Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世界を照らせ 千葉の旭日  

2004.6.20 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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4  「さいわいを万里の外よりあつむべし
 学会は、世界からの宝の友人も、常に千客万来である。
 はるばると来日された賓客を、成田国際空港で、私に代わって最初に迎えてくださるのは、千葉の「凱旋グループ」の方々である。
 また羽田空港でも大田区の有志が、さらに関西国際空港、伊丹空港、新大阪駅でも、常勝関西の友が、真心込めて送迎に当たってくださっている。
 私自身が、成田空港に最初にお世話になったのは、開港の年(昭和五十三年)の秋九月、「第四次訪中」から帰国した時のことであった。
 この訪中では懐かしき?穎超先生ともお会いし、亡くなられた周恩来総理を偲んだ。
 思い返せば、一九七四年、私が初めて中国を訪問した同時期に、周総理は重病のために入院された(六月一日)。
 本来、一日も早く治療に専念すべき病状であったが、輸血を繰り返しながら、ギリギリまで懸命に国家の舵取りをされていたのである。
 主治医の証言によると、その命を賭した戦いの日々にあって、周総理は中国の詩歌のテープをよく聴いておられたという。(張佐良『周恩来・最後の十年』早坂義征訳、日本経済新聞社。参照)
 その一つは、十二世紀の民族英雄・岳飛が、外敵の侵略を撃破せんとの壮志を詠った名詩「満江紅」であった。
 「怒髪 冠を衝き、欄にりたる処、瀟々しょうしょうたる雨みぬ。
 望眼をもたげ、天を仰ぎて長嘯ちょうしょうするに、壮懐激烈たり」(馬嶋春樹「中国名詞選」、『新訳漢文大系』84所収、明治書院。参照)
 ――怒りのあまり、髪は逆立って冠を衝き、欄干にもたれていると、ざあざあと降りしきっていた雨が上がった。
 頭をもたげて遠くを眺め、天を仰ぎつつ、声を長くしてうそぶいてみるに、壮絶なる胸の内は更に激烈さを増すばかりである――と。
 周総理がこの詩を聴かれていた当時、″悪の四人組″は総理を倒して、人民をほしいままに支配せんと横暴を極めていた。
 ″今、自分が倒れたら、大中国の未来はどうなるか! 人民の命運はどうなるか!″
 二十世紀の諸葛孔明たる周総理は、まさに「怒髪 冠を衝く」が如き大闘争心を、燃え上がらせておられたのだ。
 その総理の心を心として、戦い抜かれた夫人の鄧穎超先生は、述懐されていた。
 「私どもは、四人組に徹底的に非難され、幾たびか殺されかかったこともあります。
 彼らは、人民のことなど考えず、自分たちの手中に権力を略奪したのです。彼らは二面性の人間なのです。しかし、今は勝ちました!」
 私には、この叫びが、いじらしき千葉の婦人部の勝利宣言と重なって響いてくる。
5  千葉は、大聖人との因縁深きゆえであろうか、「猶多怨嫉、況滅度後」(法華経三六三ページ)の迫害も激しかった。千葉の幾つもの寺が悪党どもの巣窟となり、健気な学会員をいじめ抜き、苦しめ抜いてきた。
 御本仏への何たる違背か!
 何たる罪深き反逆か!
 考えてもみよ。「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と言われた受難を、大聖人が堪え忍ばれたのは、いったい、なぜなのか。
 それは全部、末法万年、さらに尽未来際の一切衆生に、永遠の「勝利の大道」を開き、断固として教えようと決意されたからである。
 卑しき私利、そして私欲をむさぼる、腐り切った坊主どもや権力者を呵責して、ひたすら「民衆の幸福のための社会」を築きゆかれるためであられた。
 その「宗教革命」の電源地たる千葉で、冷酷、無慈悲の坊主どもが、広宣流布を実現しゆく真正の「地涌の菩薩」に、狂いに狂った魔物の如く襲いかかってきたのだ。
 計り知れぬ、莫大な供養を受けてきた大恩をも踏みにじった。
 無残極まる、哀れな、あまりにも哀れな宗門であった。現在の狂乱の邪宗門・日顕宗も、まったく同じである。
 「悪い坊主を戒めなければ、どうして善事を成し遂げることができようか」(同二一ページ、通解)とは、「立正安国論」の魂である。
 私たちは憤激しながら、正義のために怒り、立ち上がった。共々に、千葉の同志も、正義の祈りを続けながら、走り出した。
 私は、あの一九七九年(昭和五十四年)の二月、三月と、連続して千葉文化会館を訪問し、正義の勝利へ、厳然と指揮を執ったことは、終生、忘れることができないだろう。
 邪宗門の輩の攻撃はひどかった。しかし、千葉の正義の友は、毅然として戦い抜いた。
 いやまして仏勅の広宣流布に進みゆく学会が、負けるわけがない。断じて勝つのだ。
 その精神が、いまでも千葉には光りに光っている。
 昨年(二〇〇三年)も、この千葉の広布の軍勢には、日本中が感嘆した。模範の大勝利を、堂々と飾ってくれたからだ。
 学会は強い。学会は正しい。
 嵐にも厳と勝ちたり!
