Nichiren・Ikeda
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21 宝剣(21)
「そうか、大変だな。では、お小遣いをあげよう」
山本伸一が言うと、その学生は恐縮して言った。
「いいえ、結構です。そんなことをしていただく筋合いではありませんから」
伸一は微笑を浮かべた。
「遠慮しなくていいんだよ。ぼくは君たちの兄のようなものだ。
少なくとも、ぼくは、そのつもりで君たちに接し、君たちを一人残らず、広宣流布の大人材に育てようと思っている」
それは、伸一の決意であり、願いでもあった。
この日の参加者に、司法修習生になっているOBがいた。名前を山脇友政といった。
彼の入会は、四年ほど前のことであった。腎臓炎で休学し、療養生活をしていた時に折伏を受けた。
信心を始めてから、次第に健康を回復し、やがて復学すると、司法試験をめざし、昭和三十六年秋に合格したのである。
山脇は自己紹介で、誇らしげに、司法修習生であることを語った。そこには、どこか卑屈さに裏打ちされた傲慢さが感じられた。
しかし、伸一は、学生部のなかから、難関といわれる司法試験の合格者が出たことが嬉しかった。
彼は、自分が選挙違反という無実の罪で逮捕された、あの大阪事件では、頼りになる弁護士は誰もいなかったことを思い出していた。正義のために戦おうという気概が、ほとんど感じられなかったのである。
伸一が無実であることは十分にわかっていながら、「有罪を覚悟した方がよい」と言い出す始末であった。
結局、弁護士はいても、冤罪を晴らすために、伸一は、一人で戦わなければならなかったわけである。
それだけに彼は、仏法という人間の尊厳の哲理をいだき、人道と正義のために戦う弁護士が育ちゆくことを、待ち望んでいた。
そのなかで、学生部員の山脇友政が司法修習生となり、今、「百六箇抄」の講義に勇んで駆けつけてきたのである。
伸一は、山脇に言った。
「山脇君も司法修習生になったか。たいしたもんだな。頑張れ、先駆者!」
そして、メンバーへの、自らの思いを語った。
「私は、生涯、みんなを守っていくつもりだ」
事実、彼は、後々までこの受講生たちを指導し、励まし続けていった。また、さまざまなかたちで応援を惜しまなかった。
山脇に対しても、弁護士になると、初めから学会の顧問弁護士のように遇していった。
22 宝剣(22)
ところが、山脇友政は、信頼で結ばれた学会の世界を、自己の野望実現の格好の場所と、考えるようになっていったようだ。
信仰とは、己心における仏と魔、善と悪の闘争だ。魔、悪に打ち勝つためには、仏道修行という生命の錬磨が絶対に不可欠である。
しかし、真剣に、また地道に信心に励むことのなかった山脇の心は、いともたやすく、第六天の魔王に支配されていくのである。
後に、学会の顧問弁護士となった彼は、宗門の法主に取り入り、学会を宗門に隷属させ、自分が学会を支配しようと計画する。
そして、その野望が破綻すると、顧問弁護士であった立場を利用し、学会を恐喝するという、驚くべき犯罪を起こし、極悪人の本性をさらけ出す。
しかも、懲役刑を受けた後も、山脇は、宗門や政治権力、一部のマスコミなどを巧妙に巻き込み、学会潰しに躍起となるのである。
山本伸一は、山脇の振る舞いに、不純さ、傲慢さ、狡猾さを感じることが少なくなかった。だから、時には厳しく指導することもあったが、大きく包み込んできた。
人間なら誰しも、欠点はある。切り捨てることはたやすいが、欠点があるからといって、次々と排斥していってしまえば、人を育てることなどできない。
人間の善性を信じるところに、人を育てる要諦があり、仏法者の心もある。
伸一は、欠点の多い、癖のある人物ほど、心を砕いて指導し、使命を全うできる道を考え、活躍の場も与えてきた。
また、彼は、山脇に限らず、その人物が人間の信義に目覚め、広宣流布に奮い立つならば、たとえ、騙されても、許しもしたし、包容もしてきた。
この、人のよさゆえに、彼は利用されることも少なくなかった。
しかし、自分が傷つくことを恐れず、人の育成に努めてきたからこそ、広宣流布のあらゆる分野の、多彩な人材を育てることができたのである。
伸一は、この日、皆の自己紹介が終わると言った。
「広宣流布の道には、さまざまな誘惑もある。難もある。信心を磨き抜かなければ、自分に負けていってしまう。
このなかからも、退転する者、反逆する者が出るかもしれない。しかし、たった一人しか残らなくても、私はその人を励まし、その人とともに、広宣流布を成し遂げていくつもりだ。
でも、みんな最後まで残ってほしい。そして、一緒に、生涯、広宣流布のために生き抜いていこうよ」
23 宝剣(23)
山本伸一は、この後、質問を受けることにした。
最初に手をあげたのは、上畑英吉という文学部の二年生であった。眉の濃い、彫りの深い顔立ちに、どことなく憂いが漂っていた。
「私は、哲学科に進もうと思っていますが、大聖人の仏法哲学から見て、現在の哲学は、やるだけの価値があるのでしょうか」
上畑は、大学で学ぶ哲学の意味を問い続けていたのである。
伸一は言った。
「現在、大学で学ぶ哲学は、結局は知識であり、認識の訓練といえる。また、厳しくいえば、単に、肩書、レッテルを得るための勉強になっているのが現状である。
これは、現代の大学教育の欠陥といえるだろう」
伸一の回答は、明快であった。
「哲学を学ぶ本当の意味は何か。それは、人間として、いかに生きていくか、どうすれば、最高の人生を送っていけるのかを確立することにある。
その大哲学は、日蓮仏法にしかない。仏法は、最高峰の生命の哲学です。また、人間の生活に立脚した、万人が幸福になるための原理です。
したがって、根本は仏法です。仏法を学び抜いていくならば、いっさいに透徹していくことになる。
しかし、根本は根本として、これから、諸君が社会の指導者となっていくには、知識も大事です。その知識を生かす智慧を涌現していくのが信心なんです。信心を根本としていけば、いっさい無駄はない」
それから伸一は、上畑を見つめて言った。
「あなたの場合は、ともかく今は、しっかり大学の勉強をすべきです。大学時代は短い。人生は長距離競走だが、学校は短距離競走ではないですか」
伸一が答え終わると、すぐに手があがった。野村勇である。
「先生は、先日の学生部総会で、信心を根本に、生命力豊かに、骨のある人間になっていくように言われましたが、この骨のある人間とは、どういうことでしょうか」
伸一はニッコリと頷き、語り始めた。
「それは、信念をもったスケールの大きな、堂々たる生き方をしていく人間ということです。
人間は、どうしても環境に染まっていきやすいものだ。たとえば、アルバイトに明け暮れ、コッペパンやオニギリばかり食べて、生きていくのがやっとだという状態のなかで勉強していると、狭量な人間になってしまう場合がある」
24 宝剣(24)
皆、目を輝かせて、山本伸一の話を聞いていた。
「また、今の学生かたぎとして、自分のささやかな幸せだけを追い求めて生きる傾向もある。
私は、青年たちが自分のことしか考えなくなりつつあることを、心配しているんです。
社会、世界をどうするのか、最高に価値ある生き方とは何か、といった問題をおろそかにし、なんの信念も、哲学もない人生であってはならない。青年がそうであれば、最後は、自分も社会も不幸です。
では、どうすれば、骨のある、スケールの大きな人間になれるのか。
それは境涯を革命することです。人間革命です。
題目をあげ抜き、学会とともに広宣流布に生きていくならば、自然のうちに大境涯になり、骨のある人間になっていきます。
その意味でも、人間を育て、人類の未来を担っていくのは創価学会以外にはない。だからみんなも、学会について来ることです!
