Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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「3・16」50周年記念協議会
2008.3.7 スピーチ(聖教新聞2008年下)
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6
先日、わが第2総東京の同志から「東村山勝利太鼓」が届けられた。勇壮な音が轟きわたった。
法華経には、「魔の
兵衆
ひょうしゅ
を破して
法鼓
ほっく
を撃つ」(序品)、「諸の魔軍を破すべし。当に法5の
螺
ほら
を吹き、大法の鼓を撃って、一切衆生を老病死の海より度脱すべし」(薬王品)等と説かれている。
第2総東京は常に、広布の前進を阻む魔の蠢動を破り、正義の勝利を打ち立てるため、私とともに反転攻勢に立ち上がってくれた。
17年前、嫉妬に狂った邪宗門に対し、村山の有志が正義の師子吼をあげたことも、永遠に刻まれるべき歴史である。そして今再び、ここ第2総東京から、創価の正義の新しい勝利の大音声が響きわたったのである。
7
皆で声を出せ!
「声仏事を為す」である。私たちの「声」が、魔軍を打ち破っていくのである。
罪なき仏子を苦しめる人間。正しい人を陥れる嫉妬と謀略の人間。学会を食い物にしようと狙っている私利私欲の人間。
こうした悪い人間が出たならば、放置してはいけない。早く糾すことだ。
声が「仏」の仕事をする。真実をありのままに叫ばなければならない。
悪に対して何も言わない。破折しない。それでは、魔をかばうことになる。己心の魔に負けているのだ。
一人一人が臆病になってはいけない。難を避け、自分だけいい子になり、うまく立ち回る。そんなずるい人間になってはならない。
皆で一緒に「声」を出せばいい。
団結するのだ。そして、どんどん口に出すことだ。具体的に言うほど、魔は倒せる。
いざというときに勇気が出せない男性ではいけない。強くならなければいけない。
強いのは婦人部である。賢明なる婦人部の皆さんが、一致団結して、叫びに叫び、創価の幸福の城を、断じて守り抜いていただい。
勇気をもって真実を叫ぶ人間。そうした新しい人間を、青年部からつくっていかなければいけない。本当の「正義の革命」「人材の革命」をしていきたい。
8
障魔と戦う師を護れ!
思えば、この東村山をはじめ第2総東京は、蓮祖大聖人が、寒風吹き荒ぶ中、鎌倉街道を歩まれて、佐渡に向かわれた天地でもある。
大聖人は、生きては帰れぬと言われていた、あまりにも過酷な佐渡流罪を、2年5カ月にわたって勝ち越えられた。
そして、春の第2総東京の天地を凱旋され、広宣流布の大法戦のため、再び鎌倉へ打ち入られたのである。
御聖訓には、厳然と仰せである。
「大難がなければ法華経の行者ではない」(同1448㌻、通解)
「この法門を説くと、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらなかったならば、その法が正法であるとはいえない」(同1087㌻、通解)
広宣流布に戦い抜けば、必ず、大難にあい、大きな障魔が競い起こる。
さらに大聖人は仰せである。
「法華経の行者がいれば、必ず三類の強敵がある。三類の強敵は、すでにいる。法華経の行者は一体、だれであろうか。探し求めて師とすべきである。あたかも一眼の亀が浮木にあうようなものである」(同230㌻、通解)
広宣流布のゆえに、大難を受けている人、三障四魔と戦い、三類の強敵と戦っている人――その人をこそ、師匠と仰ぎ、護り、支えていくべきである。
法華経の定理は、まことに明快である。
改めて申し上げるまでもなく、日蓮大聖人の御生涯は、「
少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり
」であられた。
「大事の難・四度なり」――松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そして竜の口の法難・佐渡流罪と、命に及ぶ法難が打ち続いた。