 千葉の勇敢なる同志は、私の誇りであり、誉れである。
6  大空へ飛翔するが如く、大海原を快進するが如く、千葉は勢いよく拡大している。
 その人口も、六百万人を超えた。その面積は、東京と神奈川を合わせたよりも広い。
 あの終戦の翌月、私が買い出しに行って、農家の婦人から親切にサツマイモを分けていただいたのは、忘れもしない千葉の幕張である。
 一九六〇年(昭和三十五年)、第三代会長に就任して以来、私の祈りの一つは「豊作であること」であった。
 嬉しいことに、千葉県は、一九六二年(昭和三十七年)以降、野菜の生産高、連続日本一と伺っている。ネギや里芋、また梨などの果実も豊かに育つ。
 山武創価県の九十九里や横芝・蓮沼をはじめ、農漁村地域での、わが同志の尊い汗も一段と輝いている。
 県内の埋蔵文化財(遺跡)の数も日本有数であり、市原市の古墳では、国内で刻まれた文字として最古とされる、銘文入り鉄剣も発見された。
 そうした数々の遺跡は、いにしえより千葉の先人が、各地に交流を広げてきたことを如実に物語る。
 千葉には、多くの著名人が、歴史的に光っている。
 江戸時代の後期、日本初の実測地図を作成した伊能忠敬は、九十九里に誕生した。
 「女子教育の母」として名高い津田梅子は、佐倉藩士の家に生まれた。
 私が青春時代、愛読した作家の国木田独歩は、銚子の出身である。
 短歌の「アララギ派」を代表する歌人の伊藤左千夫は、成東町で育った。
 また、足尾鉱毒事件で正義のペンを振るった女性の新聞記者である松本英子は、木更津が故郷である。
 文化の香り高き千葉よ!
 若き牧口先生は、大著『人生地理学』の中で、「文明の起点としての半島」の例として、房総半島をあげられた。
 その牧口先生は、昭和十八年の六月――軍部政府の弾圧で逮捕される前月に、千葉の鎌ケ谷を訪問された。七十歳を超えてなお、迫害の嵐に立ち向かい、正義を掲げて戦い抜かれたのである。
 ともあれ、千葉は大きい。活力がある。多様である。そして豊かだ。
 山も海も、川も湖もある。田園も、漁村も、そして進展しゆく大都市もある。
 今、東京や埼玉と一体となって大首都圏を牽引してくれるのも、心美しき千葉の友だ。
 青き太平洋を見わたす館山には、我らの千葉研修道場が建設された。この季節には、気品ある花菖蒲に包まれる。
 そして東京湾に臨む岩井の青少年研修センターからは、彼方に壮麗な富士も見える。さらに昨年(二〇〇三年)は、新たな宝城である木更津文化会館、佐倉文化会館も完成した。
 私は、千葉が大好きだ。
7  現在に至って、千葉県は、妙法流布の八総県の陣列が構築され、大発展している。
 私が幾度となく広宣の指揮をとった千葉市は、中央、若葉、緑、花見川、稲毛、美浜の各区が一致団結し、拡大、また拡大の先駆を切っている。本当に喜ばしいことだ。
 和楽の市原では、幾度か思い出の集いを行った。千葉の心臓部たる松戸、柏、そして野田にも走った。
 あの成田では、忘れ難い青年平和文化祭を開催した。さらに佐倉にも、佐原にも、私は駆けつけ、歴史を残した。
 とともに思い起こすのは、水滸会の研修を銚子の犬吠埼で、華陽会の研修を富津で行ったことである。
 また、若き未来の指導者と共に、海を見つめながら、将来の千葉広布を語り、創価学園や創価大学の創立を展望したことも、懐かしい思い出だ。
 さらに八日市場や、保田を訪問したことも、心に残る記念の歴史だ。
 江戸川を渡り、伸びゆく船橋や習志野・八千代方面にも、浦安、市川にも、度々、足を運んだ。
 そして三十年前(一九七四年)には、日蓮大聖人のゆかり深き天津小湊や勝浦、大原にも、一生涯、忘れ得ぬ誉れある歴史を刻んだ。
 各地の同志が、皆、今でも、試練に耐え、魂を光らせながら、広布の地域の建設に、真剣に汗を流している姿を伺い、「崇高な皆様に御多幸あれ!」と祈る日々である。
 今年(二〇〇四年)も、外房県の同志から、茂原文化会館の池の「大賀ハス」が美しく花開いたとの便りを、写真と共にいただいた。私は本当に嬉しかった。心躍る思いで、妻と共に見つめた。
 二〇〇一年の九月、立派に成長した千葉青年部が、東京牧口記念会館に結集し、拡大の勝鬨をあげた英姿も、私の生命に焼きついて離れない。
 八街から先駆的に始まった「敢闘会」を中心に、千葉の壮年部も、雄々しく戦っておられる。「人生の詩」を歌い、「勝利の歌」を謳いながら!