まだ、みんな若いから、人生は、長い長い道程のように思っているかもしれないが、あっという間に終わってしまうものだ。まさに『光陰矢のごとし』です。
しかも、ある人が人生は″片道キップ″と言っていたが、本当にそうだ。若いころに戻りたいなと思っても、後戻りはできない。
そのなかで、みんなは、信心に巡り合い、最高の人生を歩もうとしている。最後まで、偉大な、堂々たる人生を全うしてもらいたいというのが私の願いです」
伸一は、何問かの質問に答えた後、更に、自分の思いを語った。
「このなかから、大学者や大科学者、大政治家も出てもらいたいな……。
私は、大きな心で、みんなを包容していくから、安心して、私についていらっしゃい。
信心のことは、厳しく言うこともあるかもしれないが、それはみんなのことを思うから言うんです。
私は、本当の意味で、青年の成長を、君たちの成長を祈っています。十年、二十年、三十年後に、諸君たちが世界の桧舞台で活躍できるように、全力で育てていきます。
君たちは私の宝だ。君たちの手で、新しい世紀をつくるんだ。私と一緒にやろう。どこまでもついて来るんだよ。卒業しても、同じ心でね」
話を終えた伸一は、皆と握手を交わした。
彼は、一人ひとりの成長を祈り念じながら、力を込めて、″若鷲″たちの手を握り、励ましの声をかけていったのである。
25 宝剣(25)
京大生への、山本伸一の「百六箇抄」講義は、発足式も含めて計七回を数え、翌年八月に終了した。
引き続き、伸一は、関西以西の学生部の幹部と京大生を対象に、「御義口伝」講義を始めている。
「百六箇抄」は、伸一にとっても、思い出深い御書であった。それは、彼が戸田城聖から、教学部教授の研究課題として与えられた御書であったからである。
彼は毎日、夕方、仕事を終えると、戸田のもとに通って教えを求めた。
戸田は冒頭の「 理の一念三千・一心三観本」の講義だけで三日間を費やしてくれた。
この御文を、戸田は「三世諸仏の」「出世成道の」「脱益寿量の義」「理の三千は」と、区切りながら、一つ一つについて、あらゆる角度から解釈し、講義してくれたのである。
それは、深遠にして広大無辺な仏法の世界に、伸一を導くかのような講義であり、それ自体が、師から弟子への相伝であった。
冒頭の一箇条の講義が終わると、戸田は言った。
「これまで話してきたことは、すべて暗記し、生命に刻むことだ。この一箇条を徹底して学び、深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。
また、この『百六箇抄』がわかれば、ほかの御書もわかってくる。
ともかく、一語一語、正確に、深く理解していかなくてはならない。教授や助教授になったら、間違いは許されないと思いなさい」
その後は、一日、二、三箇条ずつ、講義が進められたが、伸一に少しでも真剣さが欠けると、戸田はすぐに御書を閉じた。
「やめた! 私は機械じゃないんだ」
そのたびに伸一は、申し訳なさ、不甲斐なさでいっぱいになった。そして、生命に焼きつける思いで、研鑽を重ねてきたのである。
その時の伸一の御書は、戸田から受けた講義の書き込みで、真っ黒になるほどであった。
伸一は、京大生への講義では、まだ、教学の基本も身についていないメンバーに、できるかぎり噛み砕いて語っていった。
そして、「百六箇抄」が日蓮大聖人の仏法と釈尊の仏法の「本迹」「勝劣」が厳しく判別されている御書であることから、「本」と「迹」の立て分けを、あらゆる角度から論じ、人間の生き方に即して展開していったのである。
人生の根本は何か――ここに、彼の講義の最大のポイントがあった。
26 宝剣(26)
中国の天台大師は、この「本迹」について、「本」を「天の月」とし、「迹」を月の影である「池の月」に譬え、「本」は勝れ、「迹」は劣るとしている。
「本」とは本体を意味する。一方、「迹」とは本体の影、または跡を指す。事実から理論が生まれてくるように、「本」があっての「迹」である。
山本伸一は、ある日の講義では、この問題を、事実と理論の関係を通して、わかりやすく丁寧に語っていった。
「理論は一つの物差しです。だから、理論は事実を説明する規範にはなるが、そのすべてではない。
たとえば、現実の人間の生命活動を見ても、瞬間、瞬間、変化です。その変化してやまない本体が生命の事実の姿です。
一方、この事実から抽出され、普遍化されたものが理論です。そこで、大事なのは、事実と理論を見極める鋭い目をもつとともに、どこまでも現実の大地に立脚していくことです。
その根本は、『生命』です。現実に生きている『人間』です。
理論やイデオロギーを絶対視して教条主義に陥り、かえって、現実の人間を抑圧した例は、歴史上、枚挙に暇がない。若き知性の諸君は、この不幸の歴史を変えてもらいたいんです」
「百六箇抄」の最後の部分である「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」の個所では、伸一はこう語った。
「立つ波、吹く風、いっさいの現象について、本迹、勝劣を立て分けていきなさいという御文です。
つまり、私たちの人生にも、生活にも、全部、『本迹』がある。それを、きちっと見極め、立て分けていかねばならない。
たとえば、眠っている時は『迹』、起きている時は『本』。勉学が本分である学生が、遊びに、ふけっているのは『迹』、勉学に打ち込んでいるのは『本』といえる。
また、勉強しているといっても、立身出世のための勉強であれば、心は自分中心であり、世間に流された『迹』の生き方です。
しかし、学生部員として、広布のために力をつけようと、使命感を奥底にもっての勉強であれば『本』です。
ともあれ、根本的にいえば、私たちの本地は、広宣流布のために出現した地涌の菩薩であり、ゆえに、広宣流布に生き抜く人生こそが『本』となる。
一方、諸君が将来、社会的な地位や立場がどんなに立派になったとしても、それは『迹』です。この一点を見誤ってはならない」
27 宝剣(27)
語るにつれて、山本伸一の声には、力がこもっていった。
「諸君も、やがて社会人となり、世間の荒波に揉まれることになるだろう。思うように学会活動ができない時もあるかもしれない。
しかし、そこにも、『本迹』はある。どんな状況になっても、広布の使命を果たし抜こうとの決意があれば『本』です。
環境に負け、信心を失って、使命を忘れてしまうならば、『迹』になる。
『本』と『迹』は、ある意味で、ほんのわずかな差といえるし、一念の問題だけに、外からはわからないこともある。しかし、仏法の眼で見れば、すべては明らかですし、天地雲泥の差となる。
『本迹』を個人の一念に要約していえば、『本』とは原点であり、広宣流布への一念です。また、前進、挑戦の心です。
『迹』とは惰性であり、妥協、後退です。
自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのか――それを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくということになるし、その人が最後の勝利者になっていく。
ゆえに、『本迹』といっても、この瞬間瞬間が勝負であり、自分のいる現実が仏道修行の道場となる」
この「本迹」についての伸一の講義は、受講生の心に刻まれ、その後の生き方の大きな支えとなっていったようだ。
伸一は、講義を通して、単に仏法の法理を教えるだけでなく、一人ひとりの人生をいかに開いていくかに最も力を注いできた。
そのために、講義の後には、必ず質問や懇談の時間をもって、皆の悩みに対しても、指導と激励の手を差し伸べていった。
翌年(昭和三十九年)の一月、関西本部での講義の後、薬学部の中野恵利子が伸一に報告した。
「先日、疲れがひどく、咳がなかなか止まらないもので、病院へ行きましたところ、結核であると診断されました。医師からは、入院した方がよいと言われたんですが……」
それを聞くと、伸一は、心配そうに尋ねた。
「そうか。それで、食欲はあるのかい」
「あまりありません」
「夜は眠れるの?」
「眠れることは眠れるのですが、なかなか寝つけません」
彼は、中野の症状について、詳しく聞いていった。彼も結核に苦しんできただけに、この病気のことは、よくわかっていた。
28 宝剣(28)