「少少の難は・かずしらず」――ありとあらゆる三類の強敵、三障四魔の嵐が、絶え間なく競い起こった。
「
山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし
」と、「開目抄」に仰せの通りである。
9
御聖訓には、こうも記されている。
「32歳の(立宗の)時から今年54歳になるまでの20余年の間、ある時は寺を追い出され、ある時は住処を追い出され、ある時は親類を苦しめられ、ある時は夜討ちにあい、ある時は合戦にあい、あるいは悪口を数知れず言われ、ある時は打たれ、ある時は傷を負い、ある時は弟子を殺され、ある時は首を切られようとし、あるいは2度も流罪に処せられた。この20余年の間は、一時片時も心安らかなことはなかったのである」(同1514㌻、通解)
大聖人を傷つけんとする、卑劣な「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の難は、あとを絶たなかった。
“日蓮は邪見の者である”との悪名が、世間に流布した。まるで“日本一の悪人”のように言い立てられた。
御書には、こうも記されている。
「日蓮は、ただ法華経を弘めようとすることを失とされて、妻子を持たずして『犯僧』の名が国中に満ち、ケラやアリさえも殺さないのに、悪名が天下にはびこっている」(同936㌻、通解)と。正義の大聖人を貶める、あまりにも非道な中傷であった。
10
讒言ゆえの流罪
女人成仏を宣言した法華経の行者として、「女性の幸福」のために戦われた大聖人は、女性にとって最大の恩人のはずである。
しかし、悪坊主どもが大聖人への誹謗を繰り返すや、権力者の女房たちは、愚かにも大聖人に対する迫害に加担していった。
彼女たちは、次のように騒ぎ立てた。
「天下第一の大事である。日蓮は、日本国を滅ぼそうと呪詛する法師である。故・最明寺殿(北条時頼)、極楽寺殿(北条重時)を無間地獄に堕ちたと言っている法師である。何も取り調べるまでもない。ただ即刻、首を切るべきである。弟子たちも首を切り、あるいは遠島流罪にし、あるいは牢に入れよ」(同1312㌻、通解)
さらにまた御聖訓には、こうも記されている。
「一切の女人を救おうとしている日蓮を、かえって大怨敵と思われるゆえに、女性たちが、こぞって国主に讒言をして、伊豆の国に流罪したうえ、また佐渡の国にも流罪したのである」(同1312㌻、通解)
11
御書には仰せである。
「もし『恩』を知り、心ある人々であるならば、(大聖人が)2回、杖で打たれるならば、そのうち1回は代わって受けるべきではないだろうか。それもしないどころか、反対に、(大恩ある大聖人に)怨あだをなそうなどとされるのは、まったく、どうしたわけであろうか」(同1450㌻、通解)
また、こうも仰せである。
「日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのような大難(佐渡流罪)にあうと、疑いを起こして法撃経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分のほうが賢いと思っている。このような歪んだ心の者たちが、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちたままになることは、不憫としか言いようがない」(同960㌻、通解)
こともあろうに、師とともに難を受け、自らが盾となって師をお護りすべき弟子たちの中からからも、大聖人を誹謗する輩が出たのである。
いざという時に師匠を裏切り、師匠より自分のほうが偉いと思い上がる。とんでもないことである。
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「君がいたから」
思えば、戸田先生が事業の破綻で窮地に陥った時に、それまで先生にお世話になっていた多くの人間が「戸田の馬鹿野郎!」などと罵って、先生のもとを去っていった。
その中で、最後まで先生のもとに残って、師匠を護り抜いたのが私であった。給料は何カ月も遅配。私は通っていた夜学を断念して、先生のために奔走した。朝から晩まで365日、師匠のために戦った。
