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日蓮大聖人・池田大作

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第21回「SGIの日」記念提言 第三の千年へ 世界市民の挑戦

1996.1.26 平和提言・教育提言・環境提言・講演(池田大作全集第101巻)

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39  第2次大戦下のドイツにおいてファシズムの嵐が吹き荒れるなかで、人々がホロコーストのような悲劇を止めることができなかった理由を、「悲しむことの不能性」に求める学者もおりました。
 この「内なる人権侵害」を許した国・ナチスドイツが、他国に対して「侵略的態度」をとり続けていたのは、決してゆえなきことではありません。この二つの態度は、まさしく「人間の尊厳」に対する軽視という点で表裏一体なのであります。
 こうした事実は、同じ時代の日本においても、当てはまることであったのです。アジア諸国を侵略し、残虐な行為を重ねていた当時の軍国主義政府が、その国内にあっては「信教の自由」をはじめとする精神の自由を次々と踏みにじる挙に出て、国民を自らの政策遂行の"犠牲"にして顧みなかった歴史を、私たちは決して忘れてはならないのです。
40  民衆の手で時代変革の波を
 世紀末から新たな世紀へ、確かに時代は今、大きな過渡期を迎え、世界各地ではいまだ過渡期特有の混迷が続いております。
 いうまでもなく、二十一世紀につなぐ新たな世界の平和秩序というものは、国家だけに任せておいてできるものではありません。
 ともするとこれまでは、国家が新しい秩序をつくるものだという発想が強すぎたのではないでしょうか。むしろ下から盛り上がった、草の根レベルの民衆の力によって新しい世界の秩序を構築するという発想こそが必要でありましょう。
 国連は九十年代に入り、環境、先住民、人権、家族、人口、社会開発、女性等のさまざまな地球的課題に焦点を当て、グローバルな会議を開くなど真剣に取り組んでまいりました。
 そこで明らかになってきた考え方は、人間が真に人間らしく生きられる社会を築き上げるには、政府や国家だけに任せるのではなく、世界の民衆が主体的に力を発揮しなければならない、ということであります。今、台頭しつつある新たな「民衆社会(シビル・ソサエティー)」を世界に広げていくことが問題解決につながるのだという結論なのであります。
41  一昨年(一九九四年)の「提言」の中で私は、SGIの「ボストン二十一世紀センター」に対し、「国連創設五十周年」を記念して、その改革・強化のための方策を研究し、まとめてはどうかと提案いたしました。昨年の十月、それが『民衆からの提言』という形で完成し、国連本部に届けられたことは、私の大きな喜びとするところであります。
 それは、民衆自らが自身の問題として国連の課題を考え、「開かれた対話」を通してまとめられたところに意義があると思います。まさに、専門家とごく一般の民衆が「開かれた対話」により英知を結集した成果といえるものなのです。私は、新しい世界の平和秩序は、こうした民衆の連帯の力がグローバルに広がっていくところから出来上がっていくのではないか、と考えるのであります。
42  そうした発想から私どもは、「戸田記念国際平和研究所」を本年、発足させることを決定いたしました。
 これは、国家権力による不当な弾圧により投獄された戸田城聖第二代会長が出獄して五十年の節目に当たり、「核兵器の廃絶」「生存権(人間としての尊厳を維持する権利)の確保」「地球民族主義」など、戸田先生の平和思想を原点として、時代にマッチした世界平和への貢献をめざし、昨年、構想されたものであります。
 この研究所は、世界の有力な研究者の協力を得ながらさまざまな地球的課題の研究に取り組み、解決策を考えていくわけでありますが、その大きな特色として、研究者と運動家をつなぎ、世界の民衆パワーの形成、高揚に貢献していくことをめざしたい。
 その意味では、「民衆立」の研究所という新しい発想によるものであります。これまではともすれば個別に活動していた力を、「民衆」という共通の次元で連帯させ、世界のさまざまな問題の解決に役立てるようにしたいのであります。そのためには、研究成果を広く世界に公開し活用されるようにしていく必要もありましょう。
 更に、世界の学術・研究機関、更にはNGOとも協力し合いながら、その国際的なネットワーク作りを進めていきたい。
 研究所の取り組むべき課題としては、安全保障、開発、人権、環境、文化、宗教、民族など多くのテーマが予定されております。なかでも、その晩年の一九五七年、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を発表し、核廃絶を未来の世代に託されたことに鑑み、核兵器廃絶のためのプロジェクトは、最優先の課題として取り組んでいただきたい。
43  昨年(一九九五年)末、東南アジア非核地帯条約が調印されました。中南米のトラテロルコ条約、南太平洋のラロトンガ条約、アフリカのペリンダバ条約(二月に調印予定)という非核地帯条約に続くもので、アジアの広い一角が初めて非核地帯になる意味は、まことに大きなものがあります。こうした非核地帯を世界中に広げ、民衆による"非核の包囲網"を拡大していけば、やがては「核兵器のない世界」も夢ではない。
