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日蓮大聖人・池田大作

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文学との語らい 文学で「人間の心」を学べ「人生の深さ」を学べ

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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9  「作り話はイヤ」
 ―― 「ルポとか記録文学なら、納得して読めるのですが、小説とかは作った話なので面白くない」という人もいますが。
 池田 たしかに、小説の内容にはトリックがあったり、嘘もあるだろう。″本にだまされない自分″の確立は大事なことです。
 しかし、本物の文学のなかには、森があり、川があり、星があり、四季があり、波乱万丈の歴史がある。多くの普通の小説は、箱庭のようなものです。世界の大文学を読むことによって、もっと奥の深い世界に入っていくことができる。そういう世界を知らないと、人生、本当に損をします。大海を知らないで、川の浅瀬だけが世界だと思っているようなものだ。
10  「ともかく嫌い」
 ―― 「とにかく、読書がきらい。年に一、二冊しか読まない。ページをめくると、すぐに眠くなってしまう」という人もいます。何か″いい手″はあるでしょうか。
 池田 努力するしかない。甘ったれて、何か特別な″いい手″はないかなどと思っているかぎり、進歩はない。運動でも、そうです。「自分は走るのがきらいだ」と言って、何も努力しないでいたら、鍛えられるわけがない。
 読んで、眠くなるのなら眠ればいい。そのかわり、起きたらまた読めばいい。努力もしないで、人間ができるわけがない。自分の本当の力がわかるわけがない。人生の深さも、人間の素晴らしさもわからないまま、年をとってしまうでしょう。
 それを大前提にして、まだ本を読む習慣がない人は、短編でもいいから、何かひとつ、まず読むことです。それで読む力の「土台」の石をひとつ置いたことになる。次に、またひとつ読む。これで二つ目の石を置いたことになる。
 ―― 読む楽しさを知らないと、本当に、もったいないですね。
 池田 シェークスピアでも、当時は娯楽作品だった。今のテレビドラマみたいなものです。
 源氏物語でも、当時の人が争って回し読みしたのは、今の劇画を読むようなものだったかもしれない。だから、「古典」だからといって、変に、かしこまって、堅苦しく考える必要はない。まつりあげる必要もない。その面白さをわかる自分になれば、人生が豊かになるということです。
11  「法華経・聖書・古事記も文学」
 ―― あるメンバーからですが、「文学は『生き方』を示すものだと思いますが、音楽や美術とくらべて、どのような影響力をもっているのでしょうか」と。
 池田 文学は「読む」。美術は「見る」。音楽は「聴く」ものです。文学は書かれたものです。書くということは、思想がなくては書けない。
 思想には、さまざまな次元があり、無限大です。思想によって、人の心も動かされるし、変化する。
 「聖書」も、「法華経」も、「古事記」も文学であると、とらえる見方がある。
 文学は、人間の思想上の重大な位置を占めているのです。その影響力は、人間の生き方の深いところにまで及ぶ。だから、文学を読まず、思索をせず、ただ政治や経済や科学といった次元だけでは、人類は大変な損失を被ることになるでしょう。
 要するに、文学は「人間の生き方」「社会との関係」「戦争と平和」「努力」「愛情」「死」のように、さまざまな人間界の舞台を表現している。そのなかの一次元を照らしているのが音楽や美術かもしれない。
 また、そのすべての根元的なものを照らしているのが宗教です。文学が土台となって、芝居や劇や映画や音楽といった世界にも広がっていきます。
 ―― たしかに、トルストイの『戦争と平和』の映画や、ユゴーの『レ・ミゼラブル』のミュージカルなどがあります。それらに触れて、そこから土台にあった文学そのものに入っていく人もいるようです。
 読書が与えてくれるものは、本当にたくさんありますね。先生の若き日の日記にも、こうありました。
 「小雨。社にて『モンテ・クリスト伯』読了。読書は、智慧も、知識も、指導力も、そして御書の読み方にも、力を与えてくれる。『生涯、三十分ずつでも、読書せよ。一生の間には、大変な長時間の読書になる』といった人がいた」(一九五四年〈昭和二十九年〉二月十八日。当時二十六歳。本全集第三六巻収録)
12  文学を読むほど御書がわかる
 池田 懐かしいね。
 御書をわかるためには、文学を読むことです。文学を読むことによって、御書もわかるようになる。御書も、文学も、人間模様を表したものです。