山本伸一は、包み込むような口調で、中野恵利子に言った。
「私は、入院しないで治したが、入院して治す方法もある。それは、どちらでもよいと思う。
使命があるんだ。しっかり信心に励んでいけば、宿命を転換できないわけがない。
大聖人も『観心本尊抄』のなかで引かれているが、章安の言葉に『説己心中所行法門』(己心の中に行ずる所の法門を説く)とある。
この言葉は、天台が『摩訶止観』で、衆生の己心に諸法が具わっているとし、一念三千を説いたが、それは天台自身の己心の法門であるという意味だ。
つまり、一人の人間の一念に大宇宙も収まり、いっさいの現象の原因も、結果も、自身の一念にあり、すべては生命の反映ということになる。それを教えているのが仏法だ。
だから、信心によって、必ず治せる」
中野は頷いたが、表情は弱々しかった。
「病気になったことは、辛く、苦しいことではあるが、考えようによっては、君が本当の信心、本当の生命のなんたるかを学んでいく時がきたといえる。
また、日蓮大聖人は『病によりて道心はをこり候なり』と仰せになっている。信心を奮い起こしていくチャンスだよ。
その意味では、むしろ、よかったじゃないか。ゆっくり休んでおいで。待っててあげるよ」
中野は、その言葉に、真心の温もりを感じた。
彼女は大学を休学し、入院した。
当初、中野は、しばらく療養すれば、結核はすぐに治ると思っていた。だから病院でゆっくり休めることに、ほのかな喜びさえ感じていた。
それまで中野は、学生部の幹部としての活動と、勉学で、多忙を極めていた。そんな毎日に疲れを感じ、休養しながら、好きな本を読みたいと、密かに思うようになっていたのである。
図らずも、それが現実となってしまった。しかし、喜んで読書ができたのも束の間で、次第に不安になり始めた。いつまでも肺の影が消えないのである。
″入院しているし、若くて体力もあるのに、なぜ病気が治らないのだろう。
このまま、何年も入院するようになったら、自分の人生は、いったいどうなるのだろうか……″
彼女の焦りは、日ごとにつのっていった。
今となっては、多忙ではあったが、元気に学会活動と勉学に明け暮れていた日々が、いかに楽しかったかと、痛感するのであった。
29 宝剣(29)
中野恵利子は、ベッドの脇に御本尊を安置し、真剣に題目を唱え始めた。唱題を重ねながら、「説己心中所行法門」の文を通して指導してくれた、山本会長の言葉を思い返していた。
″先生は、病という宿命に悩むことも、すべては自分の一念、生命の反映だと言われた。では、私の一念とは、いったいなんだったのか″
中野は今、初めて、自身を凝視しようとしていた。
つぶさに自分を振り返ると、彼女はハッとした。
″私は、広宣流布に生きようと決め、人にもそう訴えながら、どこかで、学会活動から逃げたい、ゆっくり休養したいと思っていなかっただろうか……。
その心のままに、なってしまっているではないか。これでは、病気が治るわけがない。
病は宿命ともいえるが、この一念にこそ、根本の原因があったんだわ。自分の一念を転換しなくては!″
中野の唱題に、一段と力がこもった。
入院して八カ月がたった時、彼女は退院することにした。まだ、結核は完治していなかったが、自宅で、心ゆくまで題目を唱え、少しでも学会活動に励みたかったからである。
″御本尊様、尊い使命を担いながら、それを自覚できなかった私をお許しください。広宣流布のために働ける体にしてください!″
仏壇を揺さぶるような、懸命な唱題が続いた。
退院から三カ月後、肺の影は、すっかり消えていた。大学に復学し、再び元気な姿を見せるようになった。中野は自身の心の「迹」を破り、「本」を現していったのである。
また、大学院生の滝川安雄は、妻の病気で悩んでいた。彼は三十三歳で、既に結婚していたが、妻の鈴代が子宮ガンの宣告を受けたのである。
医師の話では、手術をしても、治る可能性は半分だとのことであった。
鈴代は入会して一年余りであったが、信心にかけてみようと決意し、猛然と題目を唱え始めた。
唱題に励むうちに、彼女は、山本会長に指導を受けたいと思うようになった。その自分の気持ちを安雄に伝えた。
安雄は、「百六箇抄」の講義の後に、自分が妻に代わって指導を受けることにした。
講義のその日、鈴代も会場の関西本部に来て、別室で待機していた。
しかし、内気な滝川は、妻のことを言い出しかねていた。
30 宝剣(30)
山本伸一は、受講生の顔を見渡すと言った。
「今日は悩んでいる人がたくさんいるな。なんでも聞いてあげるから、言ってごらん」
これで滝川安雄も、指導を求めることができた。
「実は、家内が子宮ガンなんですが、危ないようです。本人は題目を唱え、信心で乗り越えていく決意を固めています」
伸一は、即座に答えた。
「御本尊を持ったということは、仏身を持ったということです。また、地涌の菩薩として、使命があるんだから、大丈夫だよ。
仮に、信心をしていて若くして亡くなることがあったとしても、犬死にのような死はない。深い意味をもった死であり、後に残った人たちに、何かを教えているものだ。
大事なことは、何があっても、驚き、慌てるのではなく、ますます信心を奮い立たせていくことです。
真剣に唱題しよう。私も祈るよ。後で、奥さんにお念珠をあげよう」
この伸一の指導を、夫の滝川安雄から聞いた妻の鈴代は思った。
″私にも、使命があるんや。きっとガンにも勝てる。いや勝つんや!″
そして、唱題に次ぐ唱題を重ねて手術に臨み、見事に病を克服したのである。
鈴代のこの体験は、安雄にも、信心への大きな確信をもたらし、彼の飛躍のバネになっていった。
伸一が気にかけていた受講生の一人に、医学部の高岡直美がいた。
彼女の顔は、いつも暗かった。日々、悶々としているのであろう。
確かな生き方が見いだせず、観念の迷路に陥り、自分の殻にこもってしまい、人生そのものに懐疑的になっていたのかもしれない。
学会活動も、いやで仕方ないようであった。
伸一は、彼女に、境涯ということを教えたかった。
ある時、彼は言った。
「人間は、自分の殻を破り、境涯を開くことによって、同じ環境にいても、ものの見方も、感じ方も、すべて異なってくる。
夜空の星々は、アインシュタインには、おそらく、相対性原理の輝きのように見えたであろうし、ベートーヴェンには、名曲を奏でているように感じられたであろう。
また、ゲーテには、この宇宙が美しい詩をうたっているように映っただろう。
皆、透徹した境涯ゆえの感じ方といえる。
でも、仏というのは、もっと深く、もっと広い、生命の世界なんだ。その境涯に至るまで、信心をやめてはいけないよ」
31 宝剣(31)
山本伸一は、高岡直美に、こう指導したこともある。
「あなたは、一人になり、孤独になってはだめだよ。行き詰まってしまうからね。
常に心を開いてくれる、触発と励ましの組織が学会なんだ。だから、勇気をもって、その学会の組織のなかに飛び込み、人びとのために働くことだ。
あなたはやがて、医師になるだろうが、一番、大切なことは、人間を救おうという菩薩の心だよ。
それがなければ、いかに優秀でも、結局は、自分本位の、エゴに凝り固まった医師になってしまうし、本当の意味で、社会に貢献していくことはできない」
ある時、一人の受講生が、自分の思いを語った。
「正直なところ、私は学会の組織というのは好きではありません。
しかし、山本先生の講義を受講して、先生を守り、先生とともに、人びとのために生き抜く自分になりたいと思います」
伸一は、即座に言った。
「私を守るというが、学会を守ることが私を守ることになる。一人の会員を、十人、百人、千人の会員を守ることが、私を守ることです。
なぜなら、私の人生は、そのためにあると決めているからです。
私たちがめざしている広宣流布は、無血革命といえるが、私は、会員のため、法のため、社会のためには自分の血を流そうと決意しています。その覚悟と勇気がなければ、広布の指揮はとれません。
学会を離れ、会員を離れて、私はない。もし、君に少しでも、私を守ろうという心があるなら、学会の組織の最前線を走り抜き、会員を守ることです」
一人ひとりの人生と未来のために、何を語り、何を打ち込むか――伸一は生命を研ぎ澄まし、真剣に考えながら指導を重ね、まことの人間の道を教えていったのである。