 昨年は中国やフランスが核実験を相次いで強行するなど時代逆行の動きがあり、これに対し、新たな反核の国際世論が高まりました。また本年は「包括的核実験禁止条約」の交渉が大詰めを迎えるといわれております。
 この条約は、核廃絶への"一里塚"という象徴的意味においても、一日も早く締結されるべきであります。こうした状況をみても、「ヒロシマ・ナガサキ五十年」を経て、いよいよ核兵器廃絶への一つの正念場の時を迎えているといって過言ではありません。
44  「不戦の世紀」へグランドデザインを
 これまで私自身、機会あるごとに、核兵器をなくすためのさまざまな具体的方策を提示してまいりました。
 私の基本的立場は明確であります。膨大な人間を瞬時に殺すことにしか役立たない核兵器は"絶対悪"であり、その使用は人類の名において断罪されねばならない。それはどんな理由によっても正当化されるものではなく、核兵器は廃絶されねばならない、というものであります。これはまた戸田先生の遺志でもあり、そのためには最終的には、核兵器の開発、生産、保有、配備等の一切を禁止する「核兵器完全禁止条約」が必要となってくるでありましょう。平和研究所は、そこに至るまでの具体的手立てを研究してほしいと思います。
 同時に、戦後五十年を経て、長期的な観点から「世界不戦」という新しい時代へのグランドデザイン(大構想)も指し示してほしい。
45  明九七年には第四回「国連軍縮特別総会」も開催される予定と聞いております。
 その意味からも、一貫して私が主張している、世界の「不戦共同体制」をどう構築していくかという課題に、同研究所が中心的な役割を担って、世界の英知を結集しながら、人類益に立ったオルターナティブ(代替案)を描き出してほしいと考えます。
 その具体的な方向性として、現在広がりをみせている「非核地帯」が同時に「不戦平和地帯」となっていけば、もはや核兵器など必要としない世界も夢ではないと考えます。逆に、それが実現できないのならば、究極的な核廃絶も難しいといえましょう。
 私は昨年末、コスタリカ共和国元大統領でノーベル平和賞受賞者の、アリアス・サンチェス博士と2度目の会談を行いました。「平和と戦争」という主題をめぐってさまざまに意見を交換しましたが、なかでも博士は"世界は軍事費を削減して教育や文化の発展に分配すべきである"との持論を強調されました。
46  また博士は、世界中のすべての軍備を撤廃せよと訴えておられる。
 戦後、ヨーロッパ復興のためにマーシャルプランが推進されました。これにならって、資源を「軍備」にではなく「人間開発」に投じる新たなグローバルなマーシャルプランが必要、と博士は考えておられるのであります。これを理想論といって片付けるのは簡単ですが、コスタリカ自体が、一九四九年に制定された現行憲法で軍隊を廃止するのに成功していることからも、博士の主張には説得力が感じられます。
 それは小さな国だから実現できたという見方も成り立ちますが、時代に合わない無用のものだと人々が判断すれば、奴隷制やアパルトヘイトが消滅したのと同様、軍備もなくすことは、全く無理な話ではないのです。
 アリアス博士は隣国パナマも説得し、九四年十月には憲法が修正され、軍隊は法的にもなくなることが決まりました。更にまだ多くの問題を抱えてはいますが、ハイチでも軍隊が解体され、軍備廃止が実現の方向へ進んでおります。
 新しい世代のために、「戦争の文化」でなく「平和の文化」を教えていきたいという博士の提案に、私は全面的に賛意を示しました。戸田記念国際平和研究所は、こうしたいわば"民の声"でもある、世界の「脱軍備」「非軍事化」をどう進めていけばよいのかを総合的に研究し、確かな道筋をたてていく必要がありましょう。
47  あと五年程で「第三の千年」が開幕するといっても、時代が自然に新しく生まれ変わるというものではありません。あくまでそれは"時代の扉"を開く「人間の意志」にかかっております。人間には本来、新しい選択を創造し、その選択を行う能力が備わっているのです。私たちの現前に挑みかかるいかなる難事も、そのすべては人間自身が作り出したものである以上、自らの手で解決していく潜在能力がないわけではないのであります。
 人々が重大な難問に立ち向かう決意を固めると、最大の歴史形成力が始動すると指摘したのはトインビー博士でありますが、人間にはもとよりその能力が備わっているのであります。思うに、現前にある危機を深刻化させている要因は人間の能力の欠如ではなく、その能力に対する認識不足なのではないでしょうか。
 私のよき友人であったノーマン・カズンズ氏は、「悲観主義は、前途の展望を否定する行為によって、展望を忌避する。それは未来への視野を狭め、必要なことと可能なこととの関係を曖昧にする」(『人間の選択』、松田銑訳、角川選書)との警句を発し、人々がさしたる努力も尽くさないまま絶望してしまうことを厳しく戒めております。
 この言葉を改めて胸に刻み、私たちは決して「楽観主義」を手放すことなく、敢然と「必要なこと」を成し遂げる挑戦を、ともどもに開始してまいろうではありませんか。

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