Nichiren・Ikeda
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32 春嵐(32)
四月二日は、山本伸一が会長に就任して初めての、第二代会長戸田城聖の祥月命日であった。
この日、戸田の四回忌法要が、東京・池袋の常在寺で、午後一時過ぎから営まれた。
午前中は晴れていたが、伸一が会場に到着した正午ごろには、空はにわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めた。風も激しく、雷鳴が轟いた。春嵐であった。
伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、″嵐のなかを進め!″との、戸田の指導であるかのように思えてならなかった。
彼は、一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日に行われた、男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。その日も、激しい雨であった。
結成式の席上、戸田は、淡々とした口調で、この日の参加者のなかから、必ずや、次の学会の会長が現れるであろうと語った。
そして、広宣流布は絶対にやり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、日蓮大聖人の仏法を、東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。
その恩師がいて、はや三年が過ぎた。伸一は、その間の戦いに、いささかも悔いはなかった。戸田に向かって、弟子として胸を張って報告できる自分であることが嬉しかった。
法要が始まった。
日達上人の導師で勤行・唱題した後、各部の代表らがあいさつに立ち、最後に伸一の話となった。
伸一は、マイクの前に立つと、一言一言、み締めるように語り始めた。
「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に会長に就任なされた時、嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。その前に、事業が窮地に陥り、悪戦苦闘されたことから起こった批判でありました。
会長として立ち上がられた戸田先生は、そのころ、幾度となく、こうおっしゃっておりました。
『今、私は百年先、二百年先を考えて立ち上がり、戦っている。だが、人びとには、それはわからない。
しかし、二百年たった時には、私の行動が、私の戦いが、全人類のなかで、ただ一つの正義の戦いであったということが、証明されるであろう』
先生は二百年先と言われましたが、先生が亡くなってたった三年で、その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、証明されようとしています」
参列者は、目を輝かせながら、伸一の話に耳をそばだてていた。
33 春嵐(33)
静まり返った場内に、獅子吼のような山本伸一の声が響いた。
「今や、不幸に苦しんできた民衆が、戸田先生の教え通りに信心に励み、偉大なる功徳を受け、見事に蘇生した姿が、全国津々浦々にあります。
この民衆の蘇生こそ、誰人もなしえなかった、最大の偉業にほかなりません。
しかも、それは日本国内にとどまることなく、南北アメリカへ、アジアへと広がっております。これこそが、先生の正義の確かなる証明であります。
先生のご精神は、御本尊を根本に、この世から不幸をなくし、平和な日本を、平和な世界を築くことにありました。そのために、折伏の旗を掲げ、広宣流布に一人立たれました。
私どもは、戸田門下生でございます。先生が折伏の大師匠であれば、弟子もまた、折伏の闘将でなければなりません。私たちは、毎年、先生のご命日を一つのくぎりとして、広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。
私は、戸田門下生の代表として、『広宣流布は成し遂げました』と、堂々と先生の墓前にご報告できる日を、最大の楽しみに、進んでまいります。
しかし、もしも、それができない場合には、後に残った皆さんが、同じ心で、広宣流布を成就していただきたいことを切望し、私のあいさつといたします」
法要が終わると、伸一は窓の外を見た。
いつの間にか、嵐はやんでいた。
庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、雲間から差す太陽の光を浴びて、微風に揺れていた。戸田の葬儀の日に、別れを惜しむかのように、花びらを散らしていた木である。
咲き薫る花を妬むかのごとく、吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。
彼は、戸田の和歌を思い起こした。
三類の
強敵あれど
師子の子は
広布の旅に
雄々しくぞ起て
それは、一九五五年(昭和三十年)の十一月三日、第十三回の本部総会を記念して、戸田が伸一に贈った和歌であった。
その師子の子は、いよいよ本格的に疾走を開始したのだ。師子が走れば、大地を揺るがし、風を起こし、雲を動かし、嵐を呼ぶことは間違いない。既に、その兆しは起こっている。
しかし、伸一の覚悟は決まっていた。
彼は、を握り締め、春嵐に耐えた桜の枝を、じっと見つめた。