丹念に手をかけ、力を注ぎ、全精魂を傾けてこそ人間は育っていくものだ。
事実、この「百六箇抄」講義の受講生は、ほぼ全員が大成長を遂げ、広宣流布の″宝剣″となって光を放っていった。
学会の中核として活躍していく人をはじめ、医師、学者、国会議員など、さまざまな分野で輝かしい業績を示しながら、皆、大きく社会に貢献していくことになるのである。
伸一は、青年の育成に命をかけていた。人間の命には限りがある。一代限りでは大業は成就しない。ゆえに、人を育て、残すことのみが、広宣流布を成し遂げる唯一の道であるからだ。
32 宝剣(32)
「猊下、全僧侶 法華講講員に訓諭」
一九六三年(昭和三十八年)七月二十五日付の聖教新聞を手にした学会員の多くは、一面に躍る、この大きな文字を見て、驚きを隠せなかった。
″なぜ突然、僧侶、法華講員に訓諭が出されたんだろう″
「聖教新聞」の題字の横には、「僧俗一致、広布達成へ」「異体同心の団結もって」との見出しが立てられ、前文には、次のようにあった。
「このたび日達猊下から、宗内の全教師、御僧侶ならびに法華講講員に対して訓諭が発せられた。いまや宗門は旭日の勢いにあり、学会もまた輝かしい未来への前進を始めている時、僧俗はさらに一致団結して宗勢を内外に宣揚することが望まれている」
今回、訓諭が出された理由は、前文からは何もわからなかった。
しかし、訓諭そのものを見ると、おぼろげながらではあるが、なぜ、訓諭が出されたかを、ようやく察知することができた。
訓諭には、「宗内教師僧侶一般」にあてたものと、「法華講々員一般」にあてたものと二つがあった。
文語体で難解な言葉もあるため、通解すると、まず「宗内教師僧侶一般」は、次のような内容であった。
――今や末法の慧日宗祖大聖人の大白法は、潮のように滔々と四海へ流れてとどまることなく、宗勢はとみに興隆の一途をたどりつつあり、まことに、法のため、日蓮正宗のために、ありがたい極みである。
そこで、その源をたずねるならば、末法の世界の衆生が帰命し依処とする大御本尊の御威光によるものである。
そうではあるが、なお、その功績は、創価学会の会長の指揮のもとに、一致団結して折伏に挺身し、本仏の願業である世界広宣流布の一刻も早からんことを願う、創価学会の会員の至誠によるものといえる。
その精進の姿は、刮目すべきものであり、既に、誤った教えを捨てて、正法に帰依し、本仏の民衆救済の願いに浴した者は、日本の国の全世帯の十分の一にも達している。
また、学会は、これまでに、赤誠をもって本門の大講堂を建立し、今また、画期的な大客殿の完成を見ようとしている。更に、全国に造立寄進した新寺院は、既に八十カ寺になんなんとしている――。
訓諭は、創価学会の広宣流布への、これまでの功労を高く評価していた。
33 宝剣(33)
訓諭には、学会の業績が更につづられていた。
――また、学会は、王仏冥合の聖旨を体して、崇高な理念のもと、旧来の悪弊を払拭し、大慈悲を根幹として真の民衆の福祉を決意し、縦横無尽の活躍をなしつつある。
更に、言論の分野で真実の雄叫びをあげて、内外に深く浸透させているだけでなく、学術、文化の各方面にも、広く正法を基底として進出するなど、着々と広宣流布をめざしている。
そして、およそ、あらゆる分野に、撓むことなく、しかも力強く、一歩一歩、前進の駒を進めつつある。
そこには、微塵の揺るぎも、妥協もなく、厳しい求道の精神に貫かれており、等しく、敬服するところである。
こうした時にあたって、わが宗門の僧侶は、いよいよその本分を全うすべく、精進しなければならない。
およそ僧たるものは、確固不動の信心に立って、行学に精励し、仏恩報謝の誠心を捧げるべきことはいうまでもない。
しかも、常にその行い、姿、仏法への研鑽と理解は、人びとの模範となることが望まれている。
しかし、ともすれば、この未曾有の重大な時に対する自覚の欠如と、本分にもとるがごとき言動を、ほのかに聞くに及んでは、まことに、遺憾とするところである。
もし、それが事実であるとするならば、これ以上の由々しき大事はない。
いやしくも、三衣(正宗では、衣、袈裟、数珠)を著し、仏前に不断の給仕を勤め、また、広く弘教の任にあたるべき仏弟子でありながら、このような弛緩があるということは、まさに城者として城を破るものである。
当然のことながら、駈遣(追放)し、挙処(罪過をあげて処断すること)しなければならない。
したがって、いたずらに遊戯雑談、懶惰懈怠(なまけ怠ること)に流れ、「法師の皮を著た畜生、外道の弟子」と、譴責されることなく、少欲知足を旨とし、よく身を慎み、獅子奮迅の大勢力を出して、決起精進すべきである。
願わくは、私の心をくんで、ますます先師の遺訓である僧俗一体、異体同心の実をあげて、ぜひとも、この願業成就に全力を捧げられんことを――。
そして、訓諭の末尾には「右訓諭す 昭和三十八年七月十五日 日蓮正宗管長
細井日達」とあった。
僧侶の在り方を正す、こうした訓諭が出されるのは、極めて異例のことといえた。
34 宝剣(34)
もう一つの、「法華講々員一般」への訓諭も、厳しい内容であった。
法華講は、日蓮正宗の各寺院に所属する檀信徒の集まりである。
訓諭では、まず、今、世界広布への機運があふれるに至ったのは、広宣流布の金言を体して、地涌の眷属たる自覚のもとに、打って一丸となり、折伏に邁進する、創価学会の出現によるところというべきであると学会を称賛。
続いて、次のように記されている。
――創価学会の会員の捨身弘法の熱誠は、宗門の古今に全くその類いを絶した熾烈さである。
今や三百四十有余万世帯に達する会員は、会長の統率によって、一糸乱れず、広布実現の過程で、必要不可欠な多角的な諸活動を展開し、顕著なる実績を累増しつつある。
その行為は、まさしく大聖人が御称賛されるところであり、僧俗が等しく満腔の敬意を表さなければならない。
もし、いささかでも、この清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃える一大和合僧団の創価学会に対して、実にあれ、不実にあれ、誤った考えをいだき、謗言をほしいままにする者があるとするならば、すべてこれは広布の浄業を阻害する大僻見の人であり、無間地獄への罪を開く者というべきである――。
そして、「……宜しく創価学会々員至心の求道精神を会了得解し、亦其を尊崇亀鑑とするに吝かならず、以て歩を一にして仏国土建設に、共に撓みなき前進を遂げられんことを」と結ばれていた。
二つの訓諭を読んで、僧侶や法華講員と接触する機会のあまりなかった会員は、日蓮正宗のなかに、学会を誹謗するような者がいたことを初めて知り、驚きを隠せなかった。
しかし、僧侶や法華講員と身近に接してきた人びとにしてみれば、決して驚くことではなかった。
これまでに、彼らの、学会や山本会長に対する悪口をしばしば耳にしてきたし、腐敗、堕落した僧侶の姿を目の当たりにし、胸を痛めてきたからである。
むしろ、″宗門でも、ようやく僧侶などの実態をつかみ、適切な指導をしてくださるようになった。これで僧侶も法華講も、本当の信心に目覚めてくれるだろう″と、安堵に胸を撫で下ろしたのである。
いずれにせよ、学会員は皆、″日達上人は学会を正しく評価してくださっている。ますます頑張らなければ″との思いを強くしたのであった。
35 宝剣(35)
この訓諭の発表に至るまでには、どれほど、会員の苦しみがあったか、計り知れないものがある。
それまでに、山本伸一のところへ、会員から、僧侶に関するさまざまな訴えが寄せられていた。
学会員が折伏した友人を連れて、御授戒のために寺院に行ったが、事故による交通渋滞で数分遅れただけで、けんもほろろに断られたという人もいた。
しかも、住職は庫裏でテレビを見ていたというのである。
また、「学会が折伏ばかりするから、昼も夜も御授戒が忙しくて、休養もとれない」と文句を言う僧侶もいた。
更に「学会員が寺を使って会合を開くのは迷惑だ」と言う僧侶もいれば、学会の会合の時には、御本尊のお厨子の扉を開けない寺さえあったのである。
広宣流布のために懸命に働く学会員にとって、僧侶から折伏や会合をなじるような言葉を聞かされた悔しさは、いかばかりであったことか。
