Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第二章平和の橋
「平和と人生と哲学を語る」H・A・キッシンジャー(全集102)
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「軍事力なき政治力」
「日本の経済力をどう政治力にするか。つまり軍事力なき政治力という実験だ」
池田
ところで博士は、ある日本のジャーナリストとの対談の中で、「日本の経済力をどう政治力にするか。つまり軍事力なき政治力という実験だ」と語っておられた。
私はこの発言に注目し、重く受けとめた一人である。と言いますのも、「経済大国」が「軍事大国」化しない理由は歴史的にみて考えられないという従来の博士の説――は、リアルなだけに重々しい問題意識として私の脳裏にあったからです。
貿易摩擦の問題が端的に示すように、今や有数の「経済大国」となった日本の進路は、世界の動向に重大な影響をおよぼす存在と言えます。
であるからこそ私は、過去の歴史がどうあれ、よしんばそれが未踏の道であっても、日本は「軍事大国」以外の道を歩まねばならない、と強く念じておりました。
ゆえに「軍事力なき政治力という実験だ」との博士の的確な現状把握に強い共感をおぼえたのであります。
さて、そこで私が言及したいのは「政治力」の内実です。ここで言うところの「政治力」とは、たんに国際政治上の、いわゆるパワー・ポリティクス(権力政治)の次元における駆け引きの道具といった、旧態依然のもので良しとしてはならない。
あくまでも平和国家日本としての確たる理想の火をかかげながら、経済と文化の力を使いきっていくという意味での「政治力」であるべきでしょう。
このような行き方の選択こそ日本が世界から期待されているところであり、国際社会の中で果たす役割と私は考えたい。
キッシンジャー
日本は、中国に次いで、世界で最も長くつづいた自治の歴史をもっており、非常に長い期間、実際、何世紀もの間、世界から孤立していました。日本が世界の舞台に登場したとき、世界
の人々は、日本人の努力と規律、また同質性がもたらした、日本の工業化の迅速さに目を見張りました。
しかし、当然のことながら、日本には国際的な事業における協調の経験がほとんどなかったのです。これは、アメリカと日本が敵として対峙しあう戦闘の一原因ともなりました。
その後の日本の進歩は、明治維新以後の時代と比べても、はるかにめざましいものでありました。日本は、工業生産高において、世界第二位の工業先進国になりましたし、質の面では第一位です。東京は金融の中心地にもなりつつあります。
現在、世界経済の相互依存性がますます高まっているときに、日本の発展がつづいているのです。そういうわけで、日本の経済・金融における影響力は増大し、かつ世界的になっております。
日本の工業は多くの場合、優れた競争力をもっていますが、それが必然的に他の工業国との緊張を生むことになったのです。
したがって、保護主義とそれに対する報復という循環が始まる前に、協調的な解決を図る必要があります。個々の商品を対象に交渉しても、均衡とコンセンサスは得られません。
まず総体的な目標を設定して、主要工業国の政策によってその目標を達成する必要があります。
池田
日米の経済問題は、日本の企業も国民も、深刻に受けとめています。これは、両国内にあまりに多くの複雑かつ困難な事情があり、一朝一夕に解決する見込みはありません。
幸いにも、最近の調査結果にも裏付けられるように両国の国民の間には、信頼感があります。
私は、それがあるかぎり、両国の努力いかんで協調の方向へと道を見いだせると思う。その意味からも、日本は大局観に立った個々の課題への誠実な対処が大切である、そして真の平和国家、文化立国への道を歩むべきであると、一貫して考えてまいりました。
キッシンジャー
日本が、その経済力にふさわしい政治的役割を果たさなければならないことは、目に見えています。その場合、日本は適切な心配りと抑制と各国の理解を求める態度を必要とするでしょう。
この流れの中で、日米両国間の友好関係が中枢となります。両国が共通の問題を解決するために協力しあっていくかぎり、数々の困難を克服し好機へと転換していくことができます。もし日米両国がこの課題に失敗するならば、太平洋世界の未来は暗いものとなるでしょう。
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資本主義・社会主義と今後
精神的欲求を充足するためには、資本主義を補足する他の要素が必要になる
池田