8  御書には綴られている。
 「今、日蓮が心に願うことは、生まれた土地のことである。日本国よりも大切に思っている」(御書九〇一ページ、通解)と。
 六十一年にわたる御生涯のうち、最も長い期間を過ごされたのも、千葉であった。
 大聖人は、千葉の門下に、こう仰せである。
 「このような者(大聖人)の弟子檀那となる人びとは宿縁が深いと思い切って、日蓮と同じく法華経を弘めるべきである」(同九〇三ページ、通解)
 宿縁が深いのだ。
 ゆえに、大事なのは、その宿縁を生命の底から、いかに自覚するかだ。いかに誇り高く自覚するかである。
 誉れある無上の善縁をもちながら、臆病や怨嫉で、最高の宝を断じて壊してはならない。
 人は、血縁、地縁、職場や学校の縁、友情の縁など、気づかぬうちに、実に多くの縁のなかで生きていくのだ。
 御聖訓には「仏種は縁に従つて起る」と仰せである。
 その仏の種を開発しゆく最高の善縁こそ、師弟の縁に他ならない。
 だから法華経は、師弟を最重視するのである。
 創価の師弟の大力を知れ!
 その偉力を示しきれ!
 中国の文豪・郭沫若かくまつじゃく先生は、十年間、千葉の市川市に住んでおられた。
 私が名誉教授を拝受した、名門・中国科学技術大学の初代学長は、この郭沫若先生であられた。
 創価学会に対しても、温かく、そして深い理解を抱かれていた。
 先生は呼びかけている。
 「諸君は新しい太陽をお望みですか、それなら御自分で創ってください」(「郭沫若詩集」須田禎一訳、郭沫若選集刊行会編『郭沫若選集』5所収、雄渾社)
9  私は、十六年前(一九八八年)の七月十一日、「天地に満つる幸の旭日」と題する一詩を、敬愛する千葉の同志に贈った。
 その記念の七月十一日へ、今、わが友は意気軒昂に「千葉月間」を前進されている。
 天下いっぱいに「菜の花」の咲く君たちの千葉よ!
 大空を楽譜にしながら、ホオジロが音楽のように鳴く理想郷の千葉よ!
 心晴れやかで、めでたい皆様方をいつも祝ってくれる、鯛の跳ねゆく喜びの姿よ! 
 そして、名誉ある県の木である、天まで伸びゆく「槇」の雄壮にして忍耐の姿よ! 
 ともあれ、日蓮大聖人の御聖誕の意義深き聖地ともいうべき千葉県にあって、皆様は、断固と広宣流布の先頭に立ってこられた。
 胸を張り、あらゆる絶望も乗り越えて、一生涯の勝利のために戦いゆく尊き姿よ! 
 「日本一」そして「世界一」の「わが千葉の勝利」が合言葉である。
 眩しき太陽の下で、また星の煌めく夜空の道で、親しみ深き友と友と、千葉の天地の隅々まで目を凝らしながら、粘り強く戦ってくれ給え!
 もう一度、わが大使命に目覚めよ!
 旭日の千葉の同志よ!
 一人ももれなく、この一生をば、勝利と栄誉で飾ってくれ給え!
 そこには、悔いなき君に、栄光の正義の冠と、名誉ある勝利の花を、皆が、そして諸天善神が掲げて、祝福してくれるであろう。

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