なかには、「学会は、やれ選挙だ、文化だと言っているが、そんなことは信心とは関係のないことだ。学会といっても在家の集まりなんだから、そんなことより、会員をしっかり寺につけて、僧侶の指導を仰いでいればいいんだ」と、広言して憚らない僧侶さえいたのである。
彼らは、苦悩にあえぐ民衆を救済せんとされた大聖人の御心を知ろうともしなければ、広宣流布をしようとする気持ちもなかったのであろう。
それゆえ、学会の一つ一つの活動の意味も、わからなかったのである。
また、僧侶の行状も目にあまるものがあった。勤行をしなかったり、夜ごと、遊興にふける僧侶の話も枚挙に暇がなかった。
一方、法華講員のなかにも、学会への謗言を吐く者がいた。
もともと法華講は、各寺院に所属していたが、それが全国的に組織化され、法華講全国連合会が結成されたのは、一年前の一九六二年(昭和三十七年)七月のことであった。
以前は、法華講といっても、信心指導の手はほとんど入らず、広宣流布を実現しようという自覚は至って乏しかった。
旧信徒には、折伏はもとより、勤行さえできない人が多かったのである。
また、その活動も、講ごとにバラバラであった。
その間隙を突くように、信仰を食い物にしようとする野心家が講をつくって講頭となり、寺から寺を渡り歩く事態も生じていた。
36 宝剣(36)
学会が、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を果敢に推進する姿に触発され、宗門としても法華講を立て直そうとする機運が盛り上がっていった。
そして、全国的な組織化が進められ、法華講全国連合会が結成されるに至ったのである。
法華講の連合会のなかには、学会を″新参者″とみなし、もともとの檀信徒である自分たちの方が、尊重されてしかるべきであるという強い思いをいだいている人が少なくなかった。
また、社会が、日蓮正宗といえば創価学会という見方をしていることも、面白くなかったようだ。
なかには嫉妬を剥きだしにして、学会への誹謗を繰り返す者もいたのである。
「学会、学会というが、学会員は皆、最近になって入信した人間たちではないか。同じ信徒といっても、代々、日蓮正宗であった我々とは格が違う」
「学会が変な折伏をするから、質のよくない人間が正宗信徒になって困る」
こうした非難に、学会員は耐えながら、ただひたすら、人びとの幸福をわが使命と定め、広宣流布に邁進してきたのである。
伸一は、僧侶の醜態や法華講員の学会への謗言を耳にするたびに、激しく心を痛めてきた。
そして、宗門の役僧などにそれを伝え、僧侶の規律を正すように、強く要請してきた。だが、何も改まらなかった。
しかし、それも当然であると思える節があった。というのは、会員からの訴えのなかには、高僧の遊びに関するものも少なくなかったからである。
――山本伸一は、七月八日、静岡県の富士宮会館の開館式に出席した。
この会館は、総本山の大客殿の落慶を記念して、翌年四月から実施される、三百万総登山の際の指揮所となる重要な拠点であった。
伸一は富士宮会館に着くと、同行の幹部と一緒に、静岡本部長になった大山立らと懇談した。
大山は、登山部の副部長でもあり、宗門と接触する機会が多く、総本山のことについては詳しかった。
その彼が、沈痛な顔で語り始めた。
「ここは大石寺の地元ですので、代々、日蓮正宗だという法華講の人がかなりおりますが、実は、その人たちのなかに、学会員は新参者なのに態度が大きいなどと、批判する者がかなりおります。
そのくせ、自分たちは、大石寺の鐘が聞こえる範囲に住んでいれば成仏できるなどと言って、勤行さえしません」
37 宝剣(37)
山本伸一は、大山立に言った。
「法華講のなかに、学会を快く思っていない人たちがいることは、私もよく知っている。
でも、大きく包容していこうと思う。今は、ともに広宣流布に立ち上がれるように、応援していくことが大事だ。
法華講の学会への批判の多くは、大聖人の御精神が理解しきれないところからくるものだし、学会のことがよくわからないからだともいえる。
法華講の連合会の会長さんとは、私も話し合いを重ねている。やがて、法華講も、学会がいかに偉大な団体かを知り、きっと尊敬するようになるよ。
だから腹の立つこともあろうが、しばらくは我慢してほしい。
もっとも、なかには、団結を図っていこうとする連合会の動きに反する講もあって、連合会としても困っているらしいがね……」
大山は頷きながら、思いつめたような声で言った。
「先生、私が心配しているのは、法華講というよりも、ご僧侶なんです。
この辺りでは、大石寺のご僧侶の評判は、決してよいものではありません。
『放蕩三昧の坊さんたち』と言われているんです。事実、飲み屋に入り浸るご僧侶や、芸者遊びにうつつを抜かすご僧侶を、学会員は目にし、みんな落胆しています。異性に関する問題も、いろいろと噂になっています。
また、ご僧侶同士で酒を飲みに行き、真面目に信心に励んでいる学会員を見下すような話をしていることもあります。
戸田先生も、山本先生も宗門に忠誠を尽くしてこられましたが、ご僧侶の多くは、なんの恩義も感じていません。当たり前のように思っています。
大阪で、学会員には御本尊は下付しないという寺がありましたが、この静岡でも、学会員が折伏した人を連れて行くと、御本尊は下付しても、露骨にいやな顔をする寺があります。
そして、横柄極まりない態度で、毎月、塔婆供養をしに来るように厳命して、御授戒をするんです。
先生、私たちは、広宣流布のためなら、どんなことをしても宗門を守ります。生活がどんなに苦しかろうが、供養もします。事実、そうしてきました。
しかし、広宣流布の団体である学会を誹謗するご僧侶の、いや、坊主と言わせてください。そんな坊主の遊興のための供養は、一銭も出したくありません。これは私だけでなく、みんなの気持ちなんです」
38 宝剣(38)
大山立は、語るにつれて怒りが込み上げてくるのか、次第に言葉に熱がこもっていった。
「坊主と親しい、ある学会員から聞いた話ですが、彼らは、こんなことも言っていたというんです。
『学会は、うるさくなりすぎた。このまま放置しておけば、宗門は、庇を貸して母屋を取られることになる。ある程度、寺が建ったら、解散させた方がよいのではないか。
それで、とやかく言うようだったら、御本尊を取り上げ、登山させないようにすることだってできる。
そうするには、今のうちに法華講を増やし、しっかり固めておくしかない』
坊主たちのなかには、学会を利用するだけ利用したら、あとはなくしてしまおうと思っている者がいるんです。
しかも彼らは、何かあれば、御本尊という信仰の根本を、信徒を服従させるための道具に使おうと考えているんです。恐ろしいことです。
法華講のなかに、学会を敵視している人が多いのも、坊主がそれをあおっているからです。
坊主たちは、僧侶が上で信徒は下であると広言しています。学会員のことなんか、供養を運んで来る奴隷か機械ぐらいにしか思っていません。
彼らには、本気になって広宣流布をしようなんていう考えはないと、私は思います。考えているのは自分のことだけです。信心もなければ慈悲もない。堕落しきっています」
こう語る大山の目は、潤んでいた。
山本伸一は言った。
「確かにとんでもないことだ。君の気持ちはよくわかる。怒るのは当然だ。
実は、そのことで、先日も、理事長の原山さんが、厳重に抗議をしたんだ」
伸一は、傍らにいた原山幸一に尋ねた。
「原山さん、その後、宗門は、なんと言ってきたんですか」
「はあ、善処しますということでしたが、まだ、具体的な回答はありません。毎回、同じような言い方なんです。困ったものです」
それを聞くと、大山は血相を変えて言った。
「先生、私は我慢できません。
いや、私よりも、静岡の男子部が黙っていません。
広宣流布をしようともせず、学会員を苛めるような坊主に、なぜ忠誠を尽くさなければいけないんだと、憤っているメンバーがたくさんいます。
お許しいただけるなら、私たちが総本山に、断固、抗議してまいります」
39 宝剣(39)
山本伸一は、原山幸一に言った。
「原山さん、みんなは我慢の限界に達している。このままでは、埒があかないじゃないか。これから私が宗門に電話をしよう。
これが、みんなの気持ちなんだ。
来春には、大客殿も落成し、三百万総登山も行われる。いよいよ広宣流布の本格的な幕が開こうとしている。今こそ、僧俗和合し、異体同心で新たな前進を開始しなければならない。
