Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「春嵐」 春嵐

小説「新・人間革命」

前後
31  春嵐(31)
 関久男の参議院予算委員会での追及以来、警察も学会員の訴えに、調査に乗り出し、取り締まる姿勢を見せ始めた。
 しかし、学会員への有形無形の圧力や差別がなくなったわけでは決してなかった。その後も、各地で学会員へのいやがらせや、陰険な村八分が続いていた。
 それは、正法正義のゆえに競い起こる、経典に説かれた三類の強敵のなかの、俗衆増上慢との戦いにほかならなかった。
 しかし、同志は信心で耐え、信心で戦い抜いた。
 山本伸一も、各地で、そうした同志たちから、報告を受けることがあった。その時、彼は、こう言うのが常であった。
 「長い人生から見れば、そんなことは一瞬です。むしろ、信心の最高の思い出になります。
 仏法は勝負です。最後は、必ず勝ちます。決して、悲観的になってはならない。何があっても、堂々と、明るく、朗らかに生きていくことです。
 牧口先生は獄死された。戸田先生は戦時中に二年間も投獄されている。それから見れば、村八分なんて、蚊に刺されたようなものではないですか。
 皆さんを苛めた人たちは、やがて、あなたたちご一家が功徳にあふれ、幸福になり、輝く人格の姿を目にすれば、とんでもないことをしてしまったと思うに違いありません。そして、生涯、後悔することになるでしょう」
 伸一は、同情は、その場しのぎの慰めでしかないことを、よく知っていた。
 同志にとって大切なことは、何があっても、決して退くことのない、不屈の信心に立つことである。そこにこそ、永遠に、栄光の道があるからだ。
 三月度の本部幹部会は、二十七日、台東体育館で行われた。
 三月度の折伏は、四万四千八百世帯余りで、学会の総世帯数は百八十五万を突破した。
 また、この席上、桐生、北多摩、立川、熊谷、高崎、長岡、熱田、愛知、岡崎、奈良、舞鶴、神戸、兵庫、福山、松江の十五支部が誕生した。
 更に、三月に行われた教学試験の最終結果も発表された。
 新たに助教授五百七十一人、講師二千七百九十人、助師二万二千八百七十四人が誕生したのである。
 これによって、教学部員は、一挙に二倍以上になり、四万人を超える大教学陣となったのである。
 躍進の波は一段と勢いを増し、伸一の会長就任一周年となる五月三日を目指して、更に、うねりを広げていこうとしていた。
32  春嵐(32)
 四月二日は、山本伸一が会長に就任して初めての、第二代会長戸田城聖の祥月命日であった。
 この日、戸田の四回忌法要が、東京・池袋の常在寺で、午後一時過ぎから営まれた。
 午前中は晴れていたが、伸一が会場に到着した正午ごろには、空はにわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めた。風も激しく、雷鳴が轟いた。春嵐であった。
 伸一は、窓ガラスを打つ雨を見ながら、″嵐のなかを進め!″との、戸田の指導であるかのように思えてならなかった。
 彼は、一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日に行われた、男子青年部の結成式の日のことが頭に浮かんだ。その日も、激しい雨であった。
 結成式の席上、戸田は、淡々とした口調で、この日の参加者のなかから、必ずや、次の学会の会長が現れるであろうと語った。
 そして、広宣流布は絶対にやり遂げねばならぬ自身の使命であると述べ、日蓮大聖人の仏法を、東洋、世界に流布すべきことを訴えたのである。
 その恩師がいて、はや三年が過ぎた。伸一は、その間の戦いに、いささかも悔いはなかった。戸田に向かって、弟子として胸を張って報告できる自分であることが嬉しかった。
 法要が始まった。
 日達上人の導師で勤行・唱題した後、各部の代表らがあいさつに立ち、最後に伸一の話となった。
 伸一は、マイクの前に立つと、一言一言、み締めるように語り始めた。
 「……戸田先生が昭和二十六年五月三日に会長に就任なされた時、嵐のごとき非難と中傷が渦巻いておりました。その前に、事業が窮地に陥り、悪戦苦闘されたことから起こった批判でありました。
 会長として立ち上がられた戸田先生は、そのころ、幾度となく、こうおっしゃっておりました。
 『今、私は百年先、二百年先を考えて立ち上がり、戦っている。だが、人びとには、それはわからない。
 しかし、二百年たった時には、私の行動が、私の戦いが、全人類のなかで、ただ一つの正義の戦いであったということが、証明されるであろう』
 先生は二百年先と言われましたが、先生が亡くなってたった三年で、その戦いが、どれほどすばらしいものであったかが、証明されようとしています」
 参列者は、目を輝かせながら、伸一の話に耳をそばだてていた。
33  春嵐(33)
 静まり返った場内に、獅子吼のような山本伸一の声が響いた。
 「今や、不幸に苦しんできた民衆が、戸田先生の教え通りに信心に励み、偉大なる功徳を受け、見事に蘇生した姿が、全国津々浦々にあります。
 この民衆の蘇生こそ、誰人もなしえなかった、最大の偉業にほかなりません。
 しかも、それは日本国内にとどまることなく、南北アメリカへ、アジアへと広がっております。これこそが、先生の正義の確かなる証明であります。
 先生のご精神は、御本尊を根本に、この世から不幸をなくし、平和な日本を、平和な世界を築くことにありました。そのために、折伏の旗を掲げ、広宣流布に一人立たれました。
 私どもは、戸田門下生でございます。先生が折伏の大師匠であれば、弟子もまた、折伏の闘将でなければなりません。私たちは、毎年、先生のご命日を一つのくぎりとして、広布への大前進を遂げてまいりたいと思います。
 私は、戸田門下生の代表として、『広宣流布は成し遂げました』と、堂々と先生の墓前にご報告できる日を、最大の楽しみに、進んでまいります。
 しかし、もしも、それができない場合には、後に残った皆さんが、同じ心で、広宣流布を成就していただきたいことを切望し、私のあいさつといたします」
 法要が終わると、伸一は窓の外を見た。
 いつの間にか、嵐はやんでいた。
 庭には、枝いっぱいに花をつけた桜の木が、雲間から差す太陽の光を浴びて、微風に揺れていた。戸田の葬儀の日に、別れを惜しむかのように、花びらを散らしていた木である。
 咲き薫る花を妬むかのごとく、吹き荒れた嵐も、一瞬にすぎなかった。
 彼は、戸田の和歌を思い起こした。
 三類の
   強敵あれど
     師子の子は
 広布の旅に
   雄々しくぞ起て
 それは、一九五五年(昭和三十年)の十一月三日、第十三回の本部総会を記念して、戸田が伸一に贈った和歌であった。
 その師子の子は、いよいよ本格的に疾走を開始したのだ。師子が走れば、大地を揺るがし、風を起こし、雲を動かし、嵐を呼ぶことは間違いない。既に、その兆しは起こっている。
 しかし、伸一の覚悟は決まっていた。
 彼は、を握り締め、春嵐に耐えた桜の枝を、じっと見つめた。

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