師匠を支え、護りに護った。先生のためにすべてを捧げた。
やがて、先生は絶体絶命の状況を乗り越えられた。そして第二代の会長に就任されたのである。
「大作がいてくれたからだ」――先生はこう言って、私に深く感謝してくださった。何よりも美しい帥弟の姿であった。
戸田先生もまた、師匠である牧口先生に、徹して仕え抜かれた。戦時中の弾圧の際も、最後まで師匠にお供された。
“牧口先生の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださった”――そう言って、感謝さえしておられた。
これが創価の師弟だ。
師匠にどれだけ仕えたか。師匠のために、どれだけ戦ったか。重要なのは、この一点だ。
「師弟」を忘れて仏法はないのである。
師匠が貶められても、何の反論もできない。師匠が苦しんでいるのに、何もできない。そんな情けない、不知恩の弟子であってはならない。
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難が起こる構図
正法を流布するゆえに難が競い起こる構図について、大聖人は、こう喝破されている。
「第六天の魔王が、私の身に入ろうとしても、かねての用心が深いので身に寄せつけない。ゆえに、天魔は力及ばずに、王や臣下をはじめとして良観などの愚かな法師たちに取りついて、日蓮を怨むのである」(同1340㌻、通解)と。
難を受けるのは、真実の法華経の行者である証明なのだ。
この大聖人の大闘争がなければ、法華経の予言は一切、虚妄となってしまうところであった。
「もし日蓮が末法に出現しなかったならば仏は大妄語の人となり、(この仏の言葉を真実であると証明した)多宝如来や十方の諸仏は、大虚妄の証明をしたことになってしまうであろう。仏滅後二千二百三十余年の間に、一閻浮提の中で、仏の御金言を助けた人は、ただ日蓮一人なのである」(同1190㌻、通解)と仰せの通りである。
大聖人は、襲い来る大難と敢然と戦い抜かれ、勝ち越えられ、末法万年の民衆を救いゆく大法を厳然と留め残してくださったのである。
14
愚人にほめられるのは第一の恥
大聖人は、こうも仰せである。
「日蓮が末法の初めの五百年に生を日本に受け、如来の予言のとおり、三類の強敵による迫害を受け、種々の災難にあって身命を惜しまずに南無妙法蓮華経と唱えているのは、正師であるか邪師であるか、よくよくお考えいただきたい」(同1341㌻、通解)
この大聖人に直結し、現代において、三類の強敵と戦い抜いて、広宣流布を成し遂げてきたのは、だれか。
初代・牧口先生であり、二代・戸田先生であられる。三代の私である。
この三代の師弟がなければ、学会の発展はなかった。大聖人の仰せ通りの世界広布の実現は、なかったのである。
ともあれ、「開目抄」にはこう記されている。
「教主釈尊は、一切の外道から大悪人である」と、ののしられた。
天台大師は、南三北七の十派から怨嫉され、日本の法相宗の僧・得一からも、『三寸に足らない舌をもって(仏説を誹謗し)五尺の仏身を断つものである』と中傷された。
また伝教大師も、奈良の諸宗の人々から『最澄は、いまだ唐の都を見ていない(だから大したことはない)』と悪口を言われた。
これらは皆、法華経のゆえであるから、恥ではない。(それよりも)愚人にほめられることこそ第一の恥である」(同237㌻、通解)
これは、牧口先生、戸田先生がよく拝された御金言である。
この御精神の通りに、学会は戦い抜いてきた。ゆえに勝ったのである。これからも永遠に戦い続ける。そして、永遠に勝ち栄えていく。
これが、創価の三代の魂である。
わが第2総東京こそ、この「師弟の魂」が輝く、偉大なる勝利の電源地であると申し上げたい。
15
難に勝って仏に
戸田先生は言われた。
「日蓮大聖人の御精神の根本は広宣流布である。その御精神を受け継ぎ、仰せのままに広宣流布をしてきた教団は、学会以外にない。
その証拠には、誰が大難を受けたか。戦時中のことを考えてみよ。学会は大弾圧を受け、牧口先生は獄死されているではないか。
皆、口ではうまいことを言う。また、立派そうなことを言う。しかし、不惜身命の精神で妙法広布に殉じようとはしない。難を受けなかったということは、本気になって広宣流布をしなかったからである。いや、できなかったのだ」