そこで現代の世界の社会体制は、大別すれば資本主義(自由主義)と社会主義に分けられる。その二つの体制は、今後、どのような方向をたどるかという見通しとなると、そう簡単にはいかないようです。
私は、自由主義社会と社会主義社会とが、軍事ブロックによってイデオロギー的に区分けされ、対立しているような状況は、長期的にみれば徐々に解消されるであろう。また国内体制の面でも、それぞれ、互いに良いところを採り入れあっていく混合経済体制的な方向へ向かうであろうし、そうあったほうが良いと思っております。
問題は、資本主義(自由主義)か社会主義かという二者択一の選択の問題が、もはや、欧米諸国や日本などの先進工業国において、青年をひきつける魅力あるテーマ、スローガンではなくなっているという事実でしょう。
日本でも、戦後十数年ぐらいまでは、資本主義から社会主義、共産主義への移行が歴史的必然であるとする、マルクス主義のテーゼ(綱領)が一定の“磁力”をもっていました。
とくに、戦後まもない一時期には、幾度となく“革命前夜”が叫ばれ、青年たちの行動には、善悪はともかく、凄絶というか、考えられないほどの情熱があった。現在からみれば、文字どおり隔世の感があります。
現代の若者に、そうした時代を理解させることは、おそらく不可能でしょう。
博士は、“イデオロギーの終焉”が言われて久しい現在、資本主義(自由主義)と、社会主義の今後の動向に、どのような感触をおもちですか。これは簡潔で結構です。
キッシンジャー
まず私は、経済機構は手段であると思います。目的ではありません。
池田
そのとおりです。
キッシンジャー
私が共産主義に反対するのは、だれが何を所有することになっているか、という問題からではありません。
私が共産主義に反対する理由は二つあります。第一に、共産主義は、少数支配による全体主義体制に通じているからです。
その少数の支配者は、みずからを歴史創造の前衛と任じております。
第二に、彼ら少数者が、民衆の物質的な次元の願望さえ満たすことのできない経済制度をつくりあげた、ということです。そのために、自由を抑圧するとともに、耐乏生活を押しつけているのです。
池田
欧米諸国の事情については、つまびらかではありませんが、日本でも社会主義や共産主義の魅力は、薄れています。
若者は、エネルギーのはけ口を見いだすことができず、“ミーイズム”と呼ばれる自分だけの閉ざされた世界に引きこもったり、保守化の波に身をゆだねる、という現状ではないでしょうか。
キッシンジャー
現在は、民衆の物質的欲求を満たすという点においては、資本主義のほうが優れております。
しかし、精神的欲求を充足するためには、資本主義を補足する他の要素が必要になります。
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多すぎる情報の中で
現代に生きるわれわれは、情報の洪水が個人の孤立化を進めるというパラドックスをかかえている
池田
今日、先進諸国は工業化社会の段階を終えて、情報化の波が洗い始め、それぞれ新しい対応を迫られています。情報化社会の最大の問題点は、すでに指摘されているように、極度の人間疎外にあります。
ご存じのように、情報化社会は、すべての知識を情報の断片に還元して問題を処理してしまう社会である。一個の人間、あるいは人類がこれまで蓄積してきた知識の体系が、連関性を失って拡散してしまう性格を強くもっています。
しかも情報というものは、その性質上、より多く集められることによって力を発揮するものです。生活次元で言っても、私たちは朝から晩まで、じつに大量の情報洪水の中で生きていると言ってよい。しかしそれをどう受けとめ、活用していくかについての訓練は、往々にしてなされていないのが現状ではないでしょうか。
大衆は一方通行の情報の流れにさらされ、主体性を喪失して、その中に埋没し、無気力化を余儀なくさせられております。その事態が、必然的に行き着くのが、情報操作による大衆操作の問題です。
いうまでもなく、情報はすべての人に平等に与えられているわけではない。この情報の偏在という問題があります。日常、情報が洪水のごとく流されているといっても、本当に重要な情報、価値ある情報は、ごく一部の層によって握られ、管理されているのが常である。まさに、情報を握る者は力を握るのです。
こうした一部の層による情報の独占・管理は、民主制社会の基盤を掘り崩す恐れを多分にはらんでいます。
私の知人であるオックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授は、情報化社会では、一方に情報を独占する巨大機構、他方に無気力化した大衆という二極分化が進む。その中で、その中間にあって大衆の参加意識をくみあげ、他方、巨大機構にも一定の制約、影響を与えていく点に、宗教組織の社会的意義を見いだしておられました。
