Nichiren・Ikeda
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32 若鷲(32)
一九六六年(昭和四十一年)七月、山本伸一は「御義口伝」講義の二期生を中心に、学生部の人材グループ「潮会」を結成した。
この二期生への伸一の講義は、六七年(同四十二年)の四月まで続けられた。
一期生への最初の講義以来、五年間にわたる、学生部の本格的な育成となったのである。
二期生への伸一の講義が、『御義口伝講義(下)』としてまとめられ、出版されたのは、その年の十月十二日のことであった。
伸一が多忙に多忙を極めたこの時期に、学生部への講義をいっさいの行事に最優先させてきたのは、広宣流布の壮大な未来図を実現するためには、新しい人材の育成が、最重要の課題であると考えていたからだ。
広宣流布は、大河にも似た、永遠の流れである。幾十、幾百の支流が合流し、大河となるように、多様多彩な人材を必要とする。
そして、いかに川幅を広げ、穏やかな流れの時代を迎えようと、濁流と化すことなく、澄み切った清流でなければならない。
それには、初代会長牧口常三郎から第二代会長戸田城聖へ、更に、山本伸一へと受け継がれてきた、仏法の精神を継承する、まことの弟子を育て上げるしかなかった。
また、もともと病弱な身でありながら、心身を削るかのように、日々、フル回転し続ける伸一には、自分はいつ死ぬかもしれないという思いがあったからでもある。
「潮会」の結成式となった箱根・仙石原での二期生の研修会の折、星空を仰ぎながら、伸一は、しみじみとした口調で語った。
「見てごらん、この満天の星を。昼間は見えないが、ひとたび太陽が沈めば、星は夜空いっぱいに輝く。その一つ一つは、太陽と同じ恒星だ。私は、このきら星のごとく、人材をつくっておきたいのだ……」
学生部の代表への伸一の講義は、彼の生死をかけた、後継の人材の育成であったといってよい。
かつて、萩の松下村塾で吉田松陰に育まれた門下生は、師の志を受け継ぎ、明治維新の夜明けを開いた。今、伸一は、彼が心血を注いで育てた受講生たちが、生命の世紀の、世界の広宣流布の夜明けを開くことを確信していた。
彼のその信念に誤りはなかった。
事実、若鷲たちは大きく翼を広げ、新しき時代の大空に、さっそうと羽ばたいていった。そして、ほんの一握りの退転者を除いて、広宣流布のあらゆる分野の中核に育ち、創価の星となって輝いていくのである。