自ら大難を受け、広布のため命がけで戦い抜かれたのが、戸田先生である。三代の創価の師弟である。
偉大だからこそ迫害される。作家・魯迅は、「中国でも、漢晋(中国古代の王朝の名)以来、いやしくも文名のある者は、大抵みな、人の誹謗を受けている」(松枝茂夫訳『魯迅選集第5巻』岩波書店)と言った。
また戸田先生は、こうも叫ばれた。
「大聖人の大難に立ち向かわれる師子王の如き精神、その志を継承する者こそ、創価学会である」
「野良犬が吠えるような、いかなる罵倒や非難があっても、決して動ずるな! そんな、つまらぬことに、決して紛動されるな! 英雄の道を歩むのだ。偉人の道を歩むのだ。私たちの信奉する大聖人の難から見れば、すべて九牛の一毛(取るに足りない事)に過ぎないのだ」
「大聖人をいじめ抜いた、極悪の仏敵である平左衛門尉に対して、御書には“彼は、自分にとって善知識だ”と仰せになっておられる。
敵など、断じて恐れるな! 全部、自分自身を完成させ、仏にしてくれる、闇の烈風に過ぎない」
この先生の師子吼を、わが門下に贈りたい。
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勇敢な心で
今や、創価の師弟の真実を知る、わが直系の青年部が、いよいよ躍り出る時代が到来した。なかんずく第2総東京青年部、特に女子部が、見事なる模範の前進をしてくれている。
健気な後継の女子部の皆さんに、「若草物語」で有名なアメリカの女性作家オルコットの言葉を贈りたい。
「勇敢な心となんでもしようという手とたくさんの仕事をもっていれば、この世はどんなにたのしいところになるかみてごらんなさい」(吉田勝江訳『第四若草物語』角川書店)
環境ではない。自分で決まる。女子部よ、勇敢であれ!
17
若者こそ希望
50年前の3月の朝、戸田先生は、私を枕元に呼び、メキシコへ行った夢を見たと語られた。
そして、「君の本当の舞台は世界だよ」「世界に征くんだ」と、人類の幸福と平和を実現しゆく使命を、私に託されたのである。
今や、このメキシコでも、わが創価の友が颯爽と活躍されている。
20世紀メキシコの大詩人レイエスは、教育革命運動に身を投じて、大学教育の刷新にも奔走した最高峰の思想家である。
このレイエスは叫んだ。
「40歳を過ぎて教養があるとされる人が、20代の青年に対して、愛情や親心としての心配の気持ちを抱けないなら、その人は、教養の人でもなく、人間でもなく、最も嘆かわしい道徳心を切除された存在である。どの若者にも、希望は見出されるのだ」
深く青年を愛し、自分以上に立派に育てる。ここに真の教養人たる証しがある。
さらに、この詩人レイムエスとともに教育の改革に戦い、教育大臣も務めた、メキシコの大思想家バスコンセロスは指摘した。
「たとえ、一人であったとしても、真に偉大な人間であれば、その力と努力で民衆を救済していけるのです」
大事なことは、一人立つことである。そして、具体的に、一つずつ手を打ち続けていくことだ。
策ではなく、誠実な手を打っていくことだ。
リーダーでありながら、具体的な行動がないのは、卑怯である。仏法は観念ではない。
この点、バスコンセロスは、こう述べている。
「最も愚かな『楽観主義』は、一粒の種を土に埋めることもせずに――即ち、発芽し、実りをもたらす種を蒔くこともせずに――時に身を委ねることです」
“何とかなるだろう”という無責任は、「愚かな楽観主義」である。敗北の道である。
また、この思想家は、こうも語っている。
「人間のいかなる建造物も、常に新しく保ち持続させるためには、粘り強い努力が必要である。ゆえに、何もしないことは破壊への第一歩であるといえる」
創るのも人、壊すのも人である。たゆまぬ努力を怠ってはならない。
バスコンセロスは断じた。
「いかなる派閥主義にも『正統性』はありません」。
「善の勢力は、悪を屈服させ、根絶させるときのみ、己の使命を果たすことができる」
正義は強くあらねばならない。いかなる悪にも撹乱させてはならなない。これは、牧口先生が厳命されたことでもある。