また近年、日本でも職場のOA化(オフィスオートメーション化)がめざましい速度で進んでいる。従来の作業の多くの部分がコンピューター・システムに置き換えられ、これを使いこなせないと、職場に適応していくことができなくなります。中高年者が慣れないシステムに悪戦苦闘し、そのストレスで神経をすり減らしている姿は、今や決して珍しいものではありません。
キッシンジャー
今日以前のほとんどの世代においては、情報不足が問題となっておりました。
しかし現在では、一人ではだれも処理できないほどの情報があります。
池田
多すぎる。
キッシンジャー
その反面、情報の意味に対する理解は不足しております。
情報というものは、なんらかの価値観や目的観と結びついた場合に、初めてそれ自体の意味をもつものです。
したがって、現代に生きるわれわれは、情報の洪水が個人の孤立化を進めるというパラドックスをかかえております。
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いわゆる“メディアの権力”について
“時代の空気”“実態のない告発”“言論の凶器”
池田
それに関連して、マスメディアは「第四の権力」と言われるように、現代において強大な力を得ております。
しかし、司法、立法、行政の三権は、その分立関係が憲法などによって明文化され規定されているのと異なり、報道界の権力には他のような規定が明確でありません。
言論・表現の自由、「知る権利」などの一般的な規定は存在しても、明確に制度化されたものではなく、チェック・アンド・バランスの相互抑制の枠外にあります。
その運用はただただ人為的努力にゆだねられていると言えましょう。ここに報道界のありようの問題点があります。
マッカーシー反共旋風は、その一つの象徴であったと思います。すなわち、“時代の空気”に流され、長期にわたりマッカーシーの跳梁を許した弱さ、客観報道の名分のもと、結果的に彼の“実態のない告発”を喧伝しつづけることとなったもろさが、無実の被告発者に対して、“言論の凶器”とさえなったのです。
また、報道界が、民衆の知る権利に応える“公器”という、本来の目的と理想を忘れ、言論・表現の自由の名分のもとに、恣意的でかつ明らかに偏向的な報道、人権無視の報道の猛威を振るったならば、社会に与える悪影響ははなはだしいものがある、と言わざるをえません。昨今のわが国の言論界、マスコミ界をめぐる現状の中で、私はこのことを痛感してきた一人でもある。
もちろん、これは安易に他の政治権力や法規定にその掣肘役をゆだねることが、言論の自由そのものをいちじるしく制限し、失わせかねないというむずかしさを十二分に理解し、また大前提として申し上げるのです。
キッシンジャー
まずメディアについてですが、もちろん私の場合は、アメリカのメディアについて語るのが適任でしょう。他の国のメディアについては詳しく語ることができません。
最初に、アメリカのメディアは多くの優れた業績を残してきました。政治権力の濫用を抑制する役割を果たし、多くの社会悪を摘発してきました。
メディアの活躍がなかったら、そうした社会悪が暴露されることはなかったでしょう。その点では、わが国のメディアは十分信頼に値します。
池田
そうでしょうね。
キッシンジャー
しかしまたメディアは、アメリカ社会の中で〈抑制と均衡〉の対象とならない唯一の制度であります。メディア同士が互いに批判しあうということは絶対にありません。
したがって、あるメディアが不当な行為をしたとしても、他のメディアがそれを指摘することはありません。むしろその行為を支持する傾向があります。
池田
そのとおりです。
キッシンジャー
第二に、多くのジャーナリスト、とくに若い世代の人は、既存の制度に敵対的な態度をとりながら成長してきました。ゆえに彼らはきわめて批判的であり、しかもその非協調的な態度を中和する前向きの視座を欠いているのです。
このように、社会全般におよぶメディアの影響は、非常に狭い、ときには破壊的ですらある見方から出てくる傾向があります。
池田
そうですね。日本と同じだ。(笑い)
キッシンジャー
しかし私は、政府がメディアを統制すべきではないと信じております。メディアが、効果のある自粛の制度を、みずからの手でつくるべきだと思います。
池田
賛成です。とくに十五年ぐらい前から、私もそのように思っておりました。
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