Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「民衆の旗」 民衆の旗

小説「新・人間革命」

前後
33  民衆の旗(33)
 山本伸一が父親として常に心掛けていたことは、子供たちとの約束は、必ず守るということだった。
 伸一は、せめて年に一、二度は、一緒に食事をしようと思い、ある時、食事の約束をした。しかし、彼は自分がなさねばならぬことを考えると、そのために、早く帰宅するわけにはいかなかった。そこで、学会本部から車で十分ほどのレストランで、ともに夕食をとることにした。
 しかし、その日になると打ち合わせや会合が入り、取れる時間は、往復の移動も含めて、二、三十分しかなかった。だが、それでも伸一はやって来た。ものの五分か十分、一緒にテーブルを囲んだだけで立ち去らねばならなかったが……。
 親子の信頼といっても、まず約束を守るところから始まる。もちろん、時には守れないこともあるにちがいない。その場合でも、なんらかのかたちで約束を果たそうとする、人間としての誠実さは子供に伝わる。それが″信頼の絆″をつくりあげていくのだ。
 峯子は、足早に去っていく伸一を見送ると、子供たちに言った。
 「パパは、来ることなんてできないほど忙しかったのに、約束を守って、駆けつけてくださったのよ。よかったわね」
 まさに、子育ての要諦は夫婦の巧みな連係プレーにあるといえよう。
 峯子は自ら、伸一と子供たちとの、交流の中継基地ともいうべき役割を担っていった。彼女は、夫のスケジュールはすべて頭に入れ、子供たちに、伸一が今、どこで何をしているか、また、それはなんのためであり、どんな思いでいるのかを語って聞かせた。
 一方、伸一と連絡を取る時にも、子供たちの様子を詳細に報告していた。それによって、彼も子供が何に興味を持ち、毎日を、どうやって過ごしているかを知り、的確なアドバイスができた。
 子供の年代に応じて、母親には母親の、また、父親には父親の果たすべき役割がある。山本家では、躾については、日頃、伸一よりも子供とともに過ごす時間の多い峯子が、主に担っていた。
 躾は、親が一緒に行動するなかで、自然に身につくようにすべきものといえるかもしれない。お礼やあいさつをはじめ、″自分のことは自分でする″″散らかしたものは片付ける″といったことなどは、口で教えれば、できるというものではない。
 それは体得させる事柄であり、親が根気強く子供のペースに合わせ、ともに行動しなければならないところに、その難しさがある。
34  民衆の旗(34)
 峯子は、上手に子供の関心を引き出しながら、おおらかな雰囲気のなかで躾をし、のびのびと子供たちを育てていった。
 彼女は、正弘が平仮名が読めるようになると、勤行を教えた。側について、指で経本の文字を一字一字たどりながら、一緒に声を出して勤行するのである。
 こうして勤行の基本を身につけた正弘は、小学校に入ると、自分から進んで、方便品、自我偈と唱題の勤行をするようになった。
 それは、峯子に手を引かれ、座談会や個人指導に連れられて行った影響もあったにちがいない。母親が不幸に苦しむ人のために、懸命に汗を流し、それを誇りとし、喜びとしている姿を見て育てば、子供も、自然に信心に目覚めていくものである。
 正弘は、時には、寝坊して題目三唱だけで家を出て行くこともあった。
 そんな時には、峯子は、こう言って送り出した。
 「心配しなくても大丈夫よ。ママが、しっかり祈ってあげるから、安心して行ってらっしゃい。でも、明日は頑張りましょうね」
 その一言が、どれほど子供をホッとさせるか計り知れない。もし、逆に不安をかきたてるような言葉を浴びせられれば、子供は一日中、暗い気持ちで過ごさねばならない。
 そこには、価値の創造はないし、それでは、なんのための信仰か、わからなくなってしまう。
 山本伸一が子供たちに対して担った役割は、人間の生き方を教えることであった。彼は、をついてはならないということだけは、厳しく言ってきた。あとはまことに鷹揚であった。父親が叱ってばかりいれば、どうしても子供は、萎縮してしまうからである。
 彼は、親の責任として、子供たちを、生涯、広宣流布の使命に生き抜く″正義の人″に育て上げねばならないと誓っていた。
 小学生の正弘には、伸一の会長就任式となった、五月三日の総会にも参加させた。父の広宣流布に生きる決意を、わが子の魂に焼きつけておきたかったのである。また、長男の正弘が父の心を知り、信仰への自覚を深めれば、それは当然、弟たちにも大きな影響をもたらすからだ。
 今、ケーキを張り、無邪気にはしゃぐ子供たちを見ながら、伸一は、しみじみと家庭の幸せをみ締めていた。
 そして、彼は、会長である自分の双肩にかかる、百七十万世帯の家庭の幸福のために、来年も力の限り走り抜かねばならぬと、決意を新たにするのであった。
35  民衆の旗(35)
 夜更けて、山本伸一は、峯子とともに、再び仏壇の前に座った。
 静寂な室内に、二人の唱題の声が響いた。
 彼が、第三代会長に就任し、創価の新生の歴史を開いた「前進の年」は、間もなく終わろうとしている。
 思えば、この一年は、彼の人生を大きく変えた激動の年であった。
 あの五月三日以来、彼は片時の休みもなく、ひたぶるに走り続けてきた。そして、学会は大いなる飛を遂げた。
 一年前の学会の総世帯は約百三十万であり、四月末の段階でも、まだ、百四十万余に過ぎなかった。しかし、それが今、会長就任八カ月で、百七十万世帯を上回るまでになった。
 また、支部も四月末には六十一支部だったが、百二十四支部となり、海外にも支部が誕生した。学会は、見事に新しき広宣流布の大空に飛び立ったのである。伸一の緒戦は、明確に大勝利を収めたのである。
 彼は、この一年を振り返って、いささかも悔いはなかった。自分らしく、使命を果たすべく、まっしぐらに突き進んで来た。恩師にも、胸を張って、報告することができる一年であると思った。
 疲労のゆえか、しばしば発熱を繰り返しはしたが、今、五体には満々たるエネルギーがあふれていた。
 しかし、この勝利は、広宣流布の長い旅路を思えば、まだ、ようやく飛行機が離陸した状態にすぎない。安定飛行に入るには、来年は更に高度を上げ、全速力で上昇していくことになる。
 伸一の胸には、戸田城聖から託された構想の実現のために、新しき年になすべき課題が次々と浮かんだ。
 引き続き、支部結成大会を中心に全国各地を回り、指導に全力を注がなくてはならない。また、来年は、初のアジア、ヨーロッパ訪問の第一歩を印す、更に新しき開拓の一年となろう。
 広宣流布の戦いとは、間断なき飛だ。
 外は、冬の夜の闇に包まれていたが、唱題を続ける彼の胸には、まばゆい「躍進の年」の太陽が輝いていた。その光は、澄み渡る大空に七彩の虹を架け、洋々たる広布の大海原を照らし出している。
 ″先生! 私は戦います。「民衆の旗」を掲げ、狭い日本だけでなく、世界を舞台にして″
 唱題の声に、一段と力がこもった。
 彼は、勝利を誓い、胸の鼓動を高鳴らせながら、決戦の第二幕への飛の朝を待った。

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