 日蓮大聖人の御言葉には、「どう人を救うか」という深い慈愛がある。悪への激しい怒りがある。人の心のひだに分け入る温かさがある。
 ある時には、夫亡きあと、最愛の息子までも亡くした婦人に、「(息子さんが亡くなられたことは)夢か幻か、私にも、いまだにわかりません。ましてお母さまは、どれだけ嘆かれたことでしょう」と、ともに嘆かれている。
 また、亡くなった息子さんに会えるならば、お母さんは「羽がなくても天まで昇ることでしょう。船がなくても中国までも渡るでしょう。大地の底にいると聞けば、きっと地をも掘って行かれることでしょう」と、母の心を代弁して手紙を書いておられる。
 ―― こんな手紙をもらったお母さんは、どんなにか慰められたでしょうね。
 池田 御書には、ほかにも数限りない人間模様が描かれています。人生経験を積み、大文学を読めば読むほど、御書のすごさがわかってくる。また御書を読んでいれば、文学も深くわかってくる。
 ともあれ、人間の心の葛藤を表現しようとしているのが、文学なのです。だから、人間主義者として一生を生きるならば、読まなければならない。
 低俗な本や、ただ面白いだけの本は、文学とは言えない。そこには人間性の探究がないからです。専門書には、それぞれの路線があるでしょう。それらも必要だが、文学は万人が学ぶべき基幹道路のようなものです。
13  「心からの言葉」だけが「心」を動かす
 ―― 「飢えた子を前にして、文学は何ができるのか」(サルトル)という問いかけがあります。言葉だけではないか、無力ではないか、ということだと思いますが。
 池田 いちばん大切なのは、心の援助です。心の援助がまずあってこそ、お金や物の援助が生きてくる。
 そして、文学を読むことから、人を思う感情が出てくる。心からの言葉も出てくる。
 人間性の感情の中から、本当の援助が進んでいく。飢えた子どもたちにも、それを救う人たちにも、良い文学は必要です。
 仏法では「声仏事(仏の仕事)を為す」と説く。声が、言葉が、人を救っていく。深い心の表れた言葉が必要です。
 優れた言葉の表現は、文学を知る心の中から生まれる。日本の政治家の言葉は空々しい。
 ユゴーは人間愛の書『レ・ミゼラブル』の序文に記した。「地上に無知と貧困があるかぎり、本書のような書物も無益ではないだろう」(稲垣直樹訳、潮出版社)
 飢えた人を救おうという「心」をつくるのが文学ともいえる。ここから、すべてが始まる。ここから、お金や物の援助も生まれてくるのです。
14  優れた文章とは
 ―― 「優れた文章」とは、どのような文章なのでしょうか。
 池田 ある文学者と対談した時に、同じ質問をしたことがある。その文学者は一冊の本をパラパラとめくりながら、「良い文は、活字の並びがきれいに見えます。悪い文は、汚く見えます」と言っていた。
 それは別として、良い文は、おいしい食事を食べている時のように、感じよく読めるものだ。
 戸田先生は、本を読む時は、「はしがき・あとがきは必ず読め」と言われた。その文でも、ある程度の良し悪しがわかるものです。
15  文学を知れば景色の感じ方も変わる
 ―― 先生は世界桂冠詩人ですが、詩は、どのようにしてつくられるのでしょうか。
 池田 思ったことを、そのまま表現しよう、そのまま文字にしよう、と思っています。文学をたくさん読んでいると、自然と、その中の言葉が自分のものとなっていく。
 風景を見て、自然と言葉が出てくるようになる。景色の感じ方が違ってくる。木々の美しい緑を見て、動物は何も感じないかもしれない。芸術家はすばらしいと思い、庭師は健康な木々だと思うでしょう。
 たとえば、月が浜辺に照っている。
 「八百日やほかゆく浜の真砂まさごをしきかへて玉になしつる秋の夜の月」(『千載和歌集』久保田淳校注、岩波文庫)――広大な浜辺の砂を一面の宝石の原に敷き変える秋の月よ――という歌を思い出せば、浜辺はとたんに宝石の園に変わるでしょう。
 チリの女性詩人・ミストラルの
  「軽やかな雲よ、
   絹のような雲よ、
   わたしの魂を
   青空かけて運べ」(「雲に寄す」野々山ミチコ訳、『世界の詩集12 世界女流名詩集』所収、角川書店)
 という詩を読んだあとでは、風にも雲にも、切ないまでの深き思いを感じるようになるかもしれない。
 美しい詩といっても、飾った言葉が美しいのではない。本当の美しさは、心の美しさからしか出てこない。泥まみれになってでも、人間性のために戦っていく、その心から美しい言葉も生まれてくるのではないだろうか。
 そういう人間性と文学性とを融合させ、それを生活のうえで、どう表現していこうか――そこに生まれるのが詩なのです。また本当の文学なのです。
 古今の文学は、人間の「心から心へ」差しのべられた橋です。どれだけ橋を渡るかで、自分の心の中身が決まっていくのです。

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