大事なことは、単に大客殿という建物を建立することではなく、広宣流布をめざす、清らかな信心の団結の宝塔を築き上げていくことだ。
そのためには、諫言すべきは諫言し、宗門に巣くう悪を断っておくことが慈悲ではないか。
それによって、反発し、私を憎む者も出るだろうが、私が矢面に立てばすむことだ」
伸一が事務所に向かうと、原山も席を立った。
「先生、私が最初に話をしてみます」
原山は、総本山の役僧あてに電話を入れた。
原山と役僧の電話でのやり取りを聞いていると、何も事態は進展していないようであった。
伸一は、途中で電話をかわり、これまでの諸問題に対する、宗門としての具体的な対応を端的に尋ねた。
困惑した声で、役僧が答えた。
「つまり、宗門といたしましても、非常に重大問題であると認識いたしております。
学会に対する謗言につきましても、また、ご指摘のありました僧侶の振る舞いについても、これは、まことに遺憾なことであると、猊下とも話し合っておる次第でして……」
要を得ない、のらりくらりした答えである。
伸一は、業を煮やして言った。
「そうしたお話は、何度も聞いております。私たちはこれまで、宗門の結論をずっと待っておりました。
しかし、何も具体的に手を打とうとされない。その間も、学会員は苦しみ続けているんです。あまりにも無責任ではないですか!」
伸一の鋭い声が室内に響いた。
「大客殿の落成を迎えるにあたっては、僧俗が和合して、また、法華講も一丸となって、広宣流布に進む流れをつくることが最重要事です。
なぜ、本気になって、それに取り組もうとされないんですか。なぜ、悪を野放しにしておくんですか」
40 宝剣(40)
最後に山本伸一は、「弁解や事情説明を繰り返すのではなく、猊下ともご相談して、早急に結論を出していただきたい」と言って電話を切った。
彼はこのあと、富士宮会館で、地元のメンバーとともに勤行し、開館式を行った。さらにそれから、静岡本部の結成大会に出席するため、車で富士市の富士会館に向かった。
車中、伸一は、僧侶が、なぜ、このように、いともたやすく堕落し、悪に染まっていくのかを、考えざるをえなかった。
――宗門は、戦時中、軍部政府の弾圧を恐れて、神札を祭ったことは、よく知られている。
しかし、実は、それ以前から、教義の根本にかかわる「謗法厳誡」の教えを、破り続けてきたのである。
大正以降の主だった事例だけでも枚挙に暇がない。
一九一四年(大正三年)十一月、日蓮宗の池上本門寺に日蓮宗各派の代表が集い、「統合帰一」への基本方針が確認された。
そこには、日蓮正宗の第五十七世の法主阿部日正と、後に第六十世の法主日開となる阿部法運が出席していた。日開は、第六十七世の法主日顕の父である。
この時、日正は身延派など日蓮宗各派との「統合帰一」に賛同の署名をしたのであった。
その後、「統合帰一」は破綻するが、二二年(同十一年)十月、天皇から日蓮大聖人に「立正大師」という大師号が宣下された際にも、日正は日蓮宗各派と行動をともにしている。
この大師号の宣下は、顕本法華宗の管長である本多日生の呼びかけで始まった動きであり、伝教大師、弘法大師などと同様に、大聖人に大師号を賜りたいというものであった。
日正は、「日蓮聖人大師号降賜請願」と題する請願書に署名し、「立正大師」の号が下された日には、日蓮宗(身延派)管長の導師で、一緒に寿量品を読経し、唱題したのだ。
大聖人の御精神とは正反対の権力への迎合である。
また、日蓮宗各派といえば、大聖人の法義を破り、獅子身中の虫となった宗派である。
その管長と勤行をすることは、「謗法と同座す可からず与同罪を恐る可き事」との日興上人の御遺誡に背く行為であることは明白である。
日蓮正宗の法主による謗法は、さらに続いた。
一九三一年(昭和六年)十月の大聖人の第六百五十遠忌を前にして、日蓮宗では、大聖人の「大師」号となった、「立正」の文字を認めた天皇の勅額を、身延山久遠寺に下賜してもらおうとの計画を進めていた。
41 宝剣(41)
日蓮宗(身延派)は天皇の「立正」の勅額を得て、自宗派が、日蓮宗各派のなかで中心であることを示そうと画策したのである。
この身延山久遠寺への勅額降賜の請願に対して、文部省からは、日蓮宗各派の管長の承諾を得るようにとの要請があった。
日蓮宗の高僧は、念書を持って各派の管長を訪ね、大石寺にもやって来た。
当時の正宗の管長は、阿部日開であった。
彼らの用意した念書には、身延山久遠寺が宗祖の「廟所在地」であるとしたうえで、久遠寺住職から請願のあった勅額の下賜の件は異議がない旨が記されていた。
つまり、身延こそ、大聖人の御霊骨を納めた廟所、すなわち、墓所であると明言しているのである。
日開は、なんとこの念書に、管長として署名・捺印したのである。
日興上人が身延を離山されたのは、学頭に任じた民部日向が、地頭の波木井実長が犯した、釈迦像の造立や神社への参詣などを容認したからである。
大聖人の仏法の法義に違背し、謗法の山となった身延は、悪鬼魔神のすみかと化した。そんな身延を大聖人の廟所にしておくことなど、断じてできないがゆえに、日興上人は御霊骨を奉持されて、断腸の思いで離山を決行されたのである。
日興上人は、「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へども……」(編年体御書1733㌻)と認められている。御胸中は、いかばかりであられたことか。
その身延を廟所とする念書に、署名・捺印し、同意した法主日開の行為は、日興上人への大反逆である。いや、大聖人の御精神を、正法正義を踏みにじる裏切りという以外にない。
この宗史の汚辱をそそいだのが創価学会であった。
一九五五年(昭和三十年)三月十一日、北海道・小樽で、日蓮宗(身延派)と創価学会の間で行われた法論「小樽問答」で、学会は、本尊をはじめ、身延には大聖人の御霊骨がないことなど、身延派の誤りを徹底的に破折し、大勝利を収めたのである。
この時、学会側の司会を務めたのが、青年部の室長の山本伸一であった。
伸一は第一声から、身延派の信者が、続々と学会に入会している事実をあげ、身延派の誤りを鋭く指摘していった。
これによって、学会側の勝利の突破口が開かれ、日興上人の正法正義が守られたのである。
42 宝剣(42)
戦時中、軍部政府が、思想統制のために、日蓮宗各派の合同を打ち出した時にも、正宗僧侶のなかには、これに従おうとする僧侶もいた。
そのなかで、牧口常三郎は、宗祖大聖人、日興上人の正法正義を守り抜くために、日蓮正宗は単独で認可を取るべきであると主張した。
そして、牧口の奔走の結果、一九四一年(昭和十六年)三月、日蓮正宗は、宗制単独認可にこぎつけたのである。
また、牧口、戸田が逮捕される二年前の四一年(同十六年)九月、宗門は「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり……」など、御書の重要な御文十四個所を削除するよう指示している。
国家神道を精神の支柱にした軍部政府から、不敬罪に問われることを恐れたのである。
大聖人の大宣言ともいうべき字句を削り取るこの行為は、かつて五老僧が、大聖人の御書は仮名文字で書かれているので、「先師の恥辱」であるとしてスキカエシにし、あるいは、焼き捨てたことに通じよう。
そして、遂には、総本山に神札をまつり、学会にも神札を受けるように指示するに至るのである。
しかも、学会が、断固、それを拒否し、牧口、戸田が逮捕、投獄されると、宗門は関わりを恐れて、信徒から除名し、学会の登山を禁止したのだ。
彼らは、「血脈相承」や「法水写瓶」を自称しながら、大聖人の御精神のままに戦い抜いた学会を切り捨てたのである。
この驚愕すべき事実こそ、宗門の本質を端的に物語っていよう。
宗門が犯してきた、これらの数々の謗法や、学会に対する仕打ちは、何を意味するのか。
――末法という濁悪の世にあって、広宣流布に生きるならば、御聖訓に照らして、法難が競い起こることは必定である。
ゆえに、広宣流布は「不惜身命」の決意に立つ人によってのみ、成し遂げることのできる聖業といえるのである。
だからこそ日興上人は、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と遺命なされた。
