Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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永遠の生命に関する御聖訓について
1954.6.1 「会長講演集」第4巻
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三、過去世より現世
さきに、生命は無始無終であることを述べた。次に、現世(現在)の自己を中心として、久遠より連続せる生命に関する御聖訓を拝するに、当体義抄にいわく『
問う一切衆生の当体即妙法の全体ならば地獄乃至九界の業因業果も皆是れ妙法の体なるや、答う法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る
』云云。
この御文の、染浄の浄とは、久遠元初の生命の本体であるし、また、わが身の本質の生命(仏)ともいえよう。染とは、過去世より、何千、何万と国土に生をうけ、謗法悪業を積みし不幸のもとである。すなわち生命は永遠であり、過去世の業因が、現世の業果なる証拠である。
佐渡御書にいわく『
山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり
』
この地球上に事実、生を受け、賢愚の差、美人、不美人、貧富、病身と健康人、そして、千差万差の性格の相違、また一歩思惟するに、動物界(有情)植物界(非情)等の相違は、必ずや過去世よりの因果により決定されたものである。三世の生命観よりみざれば、納得できえぬ現象である。
一生成仏抄にいわく『
夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし
』
『無始の生死』とは、永遠の生命である。『無上菩提』とは、浄にかえることであり、久遠の生命を感得することである。すなわち、大宇宙とともにあるこの身が、大宇宙のリズムに合致しゆくことである。生死とは苦しみのことであり、染浄の染であり、過去世よりの宿業である。所詮、生命は永遠であるがゆえに、過去遠遠劫の罪障を消滅し、未来永劫に我意のままにふるまいゆくことを欲せんと、信・行・学に励んでいるのである。
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四、現世より未来世
次に、現世の自己を中心に、死後の生命、すなわち未来世へ流転しゆく生命への御聖訓を拝する。われらが死する時、自殺、あるいは惨殺、病死、焼死、その正反対に成仏等というように、死の原因が違えば、必ずその結果たる生命のあり方が違うわけである。そして来世への状態が決定するのである。因果は科学の法則であり、仏法は生命の三世にわたる因果を明かしたものである。
死とは、仏法では『方便現涅槃』と説いている。一日の疲れをば必ず寝て心身を爽快にするごとく、生命は、すでに成(出生)、住(生存)、壊(死)、空(死後)と繰り繰り返されるのである。その空(死後)の状態が、現世に見る夢の状態に共通して考えられよう。非常に苦悩しておれば地獄の夢を見ようし、喜びに満ち満ちているときは天上界の夢を見るごとく寝ては起き、起きては寝ていく現世の活動が、今世の宿業となって、来世に連続していくのである。
三世諸仏総勘文教相廃立にいわく『
能く能く秘蔵して深く此の理を証し三世の諸仏の御本意に相い叶い二聖・二天・十羅刹の擁護を蒙むり滞り無く上上品の寂光の往生を遂げ須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて身を十方法界の国土に遍じ心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞り有る可からず
』
右の御文は成仏した死生観である。大御本尊様を受持し、信・行・学に励みしわれらの死後の生命活動の状態を述べられたものである。死んで霊魂のごとく飛んでいるのでもなく、無に帰するのでもなく、須臾の間に事実は九界生活にはいるわけである。
しかるに成仏の生命なるがゆえに、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合のおことばのごとく、大宇宙のリズムに融合しきった生命であり、いつでも宇宙に遊戯していく境涯となっているのである。すなわち、娑婆世界に帰りきたっても、自由自在にして、無量の福徳をもち、現世安穏の生活となる事実が覚知できるのである。
次に反対に、今世において、信心弱きわれわれに対しては、
聖人御難事にいわく『
ひだるし
空腹
とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八
かん
寒
地獄ををしへよ、をそろししと・いわば
たか
鷹
にあへる
きじ
雉
ねこ
猫
にあえる
ねずみ
鼠
を他人とをもう事なかれ
』云云。また、種種御振舞御書にいわく『
此の娑婆世界にして・
きじ
雉
となりし時は・
たか
鷹
につかまれ・
ねずみ
鼠
となりし時は・ねこにくらわれき、或は
めこ
妻子
の
かたき
敵
に身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし
』云云。
じつにきびしき、未来世への実情を示された御書である。信心なき人生は、今世によって、来世は、いかなる生命に変化しゆくかは知らぬのである。信心しているわれわれでも、信心憶病にして退転すれば、三千羅列としてきびしき身は『
たか
鷹
にあへる
きじ
雉
ねこ
猫
にあえる
ねずみ
鼠
を他人とをもう事なかれ
』の御文とおりに、弱く、ずるい今世の信心の状態が、来世には、一段ときびしく、雉と生まれては鷹に怖えぬき、ねずみと生まれては、猫に追われ苦しむ状態を、繰り返されていくのである。
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五、結論
草木成仏口決に『
理の顕本は死を表す妙法と顕る・事の顕本は生を表す蓮華と顕る、理の顕本は死にて有情をつかさどる・事の顕本は生にして非情をつかさどる
』と。
いま、ひとりの人が焼死した。その生命は地獄界に宿り、現実に火の中に実在している。その証拠が黒き死体である。寒き世界で凍死した人は、極寒地獄にはいり、その生命は雪の中、氷の中に実在しているのである。生命が永遠であるということが、だれびとが否定しようが、事実はきびしく流転されていっているのである。
生命は永遠である。その永遠の生命を覚知することを成仏といい、それが、信心の目的なのである。その境地より打ち立てられた国土を、仏国土という。これ真の平和なる世界である。いま、自己の眼前に映ずる世界(生命現象)は、永遠に続く生命の瞬間の状態である。瞬間のなかに永劫は含まれ、瞬間の連続が永遠である。その瞬間の源泉が南無妙法蓮華経であり、寂静とした御本尊様として開かれたのである。
生死一大事血脈抄に『
過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり
』と。
ただただ、弘安二年十月十二日の大御本尊様に題目を唱えきっていくことのみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである。(当時、参謀室長)
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