Nichiren・Ikeda
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「凡夫即極」の人間学
(第5回)
2008.1.22 「御書と師弟」
前後
4 万人に仏の生命が
大宇宙の普遍の法である妙法蓮華経という仏の大生命は、万人の中に実在します。このことに気づき、強い信心で、自らの生命を開き顕していけるかどうか。「仏」と「凡夫」の違いといっても、結局は、ただこの一点だけなのです。
戸田先生は言われました。
「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人の凡夫即極、諸法実相のお言葉を、素直に信じ奉って、この身このままが、永遠の昔より未来に向かって仏であると覚悟することである」
人間は、人間以上に偉くはなれない。人間以上の特別な存在になる必要もない。人間が人間として、最も人間らしく光り輝いていく。これが一番、大事なことではないでしょうか。
こうした「諸法実相」の法門を究めるならば、庶民を尊敬する人間哲学に帰着する。これが「凡夫即極」の人間学です。
私もこの精神を胸に、庶民の一人として、庶民とともに、徹して庶民のために、戦い抜いてきました。
戸田先生は「本物の人間でなければ広宣流布はできない」と言われました。格好ではない。妙法を弘めるために行動し、広宣流布のために苦労して戦い、民衆の幸福のために貢献している人こそ、人間として最も高貴である。どんな大学者も、どんな大権力者も絶対に敵わない。
学歴も肩書もない、無名にして尊極な庶民が築いてきたからこそ、学会は崇高なのです。
インドの詩聖タゴールは、「人間の歴史は 虐げられた者の勝利を忍耐づよく待っている」(山室静訳)と歌った。
最もいじめられ、苦しんできた庶民が強くなり、勝ち栄え、人間尊厳の社会を創っていく。その新時代に入ったのです。
5 「民が子」の誇りで
日蓮大聖人は、「民の子」であると言い切っておられた。
「日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子」「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり」等と仰せです。
日蓮仏法は、貴族仏教ではない。どこまでも民衆仏教です。
牧口先生は、ご自身を「素と之れ荒浜の一寒民」と言われた。戸田先生も「私も北海道の貧乏な漁師の忰だよ」「それを何よりも誇りとしているのだ」とおっしゃっていました。
私も、大田の貧しい海苔屋の息子です。庶民であることを誉れとする心こそ、創価の三代を貫く精神なのです。