しかし、宗門の僧侶の多くは、その御精神など一片だになく、自分かわいさのあまり、ひたすら法難を恐れ、栄耀栄華を求め、「保身」のみを旨としてきたのである。
「保身」に走るならば、広宣流布を捨てて、権勢におもねるしかない。
43 宝剣(43)
職業僧侶たちの「保身」の帰結が、法をねじ曲げ、無残な大謗法を犯し続けることになったのである。
しかも、「正法正義」を守っているかのように取り繕い、権威を維持することに慣れきってしまった彼らには、謗法を犯したことへの痛みもなければ、反省もなかった。
生き方の根本にあるのは「法」ではなく、自分たちの「保身」であるからだ。
「広宣流布」を捨てて、「保身」が目的となれば、人間は規範を失い、欲望の奴隷となっていく。
彼らの謗法行為と遊蕩とは、表裏をなすものといえよう。
それゆえ、宗門は「法師の皮を著たる畜生」の僧団と成り下がっていったのである。
日蓮正宗の歴史をつぶさに見るならば、日寛上人らの清浄な一部の僧侶を除いて、大聖人の信心の血脈は分断に分断を重ね、その御精神は失われて久しいといってよい。
一方、学会は、牧口常三郎も、戸田城聖も、獄中にあって正法正義を貫き、牧口は殉教した。
大聖人の御精神という、まことの仏法の法灯は、学会によって守られ、信心の血脈は、学会に受け継がれたのである。学会が仏法の断絶を救ったのだ。
牧口が広宣流布の旗を掲げて、折伏に立ち上がった時、広宣流布をする決意など微塵もない宗門の僧侶たちは、それを火を吐くように非難したのである。
当時は、学会員が、不幸に悩む人びとを折伏し、寺に連れて行っても、ほとんどの寺が、授戒を断っていたのだ。
宗門は、大聖人の民衆救済の大慈大悲を嘲笑うかのように、苦悩をかかえた民衆には、冷淡このうえなかったのである。
当初、学会員に授戒をする寺は、わずか二カ寺にすぎなかった。
僧侶たちが大切に遇していたのは、身分が高い、富裕な檀徒であった。
大聖人は「上一人下万民一同に帰伏する正法なり」と仰せであるにもかかわらず、彼らの多くは、民衆に慈悲の眼を注ぎ、布教の手を差し伸べることはなかった。
病苦や経済苦をかかえた民衆は、実入りが少ないだけの、面倒くさい存在と感じていたのであろう。
また、折伏によって競い起こる、法難を恐れていたのである。
そんな僧侶たちに、牧口常三郎はどれほど心を痛めてきたか。
牧口の宗教改革の最大の障害は、実に宗門にほかならなかった。
44 宝剣(44)
牧口常三郎は、次のように述べている。
「日蓮大聖人御在世当時の天台宗は、現今の日蓮宗の中でも『日蓮正宗』に相当すると思はれる」
大聖人御在世当時の天台宗は、腐敗、堕落の様相を呈していた。
日本天台宗の開祖である伝教大師は、法華経を根本とし、比叡山に大乗戒壇の建立に努めた。にもかかわらず、その法を正しく継承すべき弟子たちが、真言などの誤った教えを取り入れ、伝教の本来の教えも、精神も失われていたのである。
牧口の指摘は続く。
「さらば従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問はねばなるまい。そして魔が起らないで、人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか」
ここでは「日蓮正宗の信者」との表現が使われているが、単に信徒を意味するのではなく、むしろ「人を指導してゐる」僧侶をさしている。
御聖訓に照らして、三障四魔が競い起こらぬということは、広宣流布の戦いを放棄しているからである。
牧口は、そうした臆病な僧侶の、「保身」がもたらす罪悪性を、鋭く突いたのである。
弟子の戸田城聖もまた、宗門の「悪」とは戦い続けてきた。
戸田は言う。
「折伏もしないで折伏する信者にケチをつける坊主は糞坊主だ。
尊敬される資格もないくせして大聖人の御袖の下にかくれて尊敬されたがって居る坊主は狐坊主だ。
御布施ばかりほしがる坊主は乞食坊主だ」
「御僧侶のなかには、また次のごとくいうであろう。『めったやたらに本尊はお下げしない』と。とんでもないことである。そんなことで、寺を建てたが、本尊を下げわたさないというならば、寺は建ったが、なんのはたらきもしない。ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる」
「御僧侶を尊び、悪侶はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体たらんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ」
「……御住職をいばらしてはなりません。(中略)坊さんは、信者を家来か召使のごとく思う悪いくせがある」
「自分に力がなく、また、いいかげんだというと、信者の実力ある者のきげんをとって、そうして、その、自分の地位を安定せしめようとする坊さんがある。そういう坊さんにきげんをとられた信者は、かならず退転して、ろくな目にあわない」
45 宝剣(45)
戸田城聖は、悪侶には、このうえなく厳しかった。彼は堕落しきった僧侶の姿を目にすると、決して、容赦しなかった。
激しく怒鳴りつけることもあった。
だから、戸田が総本山に行くと、やましさのある僧侶は、すごすごと逃げ出していった。
ところが、戸田が帰ってしまうと、酒を酌み交わし、彼を口汚く罵る僧侶たちもいたのである。
「信徒の分際でつべこべ抜かしやがって……」
そんな坊主たちの、聞くに堪えない言葉にいたたまれなくなって、涙ながらに、その実態を訴えてきた、総本山に勤務する学会員の従業員もいた。
戸田が宗門の悪しき風潮や悪侶と戦ってきたのは、宗門を守り抜こうとの思いからであった。
だからこそ、彼は、戦後の農地改革で多くの土地を失い、衰微しきった総本山の復興に、最大の力を注いできた。
そして、宗門の経済的な基盤の確立に尽力し、五重塔の修復をはじめ、奉安殿や大講堂など、相次ぎ伽藍を建立寄進した。さらに、各地の寺院の建立にも努めてきたのである。
それは、大御本尊を奉持し、本来、宗祖大聖人、日興上人の御精神を継承すべき宗門が使命に目覚め、学会とともに僧俗和合して、広宣流布の聖業の成就に邁進することを願ってのことであった。
戸田の宗門復興の最大の眼目は、「信心の復興」にこそあった。
それゆえに彼は、保身のために謗法さえも平気で犯す、悪侶という「一凶」を断たんと、厳しく糾弾したのだ。
まさに「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」との仰せ通りの行動であった。
そこに、広宣流布を成就しゆくための、宗教改革の道がある。
だからこそ、戸田は、死を間近にした病の床で、弟子の山本伸一に、「宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」と遺言したのである。
自ら投獄され、宗門の歴史を知悉していた戸田は、権威の衣に身を包み、精神の闘争なき僧侶こそ、「悪鬼入其身」(悪鬼其の身に入る)となり、広宣流布破壊の元凶になりかねないことを予感していた。
しかし、そうさせまいというのが、戸田の強い決意であり、そこに護法の赤誠があった。
46 宝剣(46)
富士会館への車中、山本伸一は、戸田城聖の精神に立ち返るならば、僧侶たちの腐敗や学会への誹謗を、絶対に放置していてはならないと思った。
しかし、彼が宗門に徹底して抗議をすれば、多くの僧侶の反発を招くことはわかっていた。
だからといって、今の事態を見過ごすならば、宗門の「悪」を野放しにし、助長させることになってしまうことは明らかである。
伸一は、宗門に諫言できるのは、もはや自分しかいないことを痛感していた。また、心ある僧侶は、自分の真心の諫言に耳を傾け、わかってくれることを彼は信じていた。
″戦わねばならぬ。広布のため、会員のため、宗門を守るために……″
彼は心を決めた。
車窓には、雲を突き抜けて、富士が堂々と天空にそびえ立っていた。
伸一が富士会館に到着すると、さっきの役僧から電話が入った。
問題のある僧侶については、個別的に、よく指導するので、穏便にすませたいとの意向であった。
伸一は言った。
「皆さん方は、この事態を、どう受け止めていらっしゃるんですか!