勇気と団結の力で、常に先手、先手を打って、新しい発展の活路を開いてまいりたい。
18
悪事を見逃すな
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の民政局員として、「日本国憲法」の草案の作成に携わり、「男女平等」条項の誕生に貢献したベアテ・シロタ・ゴードンさんは、アメリカのニューヨーク文化会館に来訪されるなど、SGI(創価学会インタナショナル)とも交流されている。
ゴードンさんの言葉に、こうある。
「『どこかおかしい、変だ』と思ったら、面倒くさがらずに自分の気持ちを声に出して表明しなくてはだめです。発言する勇気が必要なのです」(『ベアテと語る「女性の幸福」と憲法』晶文社)
その通りだ。とくに、女性が勇気をもって発言することが大事である。
仏法を破壊する魔性の働きは、外部よりも、内部のほうが強い。心して警戒していくのだ。
師弟の道を乱す傲慢な輩に、麗しい創価の団結を壊されるようなことがあってはならない。
私は、どんな細かなことも見逃さない。19歳で戸田先生と出会って以来、苦労に苦労を重ねてきた私には、人間の心の奥がわかる。苦労しなければ、大事なことは何もわからない。
未来のために強く言っておきたい。正邪を鋭く見抜き、悪を打ち破っていくのだ。私は敵と戦った人間しか信じない。
女性の役割は重要である。松葉ケ谷の法難の際にも、いち早く危険を知らせて大聖人をお護りした女性の門下がいたのではないかとも推察される。
御書には、「十羅刹女の御計らいであろうか、日蓮はその難を脱れたのである」(御書1294㌻、通解)と仰せである。
戸田先生が、婦人部・女子部を大事にされた心情が私にはよくわかる。
私もまた、師弟の正義を護りゆく女性の存在に期待している。
19
恩を忘れるな
古代ローマの哲人セネカは言った。
「おお、驕慢よ、偉大な運命から生じた最も愚かな災いよ」「おまえは、思い上がれば思い上がるほど、いっそう人々に蔑まれる」(小川正廣訳「恩恵について」、『セネカ哲学全集2』所収、岩波書店)
傲慢は、わが身を滅ぼす災いである。
日本の新渡戸稲造博士は「恩」を知る大切さを述べている。
「逆境時代には其受けた恩を忘れぬものであるが、順境に達し多少得意になると、以前の苦しかった記憶が段々薄らぎ、受けた恩も兎角忘れ勝ちになる」(「修養」、『新渡戸稲造全集第7巻』所収、教文館)
「偉大なる心は常に感恩の情に満つ」(「随想録」、『新渡戸稲造全集第5巻』所収、同)
感謝の人は成長できる。恩を忘れた時から、人間の堕落が始まる。恩を知ることが人間の道だ。
「人間性を失った宗教は、人間がつくった最もおそまつなものである」――奴隷制度の廃止のために戦った、勇敢な米国の女性ソジャーナの言葉である。
20
第2総東京の堂々たる前進は、美しき虹のごとく、世界が見つめる「正義」と「文化」と「充実」の天地の上に輝きわたっている。
婦人部・女子部一体の前進においても、そして未来部の育成においても、全世界の模範と光っている。
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太陽と共に!
世の中は変化の連続だ。曇りの日もあれば、雨の日もある。しかし、雲の向こうには、いつも太陽が輝いている。
朝、朗々たる勤行・唱題で、わが胸中に太陽を昇らせれば、きょう一日を勝っていける。
日蓮大聖人の「日」には、太陽の意味がある。
太陽の光は、全人類に、平等に、燦然と降り注いでいる。地位や肩書など関係ない。
太陽とともに生きる皆様が、不幸になるはずがない。絶対に幸せになれる。朝の太陽のごとく、強く、堂々と、すべてに勝利していけるのだ。
創価の太陽として、世紀を照らしゆく皆さま方が、ますますご健康で、ご長寿で、晴れ晴れと、創価の希望の声、前進の声、そして勝利の声を響かせていかれることを祈りたい。
戸田先生は言われた。
「“強気の存在”となれ! そうでなくては、人はついてこない」
最後に、青年部に御聖訓を贈りたい。
「
師弟相違せばなに事も成べからず
」
きょうはありがとう! お元気で!
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