員も組合員で、会社の体面に傷がつくなどと理由をつけて、なんの対応もしてくれなかった。
 また、吉山が採炭への復職を希望しても、会社では採炭の人員が不足しているにもかかわらず、認められなかった。
 それでも、職場の不遇は、まだ我慢できた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰って来るのを見ると、身を切られるように辛かった。
 「なんで罪もなか子供たちまで、いじめるのか!」
 吉山は、悔しさと怒りに震えた。しかし、耐えるしかなかった。
 そんな時、妻のヨシエの明るさが、彼を励ました。彼女は、吉山が組合から査問された時も、「なんも悪かことはしとらんけん、謝ることはなか!」と言い切っていた。
 その確信にあふれた言葉が、彼に、不当な組合の仕打ちに屈することなく、最後まで、戦い抜く腹を決めさせたといえる。
 尾去沢鉱山の山尾久也の妻も、吉山の妻も、何があっても動じることなく、明るさを失わなかった。だからこそ、夫も挫けなかったのだ。もし、妻が弱音を吐いていたら、夫の心も揺らいでいたであろう。
 一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。
 「……大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
 この御文が、彼の一番好きな御書の一節であった。
 山本伸一が推進してきた教学の研鑽の運動が、同志の不動な信仰を築き上げていたのである。
30  波浪(30)
 事件が起こってからは、吉山恒造の住むハモニカ長屋への部外者の立ち入りにも、厳しい監視の目が向けられるようになった。
 しかし、夜、周囲が寝静まるのを待って、先輩幹部が激励に通ってくれた。
 ある夜、佐世保支部長の松川徹がやって来た。
 「元気かね。
 ところで、腹が減ったけんが、ウドンばつくってもらえんかね」
 そう言って、松川は持っていた袋を、吉山の妻に渡した。そこには、ウドンが十玉ほど入っていた。
 「あんたたちも、よかったら一緒に食わんか」
 松川は、吉山の苦境をよく知っていた。だが、吉山に、他人から施しを受けているような惨めな思いをさせたくなかった。
 だから、あえて自分が腹が減っていると言って、ウドンを出したのである。
 松川は言った。
 「吉山さん、自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。
 それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。
 自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝つしかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。
 いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。
 信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことたい。獅子のごと戦うことたい」
 真の信仰とは、″おすがり信仰″ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。
 ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという″負けじ魂″こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。
 吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。
 湯気のたつウドンを夢中ですする子供たちを見ながら、吉山の心に、学会の同志の厳しくも温かい励ましが熱く染みた。彼は、そっと涙を拭い、決意を新たにするのであった。
 こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。
 一方、解雇されてしまった木田悟郎は、別の炭鉱で働くことになった。
 足の怪我も回復し、どうにか、生活を維持することができた。
 そして、移り住んだ借家を学会活動の会場に提供して、黙々と信心に励んだ。
 彼が日々、念じていたことは、組合が、後に残った吉山の除名処分を撤回することであった。
31  波浪(31)
 尾去沢鉱山の事件は、和解によって、除名から四カ月で終止符が打たれたが、中里炭鉱の事件は、本裁判に持ち込まれた。
 中里炭鉱に残っている吉山恒造一人が原告となり、組合を相手取って除名決議の無効を訴えたのである。
 そして、八回にわたる公判の末、長崎地裁佐世保支部は、一九六四年(昭和三十九年)三月三十日、吉山の主張通り、除名決議は無効との判決を下したのだ。
 しかし、組合側は、判決を不服として控訴した。
 翌一九六五年(同四十年)の四月、福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、更に組合側は、最高裁に上告したのである。組合の体面を守るためだけの醜い姿であった。
 その結果、裁判の決着は最高裁判決まで持ち越されることになった。中里炭鉱は一九六七年(同四十二年)一月に閉鎖されるが、裁判はその後も続いていた。
 最高裁の判決は、上告から四年後であった。一九六九年(同四十四年)の五月二日、最高裁第二小法廷は、一審、二審判決を支持し、″組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である″という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を無効とした。
 実に、事件勃発から七年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。
 吉山は「悪は多けれども一善にかつ事なし」の御文を実感した。いかなる謀略も、道理をねじ曲げることなど、できはしなかったのだ。
 既に中里炭鉱の閉山から二年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。
 組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。
 暗雲を破って、勝利の輝く太陽は、佐世保の大空に、悠然と昇っていった。
 山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。
 学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から、時代の建設という、波浪の猛る大海に乗り出したのだ。
 彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。
 ただ、船内の同志たちの幸福と安穏とを、祈り念じながら――。

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