私たちは、これまで、何度となく、そうしたお話をうかがってきました。しかし、同じことが繰り返されてきたではありませんか。
僧侶も、法華講も、大聖人の仰せ通りに信心に励んで、広宣流布を推進している学会を批判し、学会員を差別して苛める。私たちは間違ったことなどしておりません。
それをはっきりさせていただきたいのです。問題をあいまいにし、お茶を濁すような対応はおやめいただきたい。後世に禍根を残すことになります。
私は納得できません」
ほどなく、役僧は「わかりました。検討します」と言って電話を切った。
伸一は、午後三時過ぎから、静岡本部の結成式に出席した。
結成式が終わって、間もなく、役僧が富士会館にやって来た。
伸一は、ここで、再度、僧侶の振る舞いや学会への謗言、法華講の問題などを具体的にあげ、学会員がどれほど苦しみ、いやな思いをしているのかを、諄々と語っていった。
しかし、役僧の態度は、どこまでも他人事であり、ただ「困ったことですな」と、繰り返すばかりであった。
役僧は言った。
「山本先生、あまり、苛めないでくださいよ」
反省の色はまるでない。
47 宝剣(47)
山本伸一は怒りを堪えながら、宗門自らが、宗内の「悪」と戦わなければ、やがて「悪」によって滅んでいくことを訴えたあと、力を込めて語った。
「来春には、念願の大客殿も落成し、記念の三百万総登山も始まります。
学会員は、僧俗和合し、いよいよ本格的に広宣流布を推進していくべき時を迎えたと、懸命に活動に励んでおります。
その学会を、僧侶が誹謗し、しかも、法華講の学会への謗言をあおっている事実もあります。
さらに、僧侶が遊興にふけり、世間のもの笑いになるような行為を続けている。あまりにも情けない、堕落しきった姿であり、純粋な信徒を欺く行為です。いや″聖僧たれ″との、日興上人の御指南への反逆ではありませんか。
もしも、学会に対して、おっしゃりたいことがあるなら、私に、直接、言ってください。意見でも、要望でも、文句でも結構です。
しかし、私には、何も言わないで、陰で学会の批判をし、会員を苛めるようなことをしている。これではあまりにも卑劣です。
学会員は、世間から悪口を言われ、時には村八分にされたりしながら、健気に必死になって折伏に励み、宗門の興隆のために働いております。
大聖人ならば、この尊い仏子たちを、衣の袖で覆うように、包容してくださるはずです。しかし、仏弟子を名乗る僧侶が、その会員を足蹴にするような振る舞いや発言をする。
そんなことが、許されてよいわけがありません。
もし、宗門で対処できないとおっしゃるなら、私が戦います!」
この言葉を聞くと、役僧は慌てて言った。
「いや、宗門として、必ず対応いたします。
猊下ともご相談し、これからは、こうした問題が起こらないようにいたしますから……」
「今度は、本当に信じていいんですね」
伸一は、役僧の顔を見すえて言った。
「はい」
「では、具体的にどうしていくかは、お任せいたします。
しかし、これまでのようにあいまいにせず、責任をもっていただきたい」
伸一は、役僧を会館の玄関まで出て見送ると、こうつぶやいた。
「これでは、学会員がかわいそうだ……」
訓諭を宗門が発表したのは、それから一週間後の、七月十五日であった。
48 宝剣(48)
宗門の庶務部長は、この訓諭を受けて、聖教新聞に談話を発表している。
「今回の訓諭にお示しのとおり、御本尊様のご威光により、また、よき檀那である創価学会の熱心な折伏で、わが宗門は世界的なものとなった。
宗務院としては、猊下の仰せどおり、僧俗一体で進んでいくことを心に期している。
今や大客殿の完成を間近に控え、猊下の訓諭をわが身に体して、ご先師のご遺訓を守って、創価学会と協力していくことを誓うものである……」
また、法華講も、全国連合会の会長が、聖教新聞に談話を発表した。
そこには、「法華講員たる者、ひとりもあますことなく、これを奉戴し、広布への障害になるようなものは、断固これを排し、学会の進軍のあとについて、自行化他の信心に邁進し、猊下のご深慮にお応えしたてまつる覚悟である」とあった。
そして、「不世出の大指導者、法華講大講頭」である学会の会長の山本伸一の「慈愛あふれるご指導によって、法華講員の一人ひとりが、信心強盛に、広宣流布、仏国土建設への戦いを勝ち取りうるよう祈る次第である」と結ばれていた。
この訓諭の発表を契機にして、学会員を苛め抜いてきた大阪の蓮華寺、高知の大乗寺といった寺が、やがて宗門から離脱していくことになる。
また、これによって、僧侶、法華講の学会への誹謗は、一応は収まり、大石寺の僧侶が、富士宮などで遊ぶ姿を見ることは少なくなった。
しかし、本質的には、何も改まることはなかった。陰に回れば、相変わらず学会への誹謗がなされていたし、遊興の場が、目立たぬところに移ったにすぎなかった。
そして、後年、権力欲と保身の権化さながらの日顕が、宗門のリーダーたる管長、法主の座に就くと、宗門は完全に邪悪と謗法の巣窟となっていくのである。
伸一は、訓諭の発表に、ひとまずは安堵したが、僧侶たちの心に巣くう悪の根は、断たれていないことを痛感していた。
「魔」は、広宣流布を断絶せんがために、宗門という根本部分につけ入ってくることは、歴史を振り返れば明らかであった。
彼は、宗門を仏法破壊の一凶とさせぬために、信心の宝剣をもって、衣の権威に潜む魔性との闘争を開始していったのである。
(この章終わり)