Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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フィリピンSGI最高会議 普遍の「人間の道」が「仏道」

1993.5.9 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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7  創価学会は、仏教の原点であり、大聖人の教えである「人間の生き方」なかんずく「菩薩行」を現代に蘇生させた。ゆえに「特権的支配層」の僧侶から常に弾圧されてきた。
 しかし、「この道」にのみ、大聖人の宗教革命の魂はあり、仏道の魂はあると私たちは信ずる。
 ゆえに、私たちは仏法の正統中の正統として「よき人」と「よき人」のスクラムをいよいよ広げてまいりたい。さらに、御本尊を受持しているいないにかかわらず、「よき人」の連帯を広げゆく、かなめの存在となってまいりたい。
8  「師弟の道」を歩み通してこそ「正道」
 仏法は、人間として歩むべき「永遠の道」を教えている。だからこそ、現実の人生をともに生きる「師弟」の存在が大切になる。この「師弟」の道を見失うときに、自分では正道を歩んでいるつもりで、仏道をはずれてしまうのである。
 「どうして、仏法者にも悪人が出るのか」。このことを釈尊に質問した人がいた。日顕宗の存在など、今も同じ疑問をもつ人がいるかもしれない。
 釈尊の答えは明快であった。
 「友よ、ここに一人の人があって、あなたに都への『道』を問うたとする。あなたは『道』をくわしく教えるであろう。そして、ある者は、無事に都へ着く。また、ある者は、道をまちがえ、あらぬ方向へさまよう。それは、なぜであろうか」
 「世尊(釈尊)よ、わたしは道を教えるだけで、それをどうすることができようか」
 「友よ、その通りである。無上の境地への『道』はある。まちがいなく、ある。私はその『道』を教える。しかし、弟子のなかには、その『道』を正しく歩む者もあれば、『道』からはずれる者もいる。それを、わたしがどうすることができよう。わたしは、ただ道を教える者なのである」
 「教える人」(師)に従わなければ「道」を迷ってしまう。それは、根本的には「教えられる人」(弟子)の責任なのである。日蓮大聖人も撰時抄で仰せである。
 「人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや」──ある人が道を作る。その道に迷う者がいる。それは道を作った人の罪となるであろうか(いな、それは迷う者の罪である)と──。大切なのは「幸福」という目的地に到達することである。園林に包まれた「幸福の都」に着くことである。そのためには、師が教えた通りに「道」を歩み通すことである。
 日顕宗は、大聖人が教えられた「道」を完全にはずれて自滅したのである。
9  「万巻の書」にまさる「大家に基づく知恵」
 最後に、「知恵」と「知識」の違いについて、一つのエピソードを紹介しておきたい。
 アメリカの賢者エマーソンはある時、息子とともに、仔牛こうし納屋なやに入れようとしていた。
 息子が牛の耳をひっぱり、エマーソンが牛の尻を押した。しかし牛は動かない。二人は顔をまっ赤にして、汗を流したが、だめだった。
 そこへ、家で働いている少女がやってきた。少女は、二人を見て笑い、自分の指を仔牛になめさせながら、簡単に納屋に入れてしまった。
 「万巻ばんかんの書」を読んだエマーソンも、牛を動かすについては、体験に基づく少女の「知恵」には、かなわなかったのである。
 ″力ずく″では牛は動かなかった。″自己流″では牛は動かなかった。いわんや、牛を動かす以上に、人生の重い現実を動かし、真の幸福者となることは難しい。深い「知恵」が必要となる。その「知恵」を教えたのが仏法である。また自分自身の「知恵」を限りなく開くカギを教えたのが仏法である。
 ゆえに皆さまは、だれよりも「賢明に」生きていただきたい。「聡明に」勝利していただきたい。そうした「人生の道」の達人となられて、いよいよ幸せに、いよいよ健康に、豊かになられますことを念願し、記念のスピーチとしたい